第1話
抜けるような春の青空の下、王都近衛騎士団の訓練場には、いつになく着飾った令嬢たちの姿が目立っていた。
観覧席として組まれた木製の桟敷には、パラソルの花が幾つも咲いたみたいに並んでる。薄桃色、若草色、空色――色とりどりの絹地が、吹き抜ける風のたびにふわりと揺れて、レースの縁飾りが小さく音を立てた。
「リゼット様、ほら見て。もうすぐ模擬戦が始まりますよ」
隣に座る侍女のアンナが、日傘の柄を軽く傾けながら声をかけてくる。淡い茶色の瞳が、期待でわずかに輝いていた。
私――リゼット・ヴァランタインは、膝の上で組んだ両手にそっと力を込めながら、小さく頷いた。
「うん、分かってるわ。楽しみにしていたんだもの」
近くの席では、見知った侯爵家の令嬢たちが扇の陰でひそひそと言葉を交わしている。
「今日こそ、団長様のお姿を間近で拝見できるかしら」
「あら、間近になんて畏れ多いですわ。遠くから拝見するだけで十分ですもの」
くすくすと控えめな笑い声が、風に乗って辺りに広がっていく。誰もが同じ方向――訓練場の中央に据えられた石畳の広場を、じっと見つめていた。
目当ては、ただ一人。
王国近衛騎士団の団長、カイル・アシュフォード様。
やがて、腹の底に響くような号令が鳴り響いて、若い騎士たちが整然と隊列を組んで訓練場に現れた。陽光を浴びて、彼らが纏う鎧の胸当てが幾つもの光を弾く。その先頭に立つのが、カイル様だった。
黒髪が風にわずかに流れて、地に長く伸びた影の先端が、彼の一歩ごとにゆらりと動く。鋭い双眸は真っ直ぐに前方を見据えたまま、瞬き一つしない。表情はほとんど動かなくて、何を考えているのかまるで読み取れない。それなのに、その佇まいだけで、周囲の空気がぴんと張り詰めるのが分かった。
「本当に、いつ見ても凜々しい方ですよね」
アンナが小さく息を漏らす。私も同じ気持ちで頷いた。
模擬戦が始まると、剣と剣がぶつかり合う金属質な音が幾度も響いた。カイン、カイン、と甲高い音が澄んだ空気を裂いて、その合間に、革靴が地面を蹴る乾いた音、荒い息遣い、砂埃の匂いまでもが混じり合う。
カイル様の一振りは、他の騎士たちとは明らかに違っていた。無駄がない。振りかぶる動作すら最小限で、それなのに剣先には確かな重みが乗っている。相手の剣を受け流して、体をわずかに沈めたかと思うと、瞬きの間に間合いを詰めて、切っ先を喉元へと突きつける。その一連の動きに、迷いなんて一切感じられなかった。
「まいりました……!」
対戦相手の若い騎士が、荒い息のまま片膝をつく。首筋を汗が伝って、日差しを受けてきらりと光った。カイル様は小さく頷くと、静かに剣を鞘へと収める。金属が擦れ合う、しゃりん、という涼やかな音。表情はやっぱり変わらない。それなのに、その一連の動きの美しさに、観覧席のあちこちからほう、と溜め息が漏れる。
一息つく間もなく、副団長格らしき別の騎士が名乗り出て、二戦目が始まった。今度の相手は体格に恵まれた大柄な男で、力任せの一撃を幾度も繰り出してくる。けれどカイル様は、その一撃一撃を紙一重で躱しながら、少しずつ相手の体力を削っていった。焦りも苛立ちも一切見せず、ただ淡々と、それでも確実に勝機を手繰り寄せていくその戦い方に、観覧席の空気が徐々に静まり返っていく。
最後は流れるような足運びから懐に入り込んで、相手の剣を弾き飛ばして決着。乾いた金属音とともに、剣が石畳の上を滑っていく。歓声よりも先に、感嘆の溜め息が広場を包んだ。
「氷の騎士団長、なんて呼ばれてますけど。ああして戦っているところを見ると、その渾名にも納得しちゃいますね」
アンナの言葉に、私は曖昧に微笑んで返した。
正直に言うと、この時の私はまだ、カイル様にそこまで強い感情を抱いていたわけじゃない。噂に聞く冷徹さも、遠目に見る限りではよく分からない。ただ、あれほど真剣な眼差しで剣を振るう人の姿は、素直に美しいなって思った。それだけだった。
――でも、このときの私は知らなかったのよね。
数刻後には、自分の中の何かが決定的に塗り替えられてしまうことになるなんて。
模擬戦が終わる頃には、日はだいぶ西へと傾いていた。橙色の光が観覧席の白い柱を染めて、令嬢たちも三々五々、扇や日傘を畳んで帰り支度を始める。
「リゼット様、お屋敷まで送りますね」
アンナに促されて、私は日傘を差しながら訓練場を後にした。大通りに出ると、見学に来ていた貴族たちの馬車が列をなしていて、御者たちの怒鳴り声や、蹄が石畳を打つ乾いた音、荷車の車輪が軋む音が入り混じって賑やかだった。
「今日は良いもの見られましたね、リゼット様」
「うん、ほんとに。……次に見学の機会があったら、また誘ってね」
軽口を交わしながら歩くうちに、大通りの喧騒は少しずつ遠のいていく。夕暮れの光が、石畳の隙間に長い影を落としていた。どこからか焼き立てのパンの匂いが漂ってきて、露店の主人が威勢よく声を張り上げている。
人混みを避けるようにアンナと二人、細い裏路地へと足を向けた時だった。
不意に、横合いから誰かがぶつかってきた。
肩に鈍い衝撃が走った、その直後。
「――申し訳ございません!」
上ずった声が耳をかすめる。体が大きく傾いで、とっさに手すりのようなものを探したけど、指先は虚しく空を切るばかりだった。
「あ――」
短い声を上げる間もなく、視界がぐるりと回る。石畳の地面が急速に近づいてくるのが、やけにゆっくりと見えた。日傘が手を離れて、からんと乾いた音を立てて転がっていく。
ぶつかってきたのは、荷物を抱えた商家の使用人らしき青年だった。彼は倒れ込む私を助け起こす間もなく、真っ青な顔で二度、三度と頭を下げると、人混みの向こうへと駆けていってしまう。引き止める余裕なんて、私にはなかった。
後頭部に、鈍い衝撃が走った。
ゴッ、という嫌な音が、頭の中で直接響いたような気がした。
「リゼット様――!?」
アンナの悲鳴のような声が、酷く遠くから聞こえる。
視界の端で、白い光が明滅した。目を開けているのか閉じているのかも分からない。ただ、頭の奥に、堰を切ったように何かが流れ込んでくる感覚だけがあった。
――それは、洪水みたいな記憶だった。
蛍光灯に照らされた四角い部屋。液晶画面の中で歌い踊る、色とりどりの衣装をまとった人たち。会場の熱気、無数のペンライトが夜空に星みたいに瞬く光景。徹夜で並んだグッズ売り場、開封の瞬間に心臓が跳ねる感覚、推しの一言に一喜一憂して眠れなかった夜。
日本という国で、しがない会社員として働きながら、余暇のすべてを「推し活」に注ぎ込んでいた女――それが、前世の私だった。
仕事帰りに配信を見て、給料日には限定グッズに散財して、友人たちと「尊い」「解釈が渋滞する」なんて訳の分からない言葉で盛り上がっていた記憶。裁縫が趣味で、休日は布地屋に入り浸って、推しの衣装を再現した布小物やぬいぐるみを作っては一人で悦に入っていた記憶。夜更けまで針を動かして、指先に何度も針を刺しながらも、完成した瞬間の高揚感に頬を緩めていた記憶。
それら全部が、堰を切ったように、今の私――リゼット・ヴァランタインという少女の中に流れ込んでくる。
痛い。頭が痛い。でもそれ以上に、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているみたいな感覚が凄まじかった。二つの人生の記憶が混ざり合って、どっちが「本当の自分」なのか一瞬分からなくなる。呼吸の仕方すら忘れちゃいそうな、変な浮遊感。
「リゼット様、しっかりなさってください……! 誰か、お医者様を……!」
アンナの震える声と、地面に片膝をついて私を抱き起こそうとする腕の感触。冷たい石畳の上で、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に映ったのは、涙目になって私を覗き込むアンナの顔。心配そうに眉を寄せたその表情に、ようやく現実感が戻ってくる。
「……アンナ?」
「リゼット様! よかった、意識が……! すぐにお医者様のところへ……!」
「うん……平気。ちょっと頭打っただけだから……」
そう言いながらも、頭の奥がずきずきと痛む。それでも私は、自分の中に生まれた変な違和感の方に、すっかり気を取られていた。
頭の中に、まるで別人の記憶が同居しているみたいな感覚。前世、っていう言葉が、驚くほどしっくり馴染む。
その日はアンナに支えられながら、なんとか通りかかった辻馬車を拾って屋敷まで送り届けてもらった。
屋敷に着くと、アンナがすぐさま侍医を呼び寄せてくれた。年配の侍医は私の頭をそっと触診しながら、眉間に皺を寄せる。
「後頭部に瘤ができておりますが、幸い出血もなく、瞳孔にも異常は見られません。念のため、今晩はゆっくりとお休みください」
「ありがとう、先生。ご心配をおかけしました」
そう応じながらも、私の頭の中は別のことでいっぱいだった。医師が退室して、アンナが心配そうに何度も振り返りながら部屋を出ていくと、ようやく一人きりになる。私は自室のベッドに横たわりながら、ずっと頭の中で押し寄せる記憶の波を反芻し続けていた。
前世の記憶。それも、決して穏やかなものじゃなくて、人生のすべてを「推し」に捧げていたオタクとしての記憶だ。
(噓でしょ……!? まさか、こんな形で思い出すことになるなんて……!)
天蓋を見上げながら、私は口の中でひとりごちる。窓の外では、すっかり日が落ちて、庭園の木々が藍色の闇に沈み始めていた。
伯爵令嬢としての振る舞いは、幼い頃から母に叩き込まれている。人前では常に淑やかに、優雅に。それは今も変わらないし、変えるつもりもない。
でも、こうして一人きりでベッドに転がっていると、抑えていたはずの前世の「性分」が、じわじわと顔を出してくるのが分かる。
(そういえば、今日……)
ふと、脳裏に蘇ったのは、訓練場で見たあの姿だった。
黒髪をなびかせて、迷いのない太刀筋で相手を圧倒していた、氷の騎士団長。
昼間見た時は、ただ「綺麗な人だな」としか思わなかった。でも今、前世の記憶と混ざり合った状態で改めて思い返すと――
(は……!? え、ちょっと待って……!!)
胸の奥から、堰を切ったように熱いものが噴き出してきた。
(きゃあああああ……!! 今日、イケメンいた……!! めちゃくちゃイケメンが、すぐ近くにいた……!! やだ、どうしよう、思い出したら顔がにやける……!!)
ベッドの上で、私はガバッと勢いよく上体を起こした。頭にはまだ鈍い痛みが残っていたけど、それどころじゃない。
心臓が、どくどくどくどくと、うるさいくらいに音を立てている。頬は燃えるように熱く、指先まで痺れたようにじんじんしていた。
無駄のない太刀筋。表情を変えず、それでも確かな実力で相手を圧倒する姿。汗に濡れた前髪の隙間から覗く、鋭くも整った双眸。鞘に剣を収める、あの静かで涼やかな音。
――あれは、間違いなく「尊い」以外の何物でもなかった。
(かっこよかった……。ほんとにかっこよかった……! きゃー、きゃー……!! 一人で叫びたい、枕に顔を埋めて叫びたい……!!)
前世で培われた審美眼が、脳内で盛大な警鐘――ううん、歓喜の鐘をガンガンに打ち鳴らしている。人生のすべてを「推し」に捧げていた、あの熱狂的な日々の記憶が、今まさに新しい対象を見つけて、待ってましたとばかりに息を吹き返そうとしていた。
(いやいや、待って、落ち着いて私……! 今日初めて見かけただけの人だよ!? ……なのに、なんでこんなにドキドキしてるの……!? きゃー……!! だめ、思い出すたびにきゃーってなる……!!)
そう自分に言い聞かせようとするそばから、頭の中では既に、あの太刀筋の美しさ、佇まいの凜々しさが、リピート再生どころか無限ループしている。指先が、無意識にシーツをぎゅうっと握りしめていた。
気づけば、私はベッドから飛び降りるようにして抜け出し、部屋の隅に置かれた裁縫箱の蓋を、勢いよく開けていた。
前世で使い込んでいた道具とは違う、貴族令嬢らしい上品な意匠の裁縫箱。象牙色の縁取りに、小さな花の彫刻が施されている。それでも、中に整然と収まった針や色とりどりの糸を見た瞬間、指先が疼くような感覚があった。
前世の私は、裁縫が得意だった。布を選んで、型紙を起こして、丁寧に縫い合わせて、推しの姿を形にする――そんな時間が、何よりも好きだった。徹夜で針を動かし続けても、まったく苦にならなかったあの感覚を、体が覚えている。
(作りたい……! 作りたい作りたい作りたい……! あの人を、この手で……!!)
窓の外で、夜風が庭木の梢を揺らす音がする。ざわり、ざわりと。月明かりが雲間から零れて、机の上にうっすらと青白い光を落としていた。
私は裁縫箱を抱えたまま、机の前に腰を下ろした。ペンを取って、白紙の紙に向かう。
黒髪、鋭い眼差し、引き締まった輪郭――記憶の中の彼の姿を、一つひとつ思い出しながら、拙いなりにデザイン画を描き起こしていく。眉の角度、目元の鋭さ、口元の引き結ばれ方。何度も線を引き直しながらも、その手つきに迷いはなかった。
「……今夜は、眠れそうにないわね」
誰に言うでもなく呟いた声は、静まり返った部屋にひっそりと溶けていった。
ペン先が紙の上を走る、さらさらという小さな音だけが、いつまでも部屋の中に響いていた。時折、外から梟の鳴き声が微かに届く以外は、何も聞こえない静かな夜だった。
デザイン画が仕上がる頃には、月はすっかり中天に昇っていた。私は紙の上の彼の姿をしばらく見つめてから、ゆっくりと立ち上がって、衣装棚の奥にしまい込んでいた端切れの箱を引っ張り出す。
艶やかな漆黒の絹地、深い紺青のベルベット。指先で布地の感触を確かめながら、どれが彼の髪や瞳の色に近いか吟味していく手つきは、我ながら真剣そのものだった。
「……髪の色は、この絹が良さそうね。瞳は、もう少し暗めの青が欲しいところだけれど」
呟きながら、鋏を手に取る。前世で数え切れないほど繰り返してきた作業のはずなのに、まるで初めて針を持つ時みたいに、指先がわずかに震えた。それは緊張じゃなくて、抑えきれない高揚感からくるものだって、自分でもよく分かっていた。
(大丈夫、大丈夫……! 私には前世で培った腕があるんだから……! 今度こそ、悔いのないものを作ってみせるわよ……!!)
心の中で静かに、それでも確かな決意を固める。
窓の外の月明かりを頼りに、私はその夜、明け方近くまで一心不乱に針を動かし続けた。
こうして、伯爵令嬢リゼット・ヴァランタインの、静かで少し騒がしい「推し活」の日々が、密かに幕を開けたのだった。
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