第23話
朝の光が差し込む工房で、私は仕入れたばかりの反物を棚に並べていた。淡い若草色の生地を手に取り、光にかざしてみる。この色合いなら、きっと誰かの推し活の役に立つはずだ。
「リゼットさん、いらっしゃる?」
聞き慣れた声に振り返ると、扉のところにマリー様が立っていた。手にした包みを大事そうに抱えている。
「マリー様、いらっしゃいませ」
「あのね、この間作っていただいたエドガー様の人形なんだけど……。袖のボタンが取れかけてしまって」
差し出された人形を受け取り、私は損傷を確かめた。単純な繕い物で、すぐに直せそうだ。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
針を取り、ボタンを縫い付け直していく間、マリー様はそわそわとした様子で私の手元を見つめていた。
「最近、エドガー様とはいかがですか」
「そ、それが……。この間、演習の見学でお姿を拝見できたの。遠目だったけれど、それだけで十分幸せだったわ」
頬を染めながら語るマリー様の姿に、私は思わず微笑ましくなる。誰かを想う気持ちの純粋さは、身分や状況が違っても変わらないものらしい。
「遠くから見つめるだけでも幸せだなんて……マリー様は、健気な方ですね」
「そういうわけじゃないの。ただ、近くでお話しする勇気が、まだ出ないだけで……」
俯きがちに答えるマリー様の指先が、膝の上でぎゅっと握られている。その仕草に、私は覚えのある感覚を思い出し、思わず口元を緩めた。
「マリー様の想いが、いつか実りますように」
「ありがとう。リゼットさんこそ、最近なんだか雰囲気が変わった気がするけれど……。何かいいことでもあったの?」
不意打ちの指摘に、私は繕い物を持つ手が止まりそうになるのをどうにか堪えた。
「べ、別に、何も」
「そう? なんだか、前より肌艶がいいというか、楽しそうというか」
的を射た観察に冷や汗をかきながら、私はどうにか話題を逸らすことに成功した。繕い終えた人形を手渡すと、マリー様は満足そうに礼を言って店を後にした。
扉が閉まる音を聞きながら、私は小さく息をついた。
(雰囲気が変わった、か。自分ではよく分からないけれど)
そんなことを考えているうちに、控えめな呼び鈴の音が再び工房に響いた。顔を上げるまでもなく、それが誰の訪れかは分かってしまう。
「邪魔する」
「い、いらっしゃいませ」
この一週間で、もう何度目になるだろうか。カイル様は変わらぬ足取りで作業台の方へと歩み寄り、いつもの椅子に腰を下ろした。
(また、いらしたのね)
驚きはもうない。それどころか、扉が開く音を聞いた瞬間、胸の奥がふわりと浮き立つのを感じている自分に気づき、私は密かに戸惑っていた。
「今日は、何をなさっているんです?」
「レイフに頼まれた、繕い物の様子を見に来ただけだ」
懐から取り出したのは、見覚えのある布袋だった。中には、以前も預かったことのある小さな人形が入っている。
「まあ、また傷んでしまったのですか」
「レイフの妹が、余程気に入っているらしい」
差し出された人形を受け取り、私は針箱を引き寄せた。慣れた手つきで繕い始めると、カイル様は特に何をするでもなく、ただ静かにその様子を眺めている。
(こうして、ただ一緒にいるだけの時間が、こんなに心地いいなんて)
昨日までの気まずさが嘘のように消えて、今ではこの穏やかな沈黙さえも愛おしく感じられる。それがどういう感情なのか、私はまだうまく言葉にできずにいた。
気づけば、繕い物の手を止めて、カイル様の横顔をぼんやりと見つめてしまっていた。彫りの深い横顔、伏せられた睫毛――見慣れているはずなのに、何度見ても飽きることがない。
「そんなに見つめられると、些か落ち着かないな」
「あ……。す、すみません、つい」
指摘され、我に返る。慌てて視線を落とすと、頬が熱くなるのが分かった。
「気にするようなことではない。見られて減るものでもないからな」
からかうでもなく、淡々と返されたその一言に、私はますます居たたまれない気持ちになった。
繕い物を終えて手渡すと、カイル様は満足げに頷いた。
「助かる。レイフも喜ぶだろう」
「いつでもお持ちくださいませ」
そう言いながらも、内心では、この用事が終わればカイル様は帰ってしまうのだと、少しだけ寂しさが込み上げてくる。我ながら、贅沢な感情だと思った。
「あの、お茶でも……」
思わず口にしてから、私は自分の性急さに驚いた。カイル様は少し意外そうな顔をした後、小さく頷いた。
「では、少しだけ」
その返事に、私は内心で小さく安堵の息を漏らした。
アンナが淹れてくれたお茶を挟み、私たちはしばらくの間、他愛のない話を交わした。近頃の街の様子、演習の予定、工房に来る客の面白い注文の話――特別なことは何も話していないはずなのに、時間が経つのがやけに早く感じられる。
「そういえば、先日の演習で、新人が的を外して隣の的まで射抜いたそうだな」
「まあ、それは大変な失敗ですわね」
「いや、隣の的の真ん中を見事に射抜いていた。狙いを間違えただけで、腕前は確かだったらしい」
思いがけない締めくくりに、私は思わず噴き出してしまった。
「ふふっ、それは、褒めていいのか困ってしまう話ですわね」
「レイフも同じ反応をしていた」
珍しく軽口めいた話題に、私は工房で見せるカイル様の一面がまた一つ増えたことを、密かに嬉しく思った。
「そういえば、これは何だ」
カイル様が作業台の隅に置かれた紙束に目を留めた。人形の新しい衣装を思いついた時に描き留めている、走り書きの下絵だ。
「あ……。それは、まだ形になっていない、ただの思いつきですわ」
「見せてもらっても?」
少し迷った末、私は下絵の束を差し出した。カイル様は丁寧にめくりながら、一枚ずつ目を通していく。
「随分と、色々考えているんだな」
「性分ですの。思いついたら、描き留めずにはいられなくて」
胸を張ってみせると、カイル様の口元にわずかな緩みが差した。その些細な変化を見逃さなかった自分に、私はまた気恥ずかしさを覚える。
「先ほど、オルコット嬢が来ていたな。窓越しに見かけた」
「あら、ご存知でしたの。人形の修繕を頼まれていましたのよ」
「随分と、楽しそうに話し込んでいるような声が聞こえたが」
「オルコット嬢は、近頃よく演習を見学に来ているな。エドガーの方を、随分と熱心に見ているようだが」
「まあ……。よくご覧になっていますのね」
「気づかないわけがない。あれだけ熱心だと」
「マリー様なりに、精一杯なんですのよ。誰かを想う気持ちは素敵ですわ」
少し力を込めて言うと、カイル様は意外そうにこちらを見た。
「随分と、肩を持つんだな」
「ええ。だって、その気持ちがどれほど大切なものか、私にも分かりますから」
言ってから、思いのほか本音が滲んでしまった気がして、私は慌てて視線を逸らした。
やがて、カイル様が席を立った。
「長居した。そろそろ失礼する」
「はい。お気をつけて」
見送りに立った私に、カイル様がふと足を止めて振り返る。
「また、来る」
「はい。お待ちしております」
その一言を交わすだけの、何気ないやり取りのはずだった。それなのに、扉が閉まった後もしばらく、私は胸の高鳴りが治まらないでいた。
「リゼット様、今日もお顔がゆるんでますよ」
奥から出てきたアンナに指摘され、私は慌てて表情を引き締めた。
「そ、そんなことないわ」
「隠したって無駄ですよ。ここのところ、団長様がいらっしゃる日は、いつもそうですもの。それに、先ほどのマリー様にも指摘されていたでしょう」
「聞こえていたの……」
「奥の部屋にも、声くらいは届きますもの」
悪びれもせず言うアンナに、私は観念して肩を落とした。
「私……。どうしてしまったのかしら」
思わず零れた呟きに、アンナが小首を傾げる。
「どうか、なさいましたの?」
「団長様がいらっしゃると、嬉しくて。でも、それがどういう嬉しさなのか、自分でもよく分からなくて」
正体を知られた後も変わらず接してくれる、その安堵からくる嬉しさなのか。それとも、もっと別の――名前をつけるのが怖いような、そんな感情なのか。考えれば考えるほど、答えは霞んでいくばかりだった。
「リゼット様は、案外鈍くていらっしゃいますのね」
アンナが呆れたように笑う。
「な、なによ、それ」
「いいえ、なんでもございません。ただ、焦らずゆっくり気づいていかれればよろしいのでは、と思っただけですわ」
「アンナは、何か知っているの?」
「さあ、どうでしょう。私はただの侍女ですもの、詮索はいたしませんわ」
意味深に微笑むだけで、アンナはそれ以上多くを語ろうとしなかった。含みのある笑みを残し、奥へと戻っていく後ろ姿を、私はしばらく見送った。一人残された私は、繕い針を片付けながら、もう一度胸の内を覗き込んでみる。
(このままでいいのかしら。それとも――)
答えの出ない問いを抱えたまま、私は窓の外に広がる茜色の空を見上げた。今日という日が、まだ少しだけ名残惜しく思えた。
棚に飾られたあの人形――カイル様の姿を模したものではなく、今度は自分自身の姿を模して作ってみようかと、ふと妙な考えが頭をよぎる。
(いえ、さすがにそれは、恥ずかしすぎるわね)
一人で赤面しながら、私はその思いつきをそっと胸の奥にしまい込んだ。それでも、こんな他愛のない空想さえ楽しく感じられる自分に、少しだけ驚いていた。
◇
「団長、今日もまた行ってきたんですか」
執務室に戻るなり、レイフがにやにやしながら声をかけてくる。俺は繕い終えた人形を机の上に置きながら、素っ気なく応じた。
「お前の妹の人形の、修繕を頼みに行っただけだ」
「へえ、それにしては、随分と長い『修繕を頼みに行った』ですね」
痛いところを突かれ、俺は口をつぐんだ。事実、必要以上に長く滞在していた自覚はあった。
「団長、最近、暇さえあれば工房に行ってますよね。俺、数えてますよ」
「数える暇があるなら、書類を片付けろ」
「うわ、露骨に話を逸らしましたね」
軽口を受け流しながら、俺は懐に触れた。もう何も入っていないその場所に、無意識に手が伸びる癖が、いつの間にかついていた。
「団長、顔が緩んでますよ」
「そう見えるか」
「ええ、はっきりと」
指摘され、俺は自分の頬に軽く触れた。緩んでいる自覚はなかったが、レイフがそう言うのなら、そうなのかもしれない。
「団長、それにしても分かりやすいですね。用もないのに人形の修繕とか、正直苦しい言い訳ですよ」
「苦しいとは思わない」
「思わないから困るんですよ、それ」
レイフが呆れたように肩をすくめた後、ふと真面目な顔つきになった。
「団長、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「本当は、正体が分かった時点で、もっと分かりやすく動くと思ってたんですよ。団長のことだから」
思いがけない指摘に、俺は一瞬、返す言葉を探した。
「急ぐ理由がない」
「理由がない、ですか」
「ああ。今のこの時間が、心地いい。それだけで、十分だ」
答えてから、俺は自分の口から出た言葉の素直さに、内心で驚いていた。レイフは意外そうに目を丸くした後、ふっと表情を緩めた。
「団長も、変わりましたね」
「そうか」
「ええ。前は、こんなふうに気持ちを言葉にする人じゃなかったですから」
からかい半分、それでいて確かな親しみの滲む声だった。俺は何も言い返さず、ただ窓の外を見やった。夕暮れの空が、今日も変わらぬ色に染まっている。
彼女と過ごす時間が、どうしてこれほど心地よいのか。理由を突き詰めれば、答えはとうに分かっている気がした。ただ、それを言葉にするのは、まだ早い。
「団長、俺の妹も大喜びでしょうね、こんなに繕い物してもらって」
「そうだろうな」
「今度、俺の私物も持って行かせてもらっていいですか。ついでに、工房の方の様子も見てきますし」
「余計な世話だ」
素っ気なく切り返すと、レイフは肩をすくめながらも、楽しげに笑い声を立てた。
そう自分に言い聞かせながら、俺は静かに執務机へと向き直った。窓の外では、夕暮れの光が、今日という一日の終わりを静かに告げていた。
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