第3話
人形を作り上げてから、二週間が過ぎた。
その頃には、鞄の中にそっと忍ばせて持ち歩くことも、すっかり日常の一部になっていた。
「リゼット様、今日の刺繍の授業の図案、随分と手が込んでいらっしゃいますね」
昼休み、教室に戻ってきたアンナが、鞄の中の刺繍道具を片付けながらそう声をかけてくる。仕上がった花柄の細やかさに感心したようだった。私は曖昧に微笑みながら頷いた。
実のところ、刺繍の授業で真剣になっていたのは、課題の花柄などではなく、頭の中で密かに練っていた新しい縫い方の構想のためだった。次はどんな衣装を仕立ててあげようか、どんな小物を持たせてあげようか――そんなことばかり考えながら針を動かしていたのだから、真剣にもなるというものだ。
「そういえば、王都の織物商に新しい絹地が入荷したという話を耳にしましたわ。今度、見に行かれてはいかがですか?」
「まあ、それは素敵な情報ね。ぜひ行ってみたいわ」
(新作生地の情報……! これはもう、居ても立ってもいられないやつだわ)
アンナの言葉に、私は思わず身を乗り出した。前世でも、推しの新衣装のために生地屋を巡るのは至福の時間だった。この世界でも、その楽しみが味わえるとは。
そうして迎えた休日の午後、私はアンナを連れ、馬車で王都の目抜き通りにある織物商を訪れた。
店内に足を踏み入れた瞬間、色とりどりの反物が壁一面に並ぶ光景に、思わず声を上げそうになる。深紅、瑠璃色、金糸交じりの生地――どれもこれも、前世では手が届かなかったような上質なものばかりだった。
「いらっしゃいませ、ヴァランタイン様。今日はどのような品をお探しでしょう」
顔馴染みの店主が、恭しく頭を下げながら声をかけてくる。
「黒に近い、艶のある絹地を探しているの。それと、深い紺青の糸も」
「かしこまりました。ちょうど良い品がございますよ」
店主に案内されるまま、奥の棚から選りすぐりの反物が幾つも運ばれてくる。私はその一つ一つを手に取り、光にかざしては色味を確かめた。指先に伝わる滑らかな感触に、思わず頬が緩む。
「リゼット様、随分と真剣な顔をしていらっしゃいますね」
背後からアンナに囁かれ、私は我に返った。
「そ、そう見える? つい夢中になってしまって」
「ふふ、微笑ましいですよ。何にお使いになるのかは伺いませんけれど」
意味深に笑うアンナに、私は曖昧に頷くことしかできなかった。
結局、艶やかな黒絹と、深みのある紺青の刺繍糸を数種類買い求め、店を後にした。両手に抱えた包みの重みが、なんだか誇らしく感じられた。
(また買いすぎてしまったかもしれない……。でも後悔はない。ないったらない)
大通りを歩いていると、ふと道の向こうに人だかりができているのが目に入った。何事かと目を凝らせば、噴水広場の脇に、見覚えのある鎧姿の一団が整列している。近衛騎士団の巡回だろうか。
その中央に立つ黒髪の人物の姿を認めた瞬間、心臓がとくんと跳ねた。
「あら、団長様がいらっしゃいますね」
アンナも気づいたらしく、小声で耳打ちしてくる。私は慌てて視線を逸らしながらも、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じずにはいられなかった。
(きゃー……!! 団長様だ、団長様がいる……!! こんなところでお会いできるなんて……! あ、いや、お会いしたわけじゃないけど……! でも見れた、見れただけで幸せ……!!)
遠目に眺めるだけで、こんなにも心が浮き立ってしまう。改めて、自分の中の「オタク」としての性分を思い知らされる瞬間だった。
けれど浮かれてばかりもいられない。私にはまだ、日々の学園生活という現実があった。
放課後の講義――貴族令嬢としての教養を学ぶ授業で、私はいつものように後方の席に腰を下ろしていた。鞄は膝の上、いつでも中を確認できる位置に置いてある。
「本日は、建国史における婚姻政策について学びます」
年配の教師が、淡々とした口調で講義を始める。歴史的な政略結婚の話は、正直に言えば少々退屈だった。
ふと、鞄の隙間から人形の頭がわずかに覗いているのが目に入った。
(あら、ちょっとはみ出してしまっているわ)
慌てて手を伸ばし、そっと鞄の中に押し込もうとした、その時だった。
「ヴァランタイン嬢」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がった。
「は、はい!」
勢いよく顔を上げると、教師がこちらをじっと見つめている。
「先ほどの問いに、お答えいただけますか。建国当初、隣国との婚姻政策がもたらした効果とは何だったでしょう」
「え、ええと……」
頭の中が真っ白になる。講義の内容などまるで耳に入っていなかった私は、冷や汗を滲ませながら、どうにか記憶の片隅にあった知識をかき集めた。
「た、隣国との関係を安定させ……戦を未然に防ぐ、効果があったかと……」
「その通りです。よく理解されていますね」
教師の言葉に、教室のあちこちからほっとしたような空気が漏れる。私は内心で盛大に胸を撫で下ろした。
背中には、じっとりと嫌な汗が滲んでいる。窓から差し込む午後の光が、机の木目をくっきりと照らしていた。埃が舞う様子さえ、やけにゆっくりと見える。心臓の音が、自分の耳にまで届きそうなほど大きく響いていた。
(危なかった……! もう少しで、鞄の中身がバレるところだったわ……!)
冷や汗をそっと拭いながら、私は改めて気を引き締めた。どれほど大切な存在であっても、こうして人前に持ち歩いている以上、慎重さを忘れてはいけない。
講義が終わり、廊下に出たところで、隣の席だったフィオナ・ラッセルが追いついてきた。
「リゼット様、さっきは危なかったですわね。何をそんなに慌てていらっしゃったんですの?」
侯爵令嬢らしい快活な口調で問われ、私はどきりとした。フィオナは物怖じしない性格で、行動力もある。それだけに、誤魔化すのも一苦労だ。
「な、なんでもないわ。少し考え事をしていただけよ」
「ふうん? まあ、いいですけれど」
あっさりと引き下がったフィオナに、私はほっと息をついた。けれど彼女の視線が一瞬、私の鞄の辺りに向いていた気がして、内心では冷や汗が止まらなかった。
その日の夜、自室に戻った私は、机の上に人形を座らせながら、ため息をついた。
「今日は危なかったわ……。もう少し気をつけないと」
人形に語りかけるように呟く。返事があるはずもないのに、こうして話しかけると、なんだか気持ちが落ち着いた。
(でも、正直に言うと……。誰かに見つかったら、どうなるのかしら)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
前世の記憶が戻ってから、私はずっと一人でこの「推し活」を楽しんできた。誰にも打ち明けず、こっそりと、自分だけの秘密として。
けれど心のどこかで、この楽しさを誰かと分かち合いたいという気持ちも、確かに芽生え始めていた。前世でも、同じ推しを応援する仲間と語り合う時間は、何より貴重なものだった。
(でも、こんな趣味……理解してもらえるかしら)
そう考えると、途端に不安がこみ上げてくる。伯爵令嬢が、憧れの人物に似せた人形を作り、日々愛でている――そんな話を聞けば、大抵の人は奇異の目を向けるに違いない。
「……まあ、今は焦らなくてもいいわよね。あなたと二人の時間も、それはそれで幸せなのだから」
人形の頭をそっと撫でながら、私は自分にそう言い聞かせた。
窓の外では、宵闇が徐々に濃くなっていく。遠くから、屋敷の周囲を見回る衛兵が持つランタンの灯りが、ゆらゆらと揺れながら移動していくのが見えた。
その光をぼんやりと眺めながら、私は明日の講義の準備を始めるべく、机の上を整理し始めた。
しかし、この時の私はまだ知らなかった。
その「誰かと分かち合いたい」という密かな願いが、思いのほか早く、そして予想もしない形で叶うことになるとは。
翌日の講義中、私はいつものように鞄の中の人形の存在を気にかけながら、机に向かっていた。けれど、うっかり睡魔に襲われ、机に突っ伏すようにして舟を漕いでしまった。
「リゼット様、リゼット様ってば」
肩を揺さぶられ、はっと目を覚ます。隣の席に座っていたマリーが、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「あ……ごめんなさい、少し眠ってしまっていたわ」
「大丈夫ですか? 最近、お疲れのようですけれど」
「ええ、平気よ。ちょっと夜更かしをしすぎているだけだから」
そう笑って誤魔化しながら、私は慌てて姿勢を正した。膝の上に置いていた鞄が、その拍子にわずかに傾ぐ。
(あ……)
嫌な予感に振り返った瞬間には、もう遅かった。
鞄の口が緩んでいたせいで、人形が滑り落ち、床に転がってしまったのだ。
「あら、何か落ちましたよ」
マリーが気づいて、床に転がった人形へと手を伸ばそうとする。
私は心臓が凍りつくような感覚を覚えながら、咄嗟にその手を制止しようと腕を伸ばした。
「ま、待って、マリー……!」
声を上げたけれど、指先はほんのわずかに間に合わない。マリーの白い指が、床に転がった人形をそっと摘み上げる。
教室の喧騒が、一瞬だけ遠くなったような気がした。窓の外で、小鳥の鳴き声が場違いなほど呑気に響いている。
マリーは摘み上げた人形を、まじまじと自分の目の高さまで持ち上げた。艶やかな黒髪、深い紺青の瞳、きりりと引き結ばれた口元――誰の目にも明らかな、あの人の面影を宿した小さな人形を。
彼女の栗色の瞳が、大きく見開かれていく。
「……リゼット様。これ……」
震えるような声で紡がれたその一言に、私は覚悟を決めて彼女の言葉の続きを待った。
引かれるだろうか。奇異の目で見られるだろうか。それとも――。
(終わった……。伯爵令嬢生命、ここで終了……!)
胸の内で幾つもの最悪な想像が渦を巻く。喉の奥がからからに渇いていくのが分かった。
「なにそれ、可愛い……!!」
予想とはまるで違う、弾んだ声が耳に飛び込んできた。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。恐る恐る顔を上げると、マリーは頬を紅潮させ、両手で人形を包み込むようにして目を輝かせていた。
「これ、リゼット様が作られたんですの? ……あら、この方、もしかして近衛騎士団の団長様では?」
「え、ええ……。その通りよ」
戸惑いながら頷く私に、マリーはさらに身を乗り出してくる。普段は控えめで物静かな彼女からは想像もつかないほどの前のめりな勢いに、今度は私が気圧される番だった。
「すごい……! こんなに可愛らしいのに、ちゃんと団長様らしさが伝わってくるんですもの……! この髪の毛の艶、瞳の色の重ね方……信じられません。丸っこくて可愛らしいのに、目元とか、ちゃんと団長様の雰囲気そのままなんですもの」
「そ、そんなに褒めていただけると、照れてしまうわね……」
頬が熱くなるのを感じながら、私はそっと視線を彷徨わせた。周囲の生徒たちがちらちらとこちらを見ているのに気づき、慌てて声を潜める。
「あの、マリー。少し声を抑えてもらえるかしら。あまり大っぴらにしたいものではないの」
(気持ちは分かる、分かるけどここ教室……!)
「あ……申し訳ございません。つい興奮してしまって」
マリーが慌てて口元を押さえる。私はほっと胸を撫で下ろしながら、彼女の手からそっと人形を受け取った。
放課後、私はマリーを人気のない中庭の一角に誘い、改めてこの人形について話すことにした。誰かに聞かれる心配のない、静かな場所だ。
「実はね、これは私の……その、ちょっとした憧れが高じてしまって」
「憧れ、ですか?」
マリーが小首を傾げる。私は少し迷いながらも、当たり障りのない範囲で打ち明けることにした。さすがに「前世の記憶で」とは言えない。信じてもらえるはずもないし、この秘密だけは――アンナ以外の誰にも、明かすつもりはなかった。
「昔から、誰かをとことん想うと、その気持ちを何か形にせずにはいられなくて……。気づいたら、こんなものを作っていたの」
「まあ……」
マリーは目を丸くしながらも、意外にもすんなりと話を受け入れているようだった。
「素敵なご趣味ですね。でも、リゼット様が心からこの人形を大切にされているのは、よく分かります。だって、こんなにも丁寧に、愛情を込めて作られているんですもの」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。誰かにこの気持ちを理解してもらえるということが、これほど嬉しいものだとは思わなかった。
しばらくの沈黙のあと、マリーが意を決したように口を開いた。
「あの、リゼット様。……厚かましいお願いだとは分かっているのですけれど」
「なあに?」
「私にも、その……密かに想っている方がいて。……その方の人形を、リゼット様に作っていただくことは、可能でしょうか」
耳まで赤くしながら紡がれたその言葉に、私は思わず目を見開いた。
(来た……! 二人目の同志……! これが、この世界での「推し語り仲間」の第一歩……!)
込み上げる感動を抑えながら、私はできるだけ落ち着いた声を意識して頷いた。
「もちろんよ。喜んで引き受けるわ。……その方について、少し聞かせてくれる?」
マリーは頬を染めながら、ぽつりぽつりと話し始めた。名前はまだ明かしてくれなかったけれど、その表情だけで、彼女がどれほど真剣にその人を想っているかが伝わってきた。
「素敵な人形に仕上げてみせるわ。楽しみにしていて」
「ありがとうございます、リゼット様……!」
マリーの顔がぱっと明るくなる。その屈託のない笑顔を見ながら、私は密かに気合を入れ直した。
(さて、と。マリーの「推し」に似合う糸の色、今日のうちに見繕っておきたいわね)
放課後の空き時間を使い、私は御者に頼んで馬車を出してもらい、一人で王都の目抜き通りへと向かった。今朝アンナと買った分だけでは、きっと色が足りない。善は急げ、というやつだ。
目抜き通りの入り口で馬車を待たせ、そこから先は徒歩で店へ向かう。大通りは、いつにも増して賑わっていた。露店の呼び込みの声、荷馬車の車輪が石畳を打つ音、行き交う人々の話し声――様々な音が重なり合い、賑やかな喧騒を作り出している。
反物を数点買い求め、両手に荷物を抱えて馬車へと戻る道すがら、私は人混みを縫うようにして足を速めていた。
「――っ!」
不意に、目の前に大きな人影が迫った。
避ける間もなく、がつんという鈍い音と共に、体が大きく弾かれる。抱えていた荷物が手を離れ、宙を舞った。
「きゃっ……!」
体勢を崩し、思わずよろめく。とっさに支えを求めて伸ばした手は、何も掴むことができなかった。
「大丈夫か」
低く、落ち着いた声が耳に届く。逞しい腕が、倒れかけた私の肩を咄嗟に支えてくれていた。
顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。
間近に見えたのは、黒髪と、鋭くも整った双眸。見紛うはずもない、あの人の顔がそこにあった。
「……っ」
声が出ない。心臓が、痛いほど激しく脈打っている。
(うそ、うそ、うそ……!! きゃー……!! こんな近くで、団長様の顔が……!!)
こんなにも近くで、カイル・アシュフォード様のお顔を見るのは、初めてのことだった。想像していたよりも遥かに整った輪郭、そして間近で見ると分かる、意外なほど澄んだ瞳の色。
「怪我はないか」
(声まで良い……! だめ、今は荷物、荷物に集中しなさい私……!)
淡々とした、けれど気遣いの滲む声で問われ、私はようやく我に返った。
「だ、大丈夫です……。こちらこそ、前をよく見ておらず、申し訳ございません」
慌てて頭を下げながら、私は散らばった荷物を掻き集めようと屈み込んだ。カイル様も無言のまま、地面に落ちた包みへと手を伸ばしてくださる。
その時だった。
かたん、と小さな音を立てて、抱えていた鞄の口から何かが転がり落ちた。
――しまった。
血の気が引く思いで振り返った時にはもう、遅かった。
カイル様の視線が、地面に転がったそれへと、真っ直ぐに注がれていたのだ。
小さな、手のひらに収まるほどの人形。黒糸で表現された髪、深い紺青の瞳、きりりと結ばれた口元。
それは紛れもなく、カイル様ご自身の姿を、忠実に写し取った人形だった。
しばしの沈黙が、二人の間に落ちた。
カイル様は無言のまま、ゆっくりとその人形に手を伸ばし、拾い上げる。そして、まじまじとそれを見つめた。
その表情に、初めてわずかな困惑の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
心臓が、これ以上ないほど激しく音を立てている。今すぐにでも、この場から消えてしまいたい。そんな衝動に駆られながらも、体は硬直したように動かなかった。
「これは……」
カイル様が、静かに口を開く。
その一言を最後まで聞く勇気は、私にはなかった。
「し、失礼いたします……!」
震える声でそれだけ告げると、私は落ちていた荷物の残りを慌てて拾い上げ、その場から逃げるように走り出した。
「あ――」
背後で、微かに戸惑うような声が聞こえた気がしたけれど、振り返る余裕などなかった。
人混みを掻き分けるようにして走りながら、私の頭の中は真っ白になっていた。
(見られた……。よりによって、ご本人に……!)
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っている。頬は、燃えるように熱かった。
待たせていた馬車に転がり込むようにして乗り込み、ようやく息を整えたところで、私は自分の鞄の中を確認した。
――人形が、ない。
慌てて中を見回したけれど、当然そこにあるはずもなかった。あの場に置き去りにしてきてしまったのだ。カイル様ご自身の手に。
「……どうしましょう」
呆然と呟く声が、狭い馬車の中に虚しく響いた。
これまで大切に作り上げてきた、最初の、そして特別な思い入れのあるあの人形。それを、よりによって本人の手に渡してしまうなんて。
けれど今更、取り戻しに戻る勇気など、到底湧いてこなかった。
震える手で胸を押さえながら、私はしばらくの間、座席に座り込んだまま動けずにいた。
「お嬢様、屋敷にお戻りになりますか」
御者に声をかけられ、私はようやく我に返り、小さく頷いた。夕暮れの光に染まる街並みが、車窓の向こうをゆっくりと流れていく。遠ざかっていく大通りの喧騒が、やけに遠くに感じられた。
この日を境に、私の穏やかだった日々に、思いもよらない波紋が広がっていくことになるとは――このときの私は、まだ知る由もなかった。
お読みいただきありがとうございました!
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