第4話
馬車に揺られて屋敷まで戻り、自室にたどり着くまで、自分がどうやって過ごしていたのか、正直よく覚えていない。
気づけば、ベッドの端に座り込んだまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「リゼット様? まだ起きていらしたんですか」
寝支度のために部屋を訪れたアンナが、私の様子に気づいて眉をひそめる。
「顔色が優れませんけれど……何かあったんですか?」
心配そうに覗き込んでくるアンナの顔を見た瞬間、堪えていたものが一気にこみ上げてきた。
「アンナ……。私、やってしまったの」
震える声でそう切り出すと、私は今日あった出来事を、洗いざらい打ち明けた。街で人とぶつかったこと。相手がカイル様ご本人だったこと。そして、鞄から人形が転がり落ち、拾われてしまったこと。
「……それで、名乗らずに逃げてきてしまったと」
「うん……。だって、あの場で名乗ったら、その、色々と説明のしようがないじゃない。どうして騎士団長様の人形を後生大事に持ち歩いているのかとか」
(言い訳になってないのは分かってる……。分かってるけど、あの瞬間は逃げるしかなかったの……!)
俯く私を、アンナはしばらく無言で見つめていた。それから、小さくため息をつく。
「そうやって、お一人でふらっと出歩かれるからですよ。今度からは、必ず私かどなたかを連れていってくださいね」
「……ごめんなさい」
叱られると分かっていても、こうしてアンナが呆れながらも心配してくれることに、私はどこかほっとしていた。物心ついた頃からずっと傍にいてくれる、頼れる幼馴染。この突飛な「趣味」を、理由も聞かずに受け止めてくれる彼女のありがたさを、こんな時ほど強く感じる。
「それで、あの人形は……。取り戻しには?」
「無理よ。今更のこのこ戻って、『やっぱり私のです』なんて言えるわけがないもの」
想像しただけで、心臓が縮み上がる思いがした。
「そう、ですか」
アンナは少し考え込むように黙り、それから静かに私の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。すぐにどうこうなるお話ではないと思います。それより今は、しっかり休んでください。明日も学園がありますでしょう」
「……うん。ありがとう、アンナ」
その夜、私はなかなか寝付けなかった。カイル様が人形を見つめていた、あの困惑したような表情が、瞼の裏に何度も蘇ってきた。
(きっと、気味悪がられたわよね……。だって、自分そっくりの人形を持ち歩いている令嬢がいたなんて……)
不安と気恥ずかしさが胸の中でぐるぐると渦を巻く。けれど不思議と、後悔という言葉だけは、どうしてもしっくりこなかった。
翌朝、寝不足のまま登校した私を、廊下でマリーが待ち構えていた。
「リゼット様、おはようございます。昨日は、糸の色は見つかりましたか?」
無邪気に尋ねられ、私は一瞬言葉に詰まった。
(そうだったわ……。昨日は、マリーの人形のための生地を買いに行った帰りだったんだった……!)
とんでもない目に遭ったせいで、すっかり本来の目的が頭から抜け落ちていた。
「え、ええ! ばっちり見繕ってきたわ。任せてちょうだい」
内心の動揺を押し隠し、努めて明るく答える。マリーの顔がぱっと輝くのを見て、私は密かに気合を入れ直した。
(カイル様のことは、いったん置いておきましょう。今はマリーとの約束が先だもの)
放課後、人気のない中庭の一角――すっかりお馴染みになった、あの場所で、私たちは向き合って座った。
「それで、マリーの想い人のことを、そろそろ教えてもらえるかしら?」
からかい半分で尋ねると、マリーの頬がみるみる赤く染まっていく。
「その……エドガー様、とおっしゃる方なんです。近衛騎士団の、若い騎士の方で」
「近衛騎士団の?」
思わず声が跳ねた。まさか、カイル様の部下ということだろうか。
「はい。まだ入団されて日は浅いのですけれど、とても穏やかで、誠実な方で……」
マリーは胸元でそっと両手を組み、言葉を選ぶように一度、視線を落とした。
「以前、私が廊下で本を落としてしまった時に、拾って声をかけてくださったことがあって。それから、ずっと……」
言葉を続けるごとに、マリーの声は小さく、けれど確かな熱を帯びていった。
(尊い……! 初々しい恋の話、久しぶりに聞いた気がする……!)
胸の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚に、私は思わず頬を緩めた。前世でも、友人の惚気話を聞くのは、なんだかんだ言って大好物だったのだ。
「素敵な方ね。話を聞いているだけで、こちらまで幸せな気持ちになるわ」
「あ、あの、からかわないでください……!」
耳まで赤くしながら抗議するマリーに、私は思わず笑ってしまった。
「からかってなんかいないわ。本気でそう思っているの。――さて、それじゃあ早速、取り掛からせてもらおうかしら」
その日の夜から、私はマリーのために新しい人形作りに没頭した。
穏やかで誠実な人柄を表現するには、どんな色の糸がいいだろう。柔らかな栗色の髪、優しげな垂れ目――マリーから聞いた特徴を思い出しながら、一針一針、丁寧に縫い進めていく。
(誰かの「好き」を形にするお手伝いができるなんて、前世じゃ考えられなかったことよね……。でも、これはこれで、たまらなく幸せな作業だわ)
針を動かしながら、ふと手が止まる。
脳裏に浮かぶのは、やはりあの人の困惑した横顔だった。
(カイル様、今頃どうしているのかしら)
そう考えた瞬間、はっとした。
(って、何を暢気なこと考えているのよ、私……! むしろ心配すべきは、あの人形の持ち主が私だってバレていないかどうかでしょう……!)
自分の思考の呑気さに、思わず苦笑が漏れる。それでも頭の片隅では、あの人形が捨てられたりしていないといいのだけれど、と願わずにはいられなかった。
蝋燭の灯りの下で黙々と針を動かしていると、不安よりも、この手仕事そのものへの没頭が、少しずつ私の心を落ち着けてくれるのだった。
窓の外では、静かな夜が更けていく。マリーの人形の輪郭が、少しずつ、けれど確かに形を成していった。
マリーの人形作りは、その後も思いのほか順調に進んだ。
栗色の髪を植える作業は、カイル様の時とはまた違った難しさがあった。柔らかく優しげな印象を出すには、糸の張り方一つで表情がまるで変わってしまう。何度もほどいては結び直し、気づけば数日が過ぎていた。
「垂れ目って、思っていたより表現が難しいのよね……」
放課後の中庭で、独りごちながら瞳の刺繍に取り組む。優しい人柄が伝わるようにと、糸の重ね方を工夫しながら、少しずつ丸みのある輪郭に仕上げていった。
(マリーの「エドガー様愛」に応えるためにも、絶対に手は抜けないわ……!)
前世で鍛えた集中力が、こういう時にこそ役立っている気がした。
そうして迎えた完成の日。
「マリー、ちょっといいかしら」
放課後、私はマリーをいつもの中庭に呼び出した。包みを差し出すと、マリーは不思議そうに首を傾げながら、その中身をそっと開いた。
「……っ」
柔らかな栗毛の髪、優しげな垂れ目、穏やかな微笑みを湛えた口元――出来上がった人形を目にした瞬間、マリーの瞳にみるみる涙が滲んでいく。
「これ……。エドガー様……」
震える手で人形を持ち上げ、マリーはしばらくの間、言葉もなくその顔を見つめていた。
「マリー、どう?」
(お願い、いい反応して……! これは私にとっても一大事……!)
そっと声をかけると、零れ落ちた涙も拭わずに、マリーは人形をぎゅっと胸に抱きしめた。
「……嬉しい。こんなに嬉しいこと、生まれて初めてです」
「本当に……本当にありがとうございます、リゼット様」
「お礼を言うのは私の方よ。こんなに素晴らしいものが完成したのは、マリーが自分の想いをしっかり聞かせてくれたからだわ」
そう答えながら、私自身の胸にも、じんわりとした温かさが広がっていた。誰かの「好き」が形になる瞬間に立ち会えるというのは、こんなにも尊いことなのだと、改めて実感する。
「あら、こんなところで何をなさっているんですの?」
不意に、快活な声が背後から響いた。
振り返ると、そこに立っていたのはフィオナ・ラッセルだった。
「フィ、フィオナ様……!」
マリーが慌てて人形を抱えたまま身を固くする。
(見られた……! よりによって一番好奇心旺盛な方に……!)
つかつかと歩み寄ってきたフィオナは、マリーが大切そうに抱えた人形を目にした瞬間、ぴたりと足を止めた。
「まあ……! なんて愛らしい人形ですの。マリー様、それは?」
「え、えっと……。その……」
マリーが言葉に詰まり、助けを求めるように私を見る。
(ここまで見られたら、もう誤魔化しようがないわよね……!)
私は覚悟を決め、一歩前に出た。
「私が作ったの。マリーの、その……大切な方を模した人形よ」
フィオナはしばらくの間、言葉もなく人形に見入っていた。それから、堰を切ったように声を弾ませる。
「素晴らしいですわ……! こんなに可愛らしい人形、見たことがありませんわ! リゼット様、素晴らしい才能をお持ちですのね!」
(そ、そんなに褒めていただけると、なんだかくすぐったいわ……!)
興奮した様子で人形を手に取り、様々な角度から矯めつ眇めつするフィオナ。その反応は、マリーの時とはまた違った熱量を帯びているようだった。
「羨ましいですわ、マリー様……! ねえ、リゼット様。私にも――私にも作っていただけませんこと?」
勢いよく詰め寄られ、私は思わず後ずさりそうになった。
「え、ええ、もちろん構わないけれど……。フィオナ様にも、その、想いを寄せていらっしゃる方が?」
からかい半分で尋ねると、フィオナは扇で口元を隠しながら、それでもはっきりとした口調で答えた。
「ご存じないかしら。私、密かに応援している方がいますのよ。まだ表立って口にするつもりはありませんけれど……」
意味深に微笑むフィオナの表情には、隠しきれない情熱が滲んでいるように見えた。
「まぁ! それは素敵ですね。そういうことなら、任せてちょうだい」
私がそう請け合うと、フィオナは扇をぱたんと閉じ、満足そうに頷いた。
「ありがとうございます、リゼット様。楽しみにしておりますわ」
窓の外では、茜色の空にゆっくりと星が瞬き始めていた。マリーが大切そうに人形を抱え直す横で、私はもう一人分の依頼を胸に、密かに気合を入れ直すのだった。
(さて、フィオナ様の「推し」って、一体どなたなのかしら……)
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