第25話
朝の仕入れから戻ったアンナが、浮かない顔で工房の扉をくぐってきた。手にした籠の中身よりも、その表情の方が気にかかる。
「アンナ、何かあったの?」
「それが……。市場で、妙な噂を耳にしまして」
言いにくそうに口ごもるアンナに、私は針を置いて向き直った。
「妙な噂?」
「はい。最近、東の通りに新しく開いた店が、うちとよく似た人形を、随分と安く売っているとか」
思いがけない話に、私は思わず眉をひそめた。
「似た人形、というのは」
「詳しいことまでは分かりませんが……。噂では、お客様の想い人を模した人形を作る、という触れ込みだそうです」
まさに、うちの工房と同じ商売のやり方だ。胸の奥に、ざわざわとした不安が広がっていく。
「その店の名前は?」
「『麗しの工房』とかいう名前だったかと。店主は、ゴードンという商人らしいですわ」
聞き覚えのない名前に、私は首を傾げた。まだ開店して日も浅いというのに、早くも商売敵が現れるとは思わなかった。
「一度、様子を見に行った方がいいかもしれないわね」
「私も、そう思います」
そんな話をしているところに、開店の呼び鈴が鳴った。顔を上げると、常連のご婦人が困ったような表情で立っている。
「リゼットさん、ちょっと聞いてもいいかしら」
「はい、なんでしょう」
「東の通りにできた新しいお店、ご存知? うちの人と同じくらい安く、似たような人形を作ってもらえるって、娘が言うものだから」
やはり、噂はすでに広まり始めているらしい。私は努めて平静を装いながら答えた。
「存じております。私どもとは、また別のお店ですわ」
「そうよねえ。でも、値段だけ見たら、そっちに頼みたくなる気持ちも分かるし……。品質は、大丈夫なのかしら」
「それは、私からは何とも」
言葉を濁すしかない自分に、もどかしさが募る。婦人は少し考えた後、結局いつも通りの注文を置いて帰っていったが、その背中を見送りながら、私は胸のざわめきを抑えられずにいた。
その日の午後、少し手が空いた隙を見て、私はアンナと共に噂の店へと足を運んだ。東の通りに新しくできたその店は、うちの工房よりも一回り大きく、派手な看板を掲げている。
「随分と、目立つ店構えね」
店先には、顔も髪も衣装もまだ施されていない、肌色の布地だけの人形が並べられていた。生地は粗く、縫い目も雑で、とても丁寧な仕事とは思えない出来だった。それでいて、値段は私の店の半分以下に設定されている。
「これは……。ひどいものね」
「本当ですね。こんな出来で、よくお客様に出せるものです」
アンナも呆れたように呟く。それでも、店先には何人かの客が集まり、値段の安さに惹かれるように品定めをしていた。
「安かろう悪かろう、という言葉が、そのまま当てはまりますわね」
そんな話をしていると、店先で人形を眺めていた若い娘が、連れの友人に声をかけているのが耳に入った。
「これでいいんじゃない? 安いし」
「でも、まだ顔も髪もついてないじゃない。注文したら、ちゃんと似せて仕上げてくれるのかしら」
「まあ、贈り物ならこれくらいで十分でしょ」
その時、店の奥から恰幅のいい中年男が出てきた。愛想笑いを顔に貼り付けながら、二人の客に近づいていく。
「お嬢さん方、お目が高い。うちの品は、どこよりも早く、安くお作りできますよ」
軽薄な口調で捲し立てるその男が、おそらくゴードン本人なのだろう。値段の安さばかりを強調し、品質については言葉を濁す様子に、私は思わず眉をひそめた。
「アンナ、あれが店主のゴードンかしら」
「間違いないかと。噂に聞いた通り、口の上手そうな方ですわね」
冷ややかに言い放つアンナの声に、私は密かに同意した。目先の利益だけを追う商売のやり方に、心の底から嫌悪感が湧いてくる。
軽い調子で話す二人の様子に、私は胸が締め付けられる思いがした。品質より値段を優先する客がいるのは仕方のないことだとしても、その先に待っているのはきっと、落胆と失望だ。
「ええ……。でも、これで『推しぬい』の評判自体が落ちてしまわないか、それが心配だわ」
値段だけを見て飛びついたお客様が、この粗悪な出来に失望し、「推しぬい」そのものへの興味を失ってしまうかもしれない。せっかく皆で育ててきた文化が、こんな形で傷つけられるのは、どうしても許せなかった。
工房に戻ると、私は早速、この件について考えを巡らせた。品質で対抗するのは当然として、それだけでは根本的な解決にはならない気がする。
「リゼット様、どうなさいます?」
「まずは、うちの品質に誇りを持って、丁寧な仕事を続けるしかないわ」
「それだけで、足りるでしょうか」
アンナの不安げな声に、私も正直なところ確信は持てずにいた。値段の安さに惹かれる客の気持ちも分かるだけに、品質だけを訴えても、届かない相手がいるのも事実だ。
「フィオナ様やマリー様にも、それとなく相談してみましょうか。友人たちの力を借りられれば、心強いもの」
「それは、良い考えかもしれませんわ」
アンナの表情が、少しだけ和らいだ。友人たちの顔を思い浮かべると、私の心にも小さな勇気が湧いてくる。
早速、二人には手紙を送ることにした。夕方になって早々に返事を持って現れたのは、フィオナ様だった。
「リゼット様、大変じゃありませんの!」
開口一番、勢い込んで工房に飛び込んできたフィオナ様に、私は思わず気圧されてしまう。
「フィオナ様、そんなに慌てて」
「だって、リゼット様のお店の評判に関わることでしょう? 私、黙って見ていられませんもの」
鼻息荒く言い切るフィオナ様に、私は思わず微笑ましさを覚えた。行動力のあるこの友人が味方でいてくれることが、こんなにも心強いとは思わなかった。
「私、周りの令嬢たちにも、うちのお店の良さをもっと広めてまわりますわ。口コミの力、侮れませんもの」
「ありがとうございます、フィオナ様」
「お礼なんていいんですのよ。困った時はお互い様ですもの」
力強く請け合ってくれるフィオナ様の姿に、私は改めて、友人たちに恵まれていることを実感した。
そんな話をしていると、控えめな呼び鈴とともに、見慣れた長身が工房に入ってきた。
「邪魔する」
「まあ、団長様?」
「フィオナ様、こちら、近衛騎士団長のカイル様ですわ」
「初めまして、フィオナと申します。お噂はかねがね」
「カイル・アシュフォードだ」
「団長様、リゼット様のお店の噂、もうお耳に入ってますの?」
「噂? どんな噂だ」
問われて、私は観念して事情を話すことにした。噂の模倣店のこと、粗悪な品質のこと、それが「推しぬい」全体の評判に影響しかねないこと――一通り話し終えると、カイル様は険しい表情で腕を組んだ。
「それで、私も居ても立ってもいられなくて、リゼット様の元へ駆けつけた次第ですわ」
フィオナ様が付け加えるように言うと、カイル様は小さく頷いた。
「友人思いだな」
素っ気ない一言だったが、その声音には確かな労いが滲んでいた。フィオナ様も嬉しそうに頬を緩めている。カイル様は居住まいを正すと、本題に立ち返るように口を開いた。
「ゴードンという商人か。聞いたことがある名だ」
「ご存知でしたの?」
身を乗り出すようにフィオナ様が尋ねる。
「以前、別件で名前が挙がったことがある。あまり評判のいい人物ではなかったはずだ」
思いがけない情報に、私は少し驚いた。
「まあ、そんな方が」
フィオナ様が眉をひそめる。
「詳しく調べてみる。何か分かれば、知らせよう」
「あ……。そこまでしていただかなくても」
「放っておけないだけだ。深く考えなくていい」
「団長様がそう仰ってくださるなら、リゼット様も百人力ですわね」
フィオナ様が我が事のように頷く。
素っ気ない口調で言われ、私は思わず口元を緩めた。こういう不器用な優しさに、何度も助けられてきた気がする。
「それに、こういう商売上のいざこざは、放っておくとろくなことにならない。早めに手を打つに越したことはない」
「団長様は、そういったことにもお詳しいのですね」
フィオナ様が感心したように呟く。
「騎士団の物資調達でも、似たような不正が絡むことがある。無縁ではいられない立場だ」
思いがけない話に、私は少し感心してしまった。氷の騎士団長という肩書きの裏に、こうした地道な実務の積み重ねがあることを、改めて知った気がした。
「一度、俺の目でも確かめておく」
「団長様にも、良し悪しが分かりますの?」
フィオナ様がからかうように首を傾げる。
「さすがに、これだけ通えば多少は見る目もつく」
「まぁ、そんなに通ってらっしゃるの?」
フィオナ様が悪戯っぽく声を弾ませる。
得意げでもなく、淡々と告げるその一言に、私はなんだか無性に嬉しくなってしまった。この方が私の仕事を、こんなにも真剣に見てくれているのだと思うと、胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
短く返しながらも、カイル様の目には、確かな真剣さが宿っていた。それを見て、私は少しだけ安堵した。一人で抱え込む必要はないのだと、そう思わせてくれる存在がいることが、今はとても心強かった。
「それにしても」
カイル様は、工房の棚に並んだ人形たちに視線を移した。
「これだけの品を、一つ一つ丁寧に仕上げているんだ。安易な模倣に負けるはずがない」
自信に満ちたその言葉に、私は思わず胸を打たれた。
「団長様がそう仰ってくださると、心強いですわ」
「事実を言ったまでだ」
照れ隠しのように視線を逸らすカイル様の様子に、私は小さく笑ってしまった。この不安な状況の中でも、こうして支えてくれる人がいることを、私は改めてありがたく思った。
その日の夜、店を閉めた後も、私はしばらく考え込んでいた。品質での差別化はもちろん大切だが、それだけで本当に太刀打ちできるのだろうか。ゴードンという商人が、今後どんな手を打ってくるのか、まだ何も分からない。
「リゼット様、あまり根を詰めすぎないでくださいませ」
片付けを終えたアンナが、心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫よ。ただ、悔しくて」
「悔しい、ですか」
「ええ。皆で少しずつ育ててきた『推しぬい』の文化を、こんな形で汚されるのが、たまらなく悔しいの」
思わず零れた本音に、アンナは静かに頷いた。
「リゼット様のそのお気持ち、きっとお客様にも伝わりますわ」
「そうだといいのだけれど」
力なく笑ってみせると、アンナは励ますように私の肩をそっと叩いた。
(でも、今は焦っても仕方がないわ。まずは、できることから始めましょう)
そう自分に言い聞かせながら、私は次の仕入れの計画を練り始めた。棚に並んだ人形たちを見回すと、これまで込めてきた想いの重みが、改めて胸に迫ってくる。誰にも、この文化を安易に踏みにじらせはしない。窓の外では、夜の帳が静かに街を包み込んでいた。
◇
「団長、ゴードンって商人、そんなに評判悪いんですか」
執務室に戻るなり、レイフが興味深そうに尋ねてくる。俺は懐かしい記憶を辿りながら答えた。
「以前、別の商会との取引で、粗悪品を掴ませたという噂があった。表沙汰にはならなかったが、評判は良くない」
「へえ、そんな奴が、ヴァランタイン嬢の店の真似事を」
「腹立たしい話だ」
思わず零れた本音に、レイフが意外そうに目を丸くする。
「団長がそこまで感情を露わにするの、珍しいですね」
「彼女が、丹精込めて作っているものを、安易に模倣されるのは、見過ごせない」
「それ、ヴァランタイン嬢への好意もだいぶ含まれてません?」
からかうような指摘に、俺は何も言い返せなかった。事実、彼女の店や仕事に対する誇りを、俺自身も大切に思っている自覚があった。
「団長、でも本当にただの善意なだけなんですか。さっき、彼女に言ってたやつ」
「それ以外に、何がある」
「いやいや、完全に惚れた相手を守りたいだけの顔してましたよ、さっき」
図星を突かれ、俺は口をつぐんだ。事実、彼女の不安げな表情を見た瞬間、居ても立ってもいられなくなった自分がいた。
「まあ、いいですけどね。俺も、微力ながら手伝いますよ」
「頼りにしている」
「へえ、素直ですね、今日は」
からかうような口調にも、今日ばかりは腹が立たなかった。
「とにかく、調べられることは調べる。ゴードンの周辺、洗ってくれ」
「了解です。ただ、団長」
「なんだ」
「あんまり先走って、一人で店に乗り込んだりしないでくださいよ。こういうのは、証拠を固めてから動かないと、拗れますから」
釘を刺すようなレイフの物言いに、俺は小さく頷いた。焦る気持ちはあるが、彼女のためにも、確実な手順を踏む必要がある。
「分かっている」
「なら、いいですけど」
レイフが真剣な顔つきで頷く。窓の外に広がる夜空を見上げながら、俺は静かに決意を固めていた。彼女の大切なものを守るためなら、多少の労力を惜しむつもりはなかった。
お読みいただきありがとうございました!
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