第21話
「これは、君のだろう?」
差し出された人形を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。黒いビロード生地の髪、深い紺青の瞳――間違えようもない、あの日、街角で落としてしまった、最初の一体だった。
(見つかった……。とうとう、見つかってしまった)
心臓が、これ以上ないほど激しく音を立てている。逃げ場を探すように視線を彷徨わせても、狭い工房のどこにも隠れる場所などありはしなかった。窓の外を、鳥の羽ばたく音が場違いなほど呑気に通り過ぎていく。カウンターの上の茶器から立ち上る湯気だけが、いつもと変わらず、ゆらゆらと揺れていた。
喉の奥がからからに渇いていく。指先の感覚が、遠くへ薄れていくようだった。何か言わなければ、と思うのに、開いた口からは、掠れた息しか出てこない。
脳裏に、あの日の光景が鮮やかに蘇った。人混みの中、慌てて反物を抱えて歩いていた自分。不意に目の前に迫った大きな人影。がつんという鈍い音とともに、荷物が宙を舞った、あの瞬間。「大丈夫か」と支えてくれた、逞しい腕の感触までも、今この瞬間、まざまざと思い出される。
「団長様……」
声を絞り出すことしかできない。カイル様は急かすことなく、ただ静かにこちらを見つめ続けていた。値踏みするような、あるいは追い詰めるような色は、その瞳のどこにも見当たらない。ただ、答えを待つ、まっすぐな眼差しだけがあった。
その静けさが、かえって私の覚悟を促した。
(もう、逃げられない。……ううん、逃げたくない)
これまで何度も、名乗り出る機会はあったはずだった。工房で顔を合わせるたびに、園遊会で正面から視線が重なった時も。それでも、恥ずかしさと恐れが先に立ち、いつも言葉を飲み込んできた。けれど今、目の前に差し出されたこの人形を見ていると、これ以上隠し続けることの方が、よほど不誠実に思えた。
(ずっと、こっそり愛でるだけで満足していたはずだったのに。いつの間にか、それだけじゃ足りなくなっていたのね)
前世の記憶を取り戻してから、私はずっと物陰から見守るだけの推し活を続けてきた。それが心地よかったはずなのに、カイル様と直接言葉を交わすようになってから、少しずつ、その距離感だけでは満たされない何かが、胸の奥に芽生え始めていた。今この瞬間も、怖くて仕方がないのに、不思議と後ろ向きな気持ちにはならない。
私は震える手を膝の上できつく握りしめ、深く息を吸い込んだ。
「はい……。それは、私が作ったものです」
声は震えていたけれど、はっきりと告げることができた。カイル様の瞳が、わずかに見開かれる。
「では、あの日――」
「はい。あの日、街角でぶつかったのも、私です」
言い切った瞬間、肩の力がどっと抜けていくのを感じた。長い間、胸の奥に押し込めてきた重荷が、ようやく降りたような感覚だった。
「申し訳、ございませんでした。ずっと、黙っていて」
深く頭を下げると、カイル様はしばらくの間、何も言わなかった。永遠にも感じられる沈黙の中、私は顔を上げることもできず、ただ膝の上の手を見つめ続けていた。
「頭を上げてくれ」
静かな声に促され、恐る恐る顔を上げる。カイル様の表情には、怒りも失望も浮かんでいなかった。ただ、どこか安堵したような、それでいて少し困ったような、複雑な色が滲んでいる。
「謝る必要はない。名乗らなかったことに、理由があったのだろう」
「……はい」
「聞かせてもらえるか」
優しい問いかけに、私は言葉を探しながら頷いた。
「最初は、ただ恥ずかしかったんです。伯爵令嬢の身で、こっそり人形なんて作って……。しかも、それが団長様ご本人でしたから」
俯きがちに続ける。膝の上で組んだ指先が、白くなるほど強く握られていた。
「演習見学で、団長様の凛々しいお姿を拝見して……。気づいたら、居ても立ってもいられなくなって、こっそりと針を動かし始めていました。誰かに知られたら、きっと変わり者だと笑われる。そう分かっていながら、どうしてもやめられなくて」
「変わり者、とは思わない」
静かな相槌に、私は思わず顔を上げた。カイル様は、からかう様子もなく、ただ真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「作った理由も、うまく説明できる自信がありませんでした。突然、憧れの方を見かけて、居ても立ってもいられなくなって……。自分でも、どうかしていると思います」
「そうか」
短く返されただけの一言だったが、責める色は少しも感じられなかった。それだけで、私は密かに胸を撫で下ろした。
「それに、団長様ご自身にもご迷惑がかかるのではと思っていました。ご本人の許しもなく、お姿を模した人形を作っていたなんて……。無礼だと、お叱りを受けても仕方のないことですし」
「迷惑ではない。問題もない」
言い切られた声に、少し驚いた様子が滲んでいた。私はふと、カイル様が懐に置いた手を強く握りしめていることに気づいた。
「持ち主も分からないまま、ただの落とし物として片付けることもできたはずなのに、そうする気にはならなかった。何か引っかかるものがあって、手放せずにいた」
その言葉に、私は胸がじんと熱くなるのを感じた。誰にも打ち明けられずに抱えてきた想いを、こんな風に肯定してもらえるとは、思ってもみなかった。
「それに、伯爵令嬢が商売をしているというだけでも、家の外聞にはよろしくないと、父からも度々釘を刺されておりまして。その上、近衛の団長様に渡した人形を自分が作ったなどと知られたら、どれほどの騒ぎになるものかと」
「騒ぎには、しない」
きっぱりとした一言に、私は思わず息を呑んだ。
「約束する。この件は、俺の胸に留めておく。君の商売にも、家にも、迷惑がかかるようなことはさせない」
静かな、けれど確かな声だった。信頼していいのだと、その一言だけで分かった。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。目の奥が熱くなるのを感じながら、私はどうにか涙をこらえた。
「それに――」
カイル様は、ずっと手にしたままだった人形に、もう一度視線を落とした。
「これは、返す。元々、君のものだ」
差し出された人形を、私は震える手で受け取った。手のひらに乗せた瞬間、覚えのある重みがじんと伝わってくる。綿の詰め方も、生地の厚みも、何もかもが記憶通りだった。
「わ……。わ、私のカイル様……!」
こらえきれず零れた声に、自分でもぎょっとする。もう隠さなくていいのだという安堵と、長年の想いが一気に決壊し、私は人形をぎゅっと胸に抱きしめていた。指先でそっと髪を撫で、頬を寄せる。人目もはばからず、前世仕込みの黄色い声まで漏れそうになって、慌てて口を押さえた。
(や、やってしまったわ……! ご本人の前で、まさかの醜態……!)
真っ赤になった顔を上げると、カイル様が肩を小さく震わせているのが目に入った。
「ふ……っ」
珍しく、こらえきれなかったというように、口元から小さく息が漏れている。氷の騎士団長と呼ばれるあの方が、今、確かに笑いをこらえていた。
「も、申し訳ございません……! お見苦しいところを」
「いや。……随分と、大事にされていたのだな」
目元を緩めたまま告げられたその一言に、私は消え入りたい気持ちと、くすぐったい気持ちが同時にこみ上げてくるのを感じた。
改めて手の中の人形へ目を落とすと、縫い目にほつれ一つなく、丁寧に扱われてきた形跡だけが滲んでいた。ぞんざいに扱われた様子は、どこにも見当たらない。
「ずっと、大切にしてくださっていたのですか」
「ああ。持ち主が分かるまでは、責任を持って手元に置いておくべきだと思っていた」
それだけ言うと、カイル様は少し気まずそうに視線を逸らした。
「もっとも、途中からは、違う理由の方が大きくなっていたが」
ぽつりと零された一言に、私は思わず顔を上げた。カイル様は何も付け加えず、ただ窓の外へ視線を向けている。
「あの、それは――」
「……いや、忘れてくれ。今はまだ、言うことじゃない」
珍しく歯切れの悪いその様子に、私は内心で首を傾げながらも、それ以上は追及しなかった。今日だけで、十分すぎるほどの変化があった。
人形を胸に抱きしめながら、私は改めてカイル様の顔を見つめた。氷の騎士団長と呼ばれる、その硬い表情の奥に、確かな優しさが滲んでいる。それを知っているのは、きっとこの世界でまだ数えるほどの人間しかいない。
「これで、口実を探さなくても、堂々と顔を出せる」
ふと零されたその一言に、私は思わず頬が緩むのを感じた。素っ気ないようでいて、確かな温かさが込められている。この方らしい言い方だと思った。
「それは、楽しみにしております」
微笑んでみせると、カイル様の口元にも、ほんの僅かに緩みが差した気がした。工房の窓の外では、夕暮れの光が徐々に色を深めていく。控えめな沈黙が、けれど気まずさのない、穏やかな時間として、静かに二人の間を満たしていた。
「長居した。今日はこれで失礼する」
立ち上がったカイル様を、私は慌てて見送りに立った。扉の前まで来たところで、カイル様がふと足を止め、振り返る。
「一つ、頼みがあるんだが」
「はい、なんでしょう」
「俺の人形は、その一体だけにしてくれないか」
思いがけない頼みに、私は目を瞬かせた。
「それは……。もう、二体目は作るな、ということでしょうか」
「そうだ」
「もし、ご注文があっても、お受けしない方がよろしいですか」
「ああ。できれば、そうしてほしい」
カイル様は珍しく、少し気まずそうに視線を逸らした。その横顔に、私は思わず頬が緩むのを感じた。
「畏まりました。ご本人様からのご要望ということで注文は受けられないということにいたします」
微笑んでみせると、カイル様の口元にも、ほんの僅かに緩みが差した気がした。それは、これまで見たどの表情よりも、素の彼に近い気がした。
微笑みながら答えると、カイル様は満足そうに頷き、それ以上は何も言わずに工房を後にした。
扉が閉まる音を聞いてから、私はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。奥の部屋からアンナがそっと顔を覗かせる。
「リゼット様……。今のお話、聞こえてしまいました」
「アンナ……」
「よかったですね。本当に、よかったです」
目を潤ませるアンナに、私は思わず駆け寄り、その手を握った。ずっと抱え続けてきた不安を、こうして分かち合えることが、こんなにも心強いとは思わなかった。
「ずっと、気が気ではありませんでした。もし団長様が、リゼット様を責めるようなことを仰ったら、この私が黙っていないつもりでしたのに」
冗談めかした口調の中に、確かな本気が滲んでいる。私は思わず笑ってしまった。
「アンナったら。でも、ありがとう。ずっと味方でいてくれて」
「当然のことです。リゼット様の一番の理解者は、私だという自負がありますもの」
胸を張るアンナの姿に、張り詰めていた気持ちが、少しずつ解けていくのを感じた。
「これから、どうなっていくのかしらね」
「きっと、良い方向にですよ。あんなに優しい眼差しをなさる方、そうそういらっしゃいませんもの」
からかうような口調に、私は頬を赤らめながらも、素直に頷いた。手の中の人形を、私はもう一度、そっと抱きしめた。
◇
工房を出て、俺はしばらく無言のまま通りを歩いていた。
「団長、どうでした」
外で待っていたレイフが、待ちきれない様子で声をかけてくる。俺は少し考えてから、短く答えた。
「本人だった」
「やっぱり。……で、どんな様子でした」
「震えていた。だが、最後まで、きちんと自分の言葉で話してくれた」
レイフは何も茶化さず、静かに相槌を打った。
「団長も、随分と穏やかな顔してますね」
「そうか」
「ええ。ずっと気になっていた宿題を片付けたみたいな顔ですよ」
「宿題、か」
的外れでもない例えに、俺は思わず小さく笑った。レイフが驚いたように目を丸くする。
「団長、今、笑いました?」
「気のせいだ」
「いやいや、はっきり笑ってましたよ、今の」
からかうような声を背に受けながら、俺は懐に触れた。あの人形は、もうそこにない。代わりに残ったのは、不思議な軽さと、それ以上に大きな、静かな昂ぶりだった。
夕暮れの空を見上げながら、頭の中では、今日交わした言葉が幾度となく巡っていた。恥ずかしさから名乗れなかったという彼女の告白。それでも、こうして真正面から向き合ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
「団長、これで終わりってことでいいんですか」
にやにやしながら言うレイフに、俺は少し考えてから答えた。
「特には決めていない。だが、終わりにするつもりもない」
「へえ。それは楽しみですね」
からかうような口調にも、今日ばかりは腹が立たなかった。夕暮れの空の下、俺たちはしばらく無言のまま、並んで馬を進めた。城門の向こうに広がる茜色の光が、今日という一日を、いつもより鮮やかに染め上げているように見えた。
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