第24話
執務室の窓から見える中庭で、新人騎士たちが列を組んで走り込みをしている。その号令の声を聞き流しながら、俺は書類の束を前に、また同じ行を読み返していた。
「団長、さっきから同じ書類、三回はめくってますよ」
レイフの指摘に、俺は我に返った。手元の報告書には、目を通した形跡があるだけで、内容はほとんど頭に入っていない。
「……悪い。少し考え事をしていた」
「珍しいですね、団長がそんなに気を取られるなんて」
軽口を受け流し、俺は書類を脇へ置いた。窓の外に視線を移すと、遠くの空に薄い雲がゆっくりと流れている。
「それにしても団長、この一週間で随分と表情が柔らかくなりましたよね。前は、笑ってるところなんて年に数回あるかどうかでしたけど」
「大袈裟だ」
「大袈裟じゃないですって。俺、副官として毎日見てるんですから間違いないですよ」
レイフの物言いに、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。自覚がないわけではない。むしろ、自分でも驚くくらいに、日々の些細なことへの感じ方が変わってきている自覚があった。
書類仕事の合間、俺はふと窓の外の中庭に目をやった。新人たちの号令が、いつもと変わらぬ調子で響いている。それなのに、今日はその音さえどこか心地よく感じられた。
考えていたのは、昨日の彼女の横顔だった。繕い物をする手元を見つめる真剣な表情、ふとした拍子に零れる笑み、そして、何かを言いかけては飲み込む、あの困ったような瞳。思い出すたびに、胸の奥が締め付けられるような、それでいて温かいような、不思議な感覚に包まれる。
(もう、認めるしかないんだろうな)
正体が分かった時から、いや、それよりずっと前――工房で初めて言葉を交わした時から、この気持ちは静かに育ち続けていたのだと思う。持ち主を捜すという名目は、いつの間にか意味をなさなくなっていた。今ではただ、彼女に会いたいという、それだけの理由で足が工房へと向かう。
思えば、最初に工房を訪れた頃の自分は、彼女のことをただの聞き込み相手としか見ていなかったはずだった。それがいつから、こんなにも心を占める存在になったのか、正確な瞬間は自分でも思い出せない。ただ、繕い物をする横顔や、客に向ける屈託のない笑顔、ふとした瞬間に見せる真剣な眼差し――そのひとつひとつが、気づけば胸の奥に積み重なっていた。
「団長、ぼーっとしてますけど、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「大丈夫には見えませんけどね」
レイフが呆れたように肩をすくめる。俺は小さく息を吐き、椅子の背にもたれかかった。
「レイフ、聞きたいことがある」
「なんです、改まって」
「想いを言葉にする、というのは、そんなに難しいものか」
我ながら間の抜けた質問だと思ったが、口にしてしまってから引っ込みもつかなかった。レイフは一瞬目を丸くした後、にやりと口の端を上げた。
「団長、それ、完全に惚気の相談じゃないですか」
「茶化すな」
「茶化してませんよ、真面目に答えます」
レイフは椅子に座り直し、少し考える素振りを見せた。
「難しいかどうかは、人によりますね。でも、団長の場合は、多分言葉にするより先に、行動でとっくに伝わってると思いますよ」
「行動、か」
「毎日のように工房に通って、口実を探して、挙句の果てにはこの前、俺にまで妹の人形を持って行けとせがんできたじゃないですか」
「せがんではいない。頼んだだけだ」
「同じことですよ」
言い返せず、俺は口をつぐんだ。事実、行動だけを見れば、誰の目にも分かりやすいものだったのかもしれない。
「それでも、言葉にしないんですか」
「まだ、早い気がしている」
「早い、ですか」
「ああ。正体が分かって、まだ日も浅い。彼女の中にも、色々と整理のつかないものがあるはずだ。そこに、こちらの想いばかりを押し付けるのは、フェアじゃない」
言いながら、俺は自分の言葉に妙に納得していた。焦って踏み込めば、今のこの穏やかな距離感すら壊れてしまうかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
「団長らしい理屈ですね。でも、待ちすぎるのもどうかと思いますよ」
「分かっている」
「分かってるならいいですけど」
レイフは腕を組み、少し真剣な顔つきになった。
「団長、一つ言っておきますけど。焦らないのと、踏み出さないのは、似ているようで違いますからね」
思いがけない指摘に、俺は言葉に詰まった。
「……いつからそんな、訳知り顔で物を言うようになったんだ」
「団長の恋路を、この一月ずっと近くで見てましたから。多少は詳しくもなりますよ」
からかい混じりのその言葉に、俺は苦笑いを返すことしかできなかった。
「それより団長、これ、期限が今日までですよ」
指摘され、俺は慌てて手元の書類に向き直った。仕事に集中しようとするものの、頭の片隅には、やはり彼女の姿がちらついて離れない。
午後になり、演習場からの報告を受けに外へ出ると、遠くの的場でエドガーが弓の稽古をしているのが目に入った。狙いを定める真剣な横顔に、俺はふと、マリー・オルコットの熱心な眼差しを思い出した。
「エドガー、調子はどうだ」
声をかけると、エドガーは弓を下ろし、律儀に姿勢を正した。
「団長。おかげさまで、命中率は上がってきています」
「そうか。励め」
「はい……。あの、団長」
珍しく歯切れの悪い様子で、エドガーが言葉を継いだ。
「その、想いを言葉にする、というのは、どういう時にすべきなのでしょうか」
不意打ちの問いに、俺は一瞬言葉を探した。まさか、自分と同じ悩みを抱える人間が、こんなところにもいるとは思わなかった。
「……人によるとしか、言えないな」
「そう、ですよね」
力なく肩を落とすエドガーに、俺はそれ以上かける言葉が見つからなかった。
「参考にならなくて、悪いな」
「いえ……。団長でも即答できないことだと分かって、少し気が楽になりました」
律儀に一礼するエドガーの背中を見送りながら、俺は自分の不甲斐なさに、密かに苦笑した。
(想いを伝えるというのは、誰にとっても簡単なことじゃないんだろうな)
自分のことは棚に上げて、そんなことを考えている自分に、俺は密かに苦笑した。
夕刻、執務を終えて城を出る頃には、空はすでに茜色に染まっていた。馬を引いて歩きながら、俺は工房のある方角を、無意識に見やっていた。今日は、行く用事もない。それでも、足はそちらへ向きたがっている。
「団長、今日は行かないんですか」
いつの間にか隣に並んでいたレイフが、からかうように尋ねてくる。
「今日は、特に用がない」
「用がなくても、行けばいいじゃないですか」
「毎日押しかけては、迷惑になる」
「へえ、そんな殊勝なことも考えるんですね」
軽口に、俺は何も言い返さなかった。事実、彼女の負担にはなりたくない、という気持ちは本物だった。
「団長、そんなに我慢して、体に悪くないですか」
「我慢しているつもりはない」
「してますって。さっきから、何度も工房のある方角、盗み見てましたよ」
指摘され、俺は言葉に詰まった。無意識のうちに、視線がそちらへ向いていたことに、自分でも気づいていなかった。
「……そんなに、分かりやすいか」
「ええ、それはもう」
レイフが楽しげに笑う。その笑い声を背に受けながら、俺は自分の単純さに、少しばかり呆れる思いだった。
それでも、しばらく歩いた後、俺は結局、工房のある方角へと足を向けていた。用がなくても、少しだけ、顔を見るくらいは構わないだろう。そんな都合のいい理由を自分に許しながら。
◇
工房の窓辺で刺繍の続きをしていた私は、ふと外の気配に気づいて顔を上げた。夕暮れの光の中、見慣れた長身がこちらへ歩いてくるのが見える。
(今日も、いらしてくださったのね)
胸の奥がふわりと浮き立つのを感じながら、私は針を置いて立ち上がった。控えめな呼び鈴が鳴る前に、私は扉を開けて出迎える。
「団長様、いらっしゃいませ」
「……今日は、特に用はない」
少し気まずそうに言うカイル様の様子に、私は思わず笑ってしまった。
「用がなくても、いらしてくださって嬉しいですわ」
素直な気持ちを口にすると、カイル様は珍しく耳の先を赤くしながら、視線を逸らした。
「そうか」
短く答えるその声に、いつもより柔らかな響きが混じっている気がした。
「せっかくですし、お茶をお淹れしますわね」
「ああ、頼む」
アンナが手早く淹れてくれた茶を挟み、私たちはしばらくの間、腰を落ち着けることになった。湯気の向こうで、カイル様が珍しくくつろいだ様子を見せている。
「今日は、何をしていたんだ」
「ちょうど、頼まれていた刺繍の続きをしておりましたの。ご覧になります?」
差し出した布地を、カイル様は興味深そうに覗き込んだ。
「随分と、細かい模様だな」
「花の意匠ですわ。近頃、こういった控えめな柄が人気なんですのよ」
「よく、こんなに細かい部分まで手をかけられるものだな」
「小さな部分にこそ、想いを込められると思っておりますの。誰かのために作るものですから」
迷いのない口調で答えると、カイル様は感心したように目を細めた。
「君が作るものは、いつも丁寧だ」
さりげない一言に、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。慣れているはずなのに、こうした素直な褒め言葉には、いつまで経っても慣れそうにない。
二人でしばらくの間、他愛のない話を交わす。特別なことは何もない、ただの夕暮れの時間。それでも、こうして隣にいてくれることが、これほど幸せなことだとは、以前の私は知らなかった。
(この気持ちに、いつか名前をつける日が来るのかしら)
答えの出ない問いを抱えながらも、私は今この瞬間の心地よさを、静かに噛み締めていた。焦らなくていい。今はまだ、こうして少しずつ近づいていく時間そのものを、大切にしていたかった。
やがて、カイル様が席を立った。
「長居した。今日はこれで失礼する」
「はい。お気をつけて」
見送りに立つと、カイル様はいつものように「また、来る」とだけ言い残し、夕暮れの通りへと歩き去っていった。その背中が見えなくなるまで、私はしばらく扉の前に立ち尽くしていた。
「団長様、近頃はずいぶん頻繁にいらっしゃいますわね」
いつの間にか奥から出てきていたアンナが、くすくすと笑いながら声をかけてくる。
「気づいていたの?」
「これだけ通われれば、嫌でも気づきますもの」
悪びれもせず言うアンナに、私は観念して肩を落とした。
「今日も、これといった用はなかったの。それでもいらしてくださるのは……。もしかして、少しは私に会いたいと、思ってくださっているのかしら」
思わず零れた呟きに、自分でも驚く。以前の私なら、こんな風に素直に喜びを口にすることなど、きっとできなかっただろう。
「あら、素直でよろしいことですわ。前は、そういうことに気づかない振りをなさっていたのに」
「気づかない振りだなんて、していないわ」
「していましたとも。でも、そうやって少しずつ、ご自分の気持ちに向き合えるようになっているのは、良いことだと思いますわ」
「アンナは、まるで見てきたようなことを言うのね」
「長年お仕えしていれば、これくらいは分かりますとも」
得意げに胸を張るアンナの姿に、私は思わず苦笑した。それでも、こうして誰かに気持ちを見守ってもらえることが、今の私にはとても心強かった。
「それにしても、団長様も焦らず待つおつもりのようですし、リゼット様も無理に急ぐ必要はないと思いますわ」
「急ぐつもりは、ないけれど……。それでも、いつかは、ちゃんと自分の気持ちに、名前をつけたいと思うの」
ぽつりと零した本音に、アンナは優しく微笑んだ。
「その時がきたら、私が誰よりも先に、お祝いを申し上げますわ」
からかい混じりの言葉に、私は思わず頬を緩めた。アンナの言葉に、私は小さく頷いた。焦って答えを出す必要はない。この気持ちの正体が何であれ、今はただ、日々育っていくその感触を、大切に見守っていきたかった。
窓の外では、夕暮れの空が、今日という一日の終わりを、いつもより優しい色で染め上げていた。
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