第22話
朝一番に工房の扉を開け、いつも通りに看板をひっくり返す。それだけの作業のはずなのに、今日はやけに手元がおぼつかなかった。看板の紐が指先で二度も絡まり、私はそれをほどきながら小さくため息をついた。
(しっかりして、リゼット。今日は今日で、いつも通り過ごせばいいんだから)
深呼吸を一つしてから、私は店の中を軽く見回した。棚に並んだ反物、作業台の裁ちばさみ、窓辺に吊るされた試作品の数々――昨日までと何一つ変わらない光景のはずなのに、どこか落ち着かない気持ちが拭えない。
「リゼット様、朝から百面相ですよ」
奥から出てきたアンナが、くすくすと笑いながら声をかけてくる。手にした盆の上では、湯気を立てる茶器がかちりと小さな音を鳴らした。
「べ、別に、百面相なんて」
「昨日のことを思い出してるんでしょう。今もまだ、顔が赤いですもの」
指摘され、私は慌てて両手で頬を押さえた。冷たい指先が、火照った肌に少しだけ心地よい。
「だ、だって……。正体を知られてしまったのよ。もしまた会ったときに、どんな顔でお会いすればいいのか、まるで分からないんだもの」
「いつも通りでよろしいのでは? 団長様は、態度を変えるような方には見えませんでしたけれど」
「それは、そうかもしれないけれど……」
アンナの言う通りだとは分かっている。それでも、いざ顔を合わせる場面を想像すると、心臓が落ち着かなく騒ぎ出すのだった。
(もし、いつもの調子で「いらっしゃいませ」なんて言ったら、白々しいと思われないかしら。かといって、改まった態度を取るのも、それはそれで変よね……)
棚の反物を意味もなく並べ直しては、また元に戻す。そんな落ち着かない仕草を繰り返していると、アンナが呆れたように肩をすくめた。
「そんなに気になるなら、いっそ最初にご挨拶の練習でもいたしましょうか」
「れ、練習って」
「『いらっしゃいませ、団長様。昨日のことは、忘れてくださいませ』とか」
「忘れてほしいわけじゃないもの……!」
思わず声を上げてから、私は自分の失言に気づいて赤面した。アンナは満足げに微笑んでいる。からかわれたのだと分かり、私は小さく唇を尖らせた。
そんな他愛のないやり取りをしているうちに、開店の呼び鈴が軽やかに鳴った。今日最初のお客様は、近所の花屋の奥方だった。
「おはようございます、リゼットさん。急ぎで恐縮なんですけど、うちの子が明日お誕生日で……。娘がいつも夢中になっている絵本のうさぎ、あんな感じの人形を作ってもらえないかしら」
絵本を差し出され、私はその挿絵に目を通した。長い耳を垂らした、愛嬌のあるうさぎの姿だ。
「かしこまりました。夕方頃には仕上がると思いますので、その頃にまたお越しいただけますか」
「まあ、本当に? 助かるわ。では、夕方また参りますね」
型紙を選び、下ごしらえに取り掛かる。無心で手を動かしている間だけは、昨日の出来事も、これから訪れるかもしれない気まずさも、頭の隅へと追いやることができた。
「ごめんくださいませ」
顔を上げると、そこにいたのはフィオナ様だった。見慣れた明るい笑顔に、私は思わずほっと肩の力を抜く。
「フィオナ様。いらっしゃいませ」
「今日はお願いがあって参りましたの。実は、この間の刺繍飾りが、糸がほつれてしまって」
差し出された小物を受け取り、私は損傷を確かめた。単純な繕い物で、すぐに直せそうだ。
「少々お待ちくださいませ。すぐに終わりますので」
「ありがとうございます。……あら、リゼット様、なんだか顔色がよろしくないような」
鋭い指摘に、私は内心でぎくりとした。
「い、いえ! 少し寝不足なだけですわ」
「そうですの? 働きすぎは体に毒ですわよ。リゼット様、どうかご自愛くださいませね」
的外れな心配をされ、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。何も知らないフィオナ様の屈託のなさが、今はかえってありがたい。
「そういえば、園遊会以来、団長様をお見かけしませんこと? あの日は、随分とリゼット様と話し込んでいらしたようですけれど」
不意打ちの話題に、私は繕い物を持つ手が止まりそうになるのをどうにか堪えた。
「た、たまたま、お声をかけていただいただけですわ」
「そうなんですのね。それにしても、あの氷の騎士団長様と、あんなに親しげにお話しされていたなんて、ちょっと意外でしたわ」
無邪気な感想に、私はどう返せばいいのか分からず、ただ曖昧に微笑むことしかできなかった。
繕い物を終えて渡すと、フィオナ様は満足そうに礼を言って店を後にした。扉が閉まる音を聞きながら、私は再び深く息をついた。
(普段通りのお客様との時間は、こんなにも心が休まるものだったのね)
そんな平穏も、長くは続かなかった。午後になり、控えめな呼び鈴の音とともに、見慣れた長身の影が扉をくぐってきたのだ。
「邪魔する」
その一言だけで、私の心臓は再び激しく音を立て始めた。
「い、いらっしゃいませ、団長様」
声が上ずっていないか、それだけが気がかりだった。カイル様は、いつもと変わらない足取りで作業台の方へと歩み寄ってくる。
(ど、どうしよう。何を話せばいいの。いつも通りにしなきゃいけないのに、いつも通りって何だったかしら……!)
頭の中が真っ白になりかけたところに、カイル様の声が届いた。
「今日は、これといった用があるわけではない」
「え……。それでは、どうして」
「顔を見に、来た」
あまりに率直な返答に、私は間の抜けた声を上げそうになるのをどうにか堪えた。心臓の音がうるさいくらいに響いている。
(あれ……。もっと、気まずい空気になると思っていたのに)
身構えていたはずの気まずさは、その一言であっさりと吹き飛んでしまっていた。拍子抜けしたような、それでいてくすぐったいような、不思議な心地だった。
「それに」
カイル様は、懐から小さな紙包みを取り出した。
「これは、詫びというわけではないが」
「まあ……。これは?」
受け取った包みを開けると、中には可愛らしい形の焼き菓子が入っていた。
「先日、街で見かけた店のものだ。君の口に合うかは分からないが」
「まあ、嬉しい……!」
思わず声を弾ませてから、私は慌てて口を押さえた。子供っぽい反応をしてしまったと気恥ずかしさが込み上げてくる。
「あ、その……。ありがとうございます。大切にいただきますわ」
「大切に、というほどのものでもない。ただの菓子だ」
素っ気ない口調とは裏腹に、カイル様の口元にはわずかな緩みが差していた。その些細な変化に気づいてしまい、私はまた頬が熱くなるのを感じた。
「団長様は、変わりませんのね」
「そうか」
「ええ。昨日の今日で、こんなに普段通りでいらっしゃるとは、思いませんでした」
「取り繕っても仕方がないだろう。それに」
カイル様は少し言葉を切り、窓の外へ視線を向けた。
「気まずくなる理由が、俺には見当たらない」
その一言に、私は思わず息を呑んだ。単純な言葉のはずなのに、じんわりと胸の奥に染み渡っていく。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
短く返しながらも、カイル様の声にはどこか柔らかな響きが混じっていた。
しばらくの間、二人で他愛のない世間話を交わした。近頃の街の様子、演習の予定、工房の繁盛具合。話の合間、カイル様がふと作業台の上に置かれた試作品の端切れに目を留めた。
「これは、何を作っている途中だ」
「ああ、それは……。今度、新しく仕入れた生地の見本ですわ。手触りが良くて、つい試し縫いをしてしまって」
「随分と、几帳面な縫い目だな」
「褒めていただけるのは嬉しいですけれど、そのくらいで驚かれては困りますわ。もっと細かい縫い目も、見せて差し上げたいくらいです」
思わず得意げに返すと、カイル様はふっと目元を緩めた。特に意味のない会話のはずなのに、その時間が不思議と心地よかった。
「お茶、お淹れいたしましょうか」
「いや、今日は長居するつもりはない」
そう言いながらも、カイル様は椅子から立ち上がる素振りを見せなかった。矛盾した態度がおかしくて、私は思わず口元を緩めてしまう。
「長居するつもりはない、と仰りながら、随分と腰を落ち着けていらっしゃいますけれど」
「……それを言われると、返す言葉がない」
珍しく気まずそうに視線を逸らすカイル様の様子に、私はますます笑いを堪えきれなくなった。氷の騎士団長と呼ばれる方が、こんな些細なことで言葉に詰まる姿を見られるのは、きっと自分だけの特権のような気がした。
「長居した。今日はこれで失礼する」
カイル様が立ち上がると、私は慌てて見送りに立った。扉の前で振り返った彼が、ふと思い出したように付け加える。
「また、来る」
「はい。お待ちしております」
微笑んでみせると、カイル様は小さく頷き、工房を後にした。扉が閉まってから、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
ふと、工房の奥に続く扉へ目をやる。その先の私室の棚には、小さな敷布を敷いて飾られたあの人形がある。誰の目にも触れない、自分だけの特等席だ。今日も変わらずそこにいてくれることに、私は密かに安堵した。
「リゼット様、ずっとにやにやしてらっしゃいますよ」
いつの間にか奥から出てきていたアンナに指摘され、私は慌てて表情を引き締めた。
「し、していないわ」
「していますとも。よほど嬉しかったのですね。……それに、その焼き菓子」
「あ……。これは、その」
「大事そうに抱えていらっしゃること」
からかうような口調に言い返す言葉も見つからず、私は焼き菓子の包みをそっと胸に抱えた。
(何も変わらない、か)
あれほど恐れていた気まずさは、拍子抜けするほどあっさりと消えていた。それどころか、正体を知られる前よりも、どこか肩の力が抜けたような気さえする。工房の店主として接する自分と、ヴァランタイン家の娘としての自分。二つに分けていたつもりの境界線が、いつの間にか意味をなさなくなっていることに、私はようやく気づき始めていた。
(これから、どんな日々になっていくのかしら)
漠然とした不安と、それを上回る小さな期待が、胸の中で静かに入り混じっていた。焼き菓子の包みを開け、一つ口に運ぶ。優しい甘さが、じんわりと舌の上に広がった。
「美味しい……」
思わず零れた呟きに、アンナが横からひょいと顔を覗き込んでくる。
「あら、いいですね。私にも一つくださいませ」
「も、もう。仕方ないわね」
差し出した包みから一つつまむアンナの姿を眺めながら、私は密かに、この穏やかな時間がもう少し続いてくれればいいと願った。
◇
「団長、今日はやけに機嫌がいいですね」
執務室に戻るなり、レイフが待ちかねたように声をかけてくる。俺は書類の束を机に置きながら、素っ気なく応じた。
「そう見えるか」
「見えるも何も、さっきから顔がゆるみっぱなしですよ」
指摘され、俺は自分の頬に軽く触れた。緩んでいる自覚はなかったが、レイフがそう言うのなら、そうなのかもしれない。
「工房に、行ってきたんですか」
「顔を、見に行っただけだ」
「へえ。それだけで、随分と長居したみたいですね」
痛いところを突かれ、俺は口をつぐんだ。事実、必要以上に長く滞在していた自覚はあった。
「気まずくなかったんですか。正体が分かった後というのは」
レイフの問いに、俺は少し考えてから答えた。
「特には」
「へえ、意外ですね」
「取り繕う理由がない。それに――」
俺は懐に手を触れた。もうそこに人形はないが、代わりに小さな安堵と、静かな昂ぶりが残っている。
「これまで通りに接すると、決めていた」
「団長らしいですね、それ」
レイフが呆れたような、それでいて温かみのある声で言った。
「らしい、か」
「ええ。不器用なくせに、こういうところだけは、やけに一貫してますもんね」
からかい交じりの評に、俺は何も言い返せなかった。図星を突かれた気分だった。
「それにしても、団長がこう頻繁に出入りしていたら、そのうち噂になりますよ。近衛団長が街の工房に通い詰めてる、なんてね」
「別に、構わない」
「へえ、開き直りましたね」
「隠す道理がないと言っただろう」
言い切ってから、俺は自分の口調に多少の力みがあったことに気づいた。レイフはにやりと口の端を上げただけで、それ以上は追及してこなかった。
昨日までの緊張が嘘のように、今日は穏やかな時間が流れていた。焦る必要はない。この距離感を、少しずつ育てていけばいい。そう自分に言い聞かせながら、俺は執務机に向き直った。
「団長、そういえば、次はいつ行くんです?」
「まだ決めていない」
「決めていないわりに、もう次のことを考えてる顔してますよ」
図星を突かれ、俺は書類に視線を落としたまま何も答えなかった。レイフは満足そうに笑うと、それ以上は茶化してこなかった。窓の外では、午後の日差しが変わらぬ調子で降り注いでいた。
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




