第2話
明け方近くまで針を動かし続けた甲斐あって、朝の光が差し込む頃には、私の膝の上には小さな人形の輪郭が出来上がっていた。
とはいえ、まだ体の形を縫い合わせただけの、綿もろくに詰まっていない状態だ。目も口も、まだ何も刺繍されていない。
「……お嬢様? まさか、一晩中起きていらっしゃったんですか?」
朝の身支度にやってきたアンナが、机に突っ伏すようにして眠りかけている私を見つけ、悲鳴に近い声を上げた。
「んん……。おはよう、アンナ……」
「おはようございます、じゃありません! 昨日頭を打ったばかりなんですよ! すぐに休んでください!」
(うっ、正論すぎて何も言い返せない……!)
いつになく強い口調で叱られ、私はしぶしぶベッドに戻った。けれど瞼を閉じても、頭の中では次にどの糸を使うか、どんな縫い方で毛並みを表現するかということばかりが渦を巻いていて、なかなか寝つけなかった。
それから三日間、私は寸暇を惜しんで人形作りに没頭した。
昼間は令嬢としての務め――マナーの稽古や刺繍の授業、来客への挨拶などをこなしながら、夜になると自室に籠もって針を動かす。
一日目の夜は、髪の毛の植え方に苦戦した。前世の記憶にある技法を思い出しながら細い黒糸を一本一本結び付けていくのだけれど、量が足りなければ貧相に見えてしまうし、多すぎれば重たい印象になってしまう。何度もほどいては結び直し、気づけば蝋燭が三本も短くなっていた。
二日目は、瞳の刺繍に取り組んだ。深い紺青の糸を選び、光の加減で色味が変わって見えるよう、糸の太さを微妙に変えながら重ねていく。鏡に自分の顔を映しては、記憶の中の彼の眼差しと見比べる作業を、何十回と繰り返した。
「……もう少し、鋭さが欲しいのよね」
独りごちながら糸をほどく手つきに、迷いはあっても後悔はなかった。むしろ、納得のいくまでやり直せるこの時間そのものが、堪らなく愛おしかった。
「リゼット様、最近根を詰めすぎではありませんか? お顔の色が優れないようですけれど」
三日目の朝、目の下にうっすらと隈を作った私を見て、アンナが心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫よ、アンナ。これは……その、趣味みたいなものだから」
(趣味、で片付けていいのかしら、これ。もう趣味というか執念というか……)
誤魔化すように笑いながら、私は手元の作業を続けた。
前世の記憶が戻ってから、体に染みついた裁縫の技術は驚くほど滑らかに指先から発揮された。型紙の起こし方、布の裁ち方、綿の詰め方の力加減。まるで長年の相棒のように、道具たちが手に馴染んでいく感覚があった。指先に走る小さな痛みすら、今は不思議と心地よく感じられた。
そうして四日目の夜、ついに完成の時を迎えた。
「……できた」
呟いた声が、静かな部屋にほろりと零れる。
手のひらに収まるほどの大きさの人形が、机の上にちょこんと座っていた。艶やかな黒糸で表現された髪、深い紺青の瞳、きりりと結ばれた口元。表情は控えめながらも、記憶の中のあの凜々しさを、確かに写し取っている。
「……尊い」
思わず漏れた呟きは、涙声混じりだった。
前世でどれだけの推しグッズを手にしても、これほどまでに胸を震わせたことがあっただろうか。自分の手で、自分の愛情のすべてを注ぎ込んで作り上げた、というその事実が、既製品にはない特別な重みを持って迫ってくる。
私はそっと人形を持ち上げ、両手で包み込むようにして頬に寄せた。
柔らかな布の感触、微かに残る綿の匂い。そのすべてが、堪らなく愛おしい。
「今日からあなたは、私の推しよ。よろしくね」
誰に聞かれるでもなく、そう囁きかける。窓の外では、月がゆっくりと雲の合間を渡っていた。
ふと、鏡台の脇に置かれた小さな手鏡に、自分の顔が映り込んでいるのに気づいた。頬は上気し、瞳はうるうると潤み、口元は緩みきっている。
(やだ、この顔……! 完全にオタクの顔だわ、これ……!)
思わず苦笑が漏れた。伯爵令嬢としての淑やかな仮面はどこへやら、今の私はまごうことなき「限界オタク」の顔をしていた。けれど不思議と、恥ずかしさよりも懐かしさの方が勝った。前世でも、こういう夜が何度もあったのだ。
その日から、私の毎日は一変した。
朝、目が覚めればまず枕元の人形に「おはよう」と声をかける。身支度をしながら「今日はどんな一日になるかしら」と話しかけ、夜眠る前には、頬に押し当てるようにして「おやすみなさい」と囁く。
まるで自分自身に戻ったような、けれどそれ以上に満たされた感覚があった。
「リゼット様、その……何をなさっているんですか?」
ある朝、身支度の途中で人形に話しかけている私を見て、アンナが恐る恐る尋ねてきた。
(見られた……! でもよく考えたら、隠す方が難しい生活してるわね、私……)
私は一瞬固まったものの、誤魔化す方が却って不自然だと悟り、手にしていた人形をそっと差し出した。
アンナは人形を覗き込み、まじまじとその顔を見つめた。それから、はっとしたように目を見開く。
「これ……もしかして、団長様、ですか?」
(当てられた……! でも、よく考えたらアンナも演習見学の日、隣にいたんだものね……!)
隠しようもなく、私は素直に頷いた。
「え、ええ。その通りよ」
「やはり……。あの日から、リゼット様のご様子が少し変だとは思っていましたけれど」
アンナはくすりと笑みを零した。
「なるほど、そういうことでしたのね。よく分かりませんけれど、リゼット様が楽しそうなら、それでいいと思います」
その言葉に、私は胸を撫で下ろした。アンナは昔から、私の突飛な言動にも動じない、頼れる幼馴染だった。
「それにしても……」
アンナが改めて人形の細部に目を凝らし、感心したように呟く。
「本当によく特徴を捉えていらっしゃいますね。丸っこくて可愛らしいのに、ちゃんとあのお方らしさが伝わってきます」
「でしょう? 頑張ったのよ」
得意げに胸を張る私に、アンナはくすりと笑いを零した。
学園に通う日々の中でも、私は次第に人形を鞄の内側にそっと忍ばせて持ち歩くようになっていった。
最初は、部屋に置いていくのが寂しいという、ただそれだけの理由だった。けれど講義の合間、休み時間に鞄の中を覗き込んでは密かに目を細める時間が、いつしか私の学園生活の中で欠かせないものになっていた。
「リゼット様、今日もご機嫌ですわね」
廊下ですれ違った同級生に声をかけられ、私は慌てて表情を取り繕う。
「あら、そうかしら。特に変わったことはないのだけれど」
(顔に出てる……!? 令嬢としての仮面、もっと鍛えないと……!)
「ふふ、隠さなくても良いのに。何か良いことがあったお顔をしていらっしゃいますもの」
軽く受け流しながらも、内心では冷や汗をかいていた。鞄の中の人形の存在を、うっかり誰かに知られてしまわないだろうか――そんな緊張感と、これまで感じたことのない充実感が、奇妙に同居する毎日だった。
講義の最中にも、時折鞄に視線を落としては、口元が緩みそうになるのを堪える。教鞭を執る教師の声も、隣の席の友人の囁きも、いつもより少しだけ遠くに聞こえた。
「リゼット様、今日はやけにご機嫌ですね。何か良いことでもあったんですか?」
昼休み、食堂の片隅で向かいに座った友人のマリー・オルコットが、小首を傾げながら尋ねてくる。淡い栗色の髪を緩く編み込んだ、内気で控えめな性格の令嬢だ。
「え、そ、そんなことないわよ。いつも通りだわ」
「そうですか? なんだか、いつもより表情が柔らかい気がしますけれど」
鋭い指摘に、私は思わず視線を泳がせた。マリーは物静かな分、人の機微には人一倍敏感なところがある。ここで下手な言い訳をすれば、余計に怪しまれてしまうかもしれない。
「た、たまたまよ。今日の朝食が美味しかったからかしら」
「ふふ、そうですか。それなら良かったです」
あっさりと引き下がってくれたことに、私は内心で安堵の息を吐いた。
放課後、人気のない中庭の片隅で、私はこっそりと鞄から人形を取り出した。
木漏れ日が、葉の隙間からちらちらと降り注いでいる。風に吹かれた木の葉が、さらさらと乾いた音を立てて頭上を揺れていた。
「今日の講義、少し退屈だったわ。あなたも一緒に聞いていたら、きっと同じ気持ちだったでしょうね」
人形を膝の上に乗せ、独り言のように話しかける。返事などあるはずもないのに、その静かな時間が、何より心を落ち着かせてくれた。
前世の記憶を取り戻してから、まだ一週間と経っていない。それなのに、まるでずっと昔からこうしていたかのように、この習慣は私の中にすんなりと馴染んでいた。
風が止み、木漏れ日が一段と強く降り注ぐ。人形の刺繍された瞳が、光を受けてきらりと輝いたように見えた。気のせいだと分かっていても、思わず胸が高鳴る。
「……カイル様」
人形の顔をじっと見つめながら、ふとその名前が口から零れた。考えてみれば当然のことだ。この子はカイル・アシュフォード様、その人をかたどった人形なのだから、呼ぶ名前も最初から一つしかない。
それなのに、声に出した途端、心臓がどくんと跳ねた。まるで本人に呼びかけているみたいな、そんな錯覚に襲われる。
(きゃー……! 声に出しただけなのに、なんでこんなにドキドキするの……!)
一人きりの中庭で、私は人形をそっと抱きしめながら、しばらくの間その甘やかな気恥ずかしさに浸っていた。
夕暮れの茜色が中庭の芝生を染める頃、私は名残惜しさを感じながら人形を鞄の中に戻し、馬車乗り場への道を歩き出した。
石造りの回廊を抜ける途中、ちょうど反対側から歩いてきた数人の令嬢とすれ違う。誰もが噂話に花を咲かせながら、楽しげに笑い合っていた。
「ねえ、聞いた? 来月の夜会に、近衛騎士団の方々もいらっしゃるらしいわよ」
「まあ、それは楽しみですわね」
すれ違いざまに聞こえてきた会話に、私は思わず足を止めそうになった。夜会に、騎士団が。ということは、もしかすると――彼の姿を、また見られる機会があるということだろうか。
(え……。え、またお姿を拝見できるかもしれないの……!? きゃー……!! どうしよう、今から楽しみすぎる……!!)
心臓が、とくんとくんと跳ねる。
(って、だめだめ、落ち着きなさいリゼット……! まだ何も決まってないんだから……! ……分かってるけど、きゃーってなっちゃう……!)
そう自分に言い聞かせながらも、鞄の中の人形をそっと手のひらで包み込むように押さえ、私は歩みを再開した。
屋敷の自室に戻ると、窓辺に人形を座らせ、しばらくその横顔を眺めた。夕焼けの残光が、小さな人形の輪郭を淡く縁取っている。
「また明日ね」
そう声をかけて、私は静かにカーテンを引いた。
その足取りは、前世を思い出す前よりも、ずっと軽やかだった。
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