第20話
執務室の窓から差し込む朝の光が、机上の書類を白く照らしていた。羽根ペンを手にしたまま、俺はもう十分ほど同じ行を見つめ続けている。インクが乾き、ペン先に小さな塊ができ始めていることにすら、しばらく気づかなかった。
「団長、さっきから同じところにサインしようとしてますけど」
書類仕事を手伝いに来ていたレイフが、机の向かいから呆れたように指摘してくる。俺は我に返り、慌ててペン先を紙面から離した。
「……なんでもない」
「なんでもない顔じゃないですけどね、それ」
軽口を受け流し、俺は書類の束に視線を戻した。けれど、頭の中を占めているのは仕事のことではなかった。
あの日、針を取り落とした細い指先。震える声で取り繕おうとした笑み。あれから幾日か経つが、直接確かめに行く決心はまだついていなかった。任務を口実に街を回りながらも、工房のある通りだけは、意図的に避けて歩いていた自分がいる。顔を合わせれば、抑えている何かが溢れ出してしまいそうで、そばに寄る勇気が出なかった。急いては事を仕損じる――そう自分に言い聞かせてはみるものの、内心では、確信を確信のまま留めておくことに、いい加減もどかしさを覚え始めてもいた。
窓の外では、中庭を行き交う騎士たちの号令が、規則正しく響いている。いつもなら耳に馴染んだその音が、今日はやけに遠く聞こえた。
「団長、いい加減はっきりさせたらどうです? 見てるこっちが、もどかしいんですけど」
レイフが呆れ半分、心配半分といった顔で口を挟んでくる。俺は書類を置き、小さく息をついた。
「……分かっている」
「分かってるなら、行動に移してくださいよ」
「今日、行く」
自分の口から出た言葉に、俺自身が少し驚いた。だが、口にしてしまえば、不思議と迷いは薄れていった。
「へえ。ようやくですか」
からかうような声音に取り合わず、俺は執務机の上を片付け始めた。書類の束を脇へ寄せ、椅子の背にかけていた上着を手に取る。心のどこかで、覚悟が固まっていくのを感じていた。
午後になり、執務を早めに切り上げた俺は、街へと馬を走らせた。目抜き通りを抜け、織物商の並ぶ通りを過ぎ、街の外れへと向かう見慣れた道のりを辿る。荷馬車の車輪が石畳を打つ音、露店の呼び込みの声、遠くで鳴る鐘の音――何度も通った道のはずなのに、今日はやけに長く感じられた。懐の人形に、いつもより強く手を触れる。紺青の瞳が、静かにこちらを見つめ返してきた。
工房の扉をくぐると、控えめな呼び鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ……。あ」
顔を上げた彼女が、一瞬だけ表情を強張らせる。それでも、すぐに丁寧な微笑みを取り戻した。
「ようこそいらっしゃいました。今日は、何かお調べになることが」
「いや。今日は、頼みたいことがある」
言いながら、俺は工房の中を軽く見回した。棚に並んだ反物、壁際の糸巻き、作業台の上に整然と並べられた裁ちばさみ――何度来ても、その几帳面な並べ方だけは変わらない。
「珍しいですわね。ご依頼というのは」
懐から取り出したのは、上着の袖口が少しほつれた、レイフの妹の人形だった。先日、レイフに押し付けられたものだ。
「妹が持ち歩いているうちに、糸が緩んだらしい。直してもらえるか」
「まあ、拝見しますね」
彼女は人形を受け取り、作業台の上で丁寧に検分し始めた。ほつれた袖口を指先でそっと押さえ、糸の緩み具合を確かめている。
「随分と可愛がっていただいているのですね。生地の表面が、あちこち柔らかく毛羽立っていますもの」
彼女は人形を光にかざし、目を細めながらそう言った。窓から差し込む午後の光の加減で、起毛の生地がふわりと輪郭を浮かび上がらせている。
「四六時中、鞄に入れて持ち歩いているらしい」
「でしたら、この程度のほつれは仕方ありませんわ。むしろ、これだけ大切にされている証ですもの」
微笑みながら答える横顔に、俺はしばし見入っていた。誰かに大切にされている人形の姿を、まるで我が事のように喜んでいる。そういう素振りが、何度見ても不思議と胸に残った。
「少々お時間をいただきますが、よろしいでしょうか」
「構わない。急ぎはしない」
「でしたら、少しお茶でもお淹れしますね。アンナ、お願いできる?」
声をかけると、奥にいたアンナが心得たように頷いて下がっていった。ほどなくして運ばれてきた茶器から、湯気とともに柔らかな香りが立ち上る。俺は礼を告げて一口含んだ。
頷くと、彼女は針箱から糸と針を取り出し、作業台の椅子に座り直した。窓から差し込む午後の光が、彼女の手元を白く照らしている。俺はその向かいに腰を下ろし、黙って作業を見守ることにした。
俺はその手元を、椅子に腰掛けたまま黙って見つめていた。細い指が、迷いのない動きで針を選び、糸を通していく。俯きがちな睫毛の下、真剣な眼差しが袖口の一点に注がれていた。針が布地を出入りするたび、小さな衣擦れの音が静かな工房に響く。
「お忙しい中、こんな些細な繕い物を頼んで悪かったな」
「いいえ、少しも。むしろ、こういう地道な作業の方が、性に合っているんです」
顔を上げずに答える声には、飾らない実感がこもっていた。しばらくの間、俺たちの間には、針の動く音と、窓の外を渡る風の音だけが満ちていた。不思議と、その沈黙は気まずいものではなかった。
「お待たせいたしました」
しばらくして、彼女が顔を上げる。修繕の終わった袖口を差し出しながら、丁寧に微笑んだ。
「お待たせして申し訳ございません。これで、もう解ける心配はないかと」
「助かった」
受け取った人形を懐にしまいながら、俺はしばらくその場を動けずにいた。今日こそ、と決めて来たはずなのに、いざとなると言葉がうまく出てこない。
「代金は、こちらになります」
差し出された金額を、俺は素直に支払った。彼女がそれを帳簿に書き留める間も、俺は懐に触れたまま、切り出す言葉を探していた。
その横顔に、俺は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。それでいて、今この瞬間を逃せば、また同じように先延ばしにしてしまう。そんな予感もあった。
「団長様? どうかなさいましたか」
立ち尽くしたままの俺を、彼女が不思議そうに見上げてくる。その問いに背を押されるようにして、俺は懐からもう一つの人形を取り出した。黒いビロード生地の髪、深い紺青の瞳――紛れもなく、自分自身を模した、あの人形だった。
彼女の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
「これは、君のだろう?」
静かに、けれど確かな声で尋ねる。取り繕う余地を与えないためではなく、これ以上、彼女に隠し事を続けさせたくなかった。ただ、それだけだった。
彼女は何も答えられないまま、ただ人形と俺の顔とを、何度も交互に見つめていた。開きかけた唇から、声にならない吐息だけが漏れる。
工房の中に、痛いほどの沈黙が満ちた。窓の外では、夕暮れの鳥の声が場違いなほど呑気に響いている。
答えを急かすつもりはなかった。それでも、これまでのように「忘れてくれ」で済ませるつもりも、もうなかった。俺は人形を手にしたまま、彼女がその唇を開くのを、ただ静かに待ち続けた。
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