第18話
庭園に張り出した天幕の下、白磁の茶器がかちりと澄んだ音を立てた。侯爵家主催の園遊会は、抜けるような青空の下、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちで賑わっている。
「リゼット様、こちらの席へどうぞ。日差しがちょうど陰りますの」
フィオナ様に促されるまま、私は白いガーデンチェアに腰を下ろした。すぐ隣ではマリー様が、運ばれてきた焼き菓子に目を輝かせている。
「今日はお天気にも恵まれて、本当によかったですわね」
「ええ。母も張り切って支度をしていたわ」
答えながら、私は視線をさりげなく庭園全体へと巡らせた。今日は母に連れられての参加だ。工房の忙しさにかまけて、こうした社交の場に顔を出すのは久しぶりだった。
「リゼット様は、最近すっかりお忙しいご様子ですものね」
マリー様が焼き菓子を頬張りながら、こちらを覗き込んでくる。
「ええ、まあ……。おかげさまで」
「羨ましいですわ。私なんて、代わり映えのしない毎日ですのに」
フィオナ様が扇の陰でくすくすと笑う。三人で他愛のない世間話に興じている間、庭園には楽団の奏でる穏やかな旋律が流れ、蝶が花壇の間をひらひらと舞っていた。行き交う招待客の衣擦れの音、遠くで弾ける笑い声。久しぶりに感じる、屈託のない午後だった。
(たまにはこういう場も悪くないわね。カイル様に会う心配もなさそうだし)
そう安堵していた矢先だった。庭園の入り口の方角で、招待客たちがざわめくように顔を寄せ合っている。
「まあ、近衛の団長様がいらしていますわ」
誰かの声が耳に飛び込んできた瞬間、私は手にしていたティーカップを危うく取り落としそうになった。
「リゼット様、大丈夫ですか」
「え、ええ……。ちょっと、手が滑っただけで」
平静を装いながらも、心臓は早鐘のように鳴っている。招待客の間を縫うように歩いてくる長身の姿は、見紛うはずもなかった。今日は騎士団の制服姿だ。警護のために招かれたのか、それとも純粋な客人としてか、判然としない佇まいで、主催の侯爵夫人に丁重に迎えられている。
(どうして、こんなところにまで……。うそ、うそ、心の準備がまるでできていないのだけれど……!)
内心の悲鳴を押し殺しながら、私はできる限り視線を伏せて、目立たないよう努めた。工房でお会いする時とは違い、今日の私は「店主のリゼット」ではなく「ヴァランタイン伯爵令嬢リゼット」だ。そのことを意識するだけで、指先が冷たくなっていく。
けれど、そんな願いも虚しく、母がこちらへ近づいてくる侯爵夫人と言葉を交わす輪の中に、私は否応なく引き込まれていった。
「こちら、我が家の娘のリゼットですの」
母の紹介に合わせて頭を下げると、輪の中にいたカイル様と、正面から視線が重なった。
「ヴァランタイン嬢、か」
低く呟かれたその声に、私は息を詰めた。名乗った瞬間の、ほんのわずかな間。その一瞬に、何かを確かめるような色が、カイル様の瞳をよぎった気がした。
「初めまして、と言っていいものか。カイル・アシュフォードだ」
「リゼット・ヴァランタインと申します。以後、お見知りおきを」
声が震えていないか、それだけを気にしながら、私はどうにか型通りの挨拶を返した。
「団長様も、こういった催しにいらっしゃるのは珍しいですわね」
母がにこやかに水を向けると、カイル様は僅かに視線を巡らせながら答えた。
「本日は、殿下の護衛を兼ねての参列だ」
「まあ、それは大変な務めですこと。頼もしい限りですわ」
主催の侯爵夫人が相槌を打ち、話題はすぐに庭園自慢へと移っていく。丹精込めた薔薇の品種、遠方から取り寄せたという噴水の意匠――夫人が誇らしげに語る間、私は極力存在感を消すことに専念した。
それでも、視線だけは何度もこちらへ戻ってくるのが分かった。値踏みするような、あるいは何かを確かめようとするような、そんな眼差しだった。
しばらくして輪が解け、令嬢たちがそれぞれの歓談へ散っていく中、私は一人、薔薇の生垣の陰へと逃げるように移動した。荒れた呼吸を整えたくて、少しだけ人の輪から離れたかった。
「先ほどは、失礼した」
背後から声をかけられ、私は跳び上がりそうになった。振り返ると、カイル様がすぐそばに立っている。
「い、いいえ。こちらこそ、突然のご挨拶で」
カイル様は何も言わず、しばらくの間こちらを見つめていた。まるで答え合わせでもするような、そんな眼差しだった。
(な、なんでそんなにじっと見るの……。もしかして、もう気づいて……?)
背筋を冷たいものが伝う感覚に耐えながら、私はどうにか微笑みを保った。
「あの……。何か、ついておりますでしょうか」
「……いや。失礼した。無遠慮に見過ぎたな」
珍しく歯切れの悪いその一言に、私は内心で首を傾げた。いつもの淡々とした様子とは、どこか違う気がする。
しばらくの沈黙の後、抑えきれなかったというように、独り言めいた呟きが零れた。
「店主殿は、ヴァランタイン家の令嬢だったのだな」
その一言に、私は心臓が凍りつく思いがした。
「え……。あの、それは」
「……いや。忘れてくれ。こんな場所で言うことじゃなかった」
慌てて話を切り上げたカイル様の横顔を、私はまじまじと見つめてしまった。逸らされた視線と、一瞬の沈黙から、ご本人も口を滑らせたと気づいている様子が伝わってきた。
「園遊会は、お好きか」
話題が変わったことに、私は戸惑いながらも頷いた。
「好き、というより、母について回っているだけですけれど。カイル様は」
「性に合わない。人が多い場は、どうにも落ち着かなくてな」
「それなのに、いらしているのですね」
「今日は、断り切れない事情があった」
言葉少なに答えるその横顔に、私はふと工房での様子を思い出した。任務だからと訪ねてきては、いつも思いのほか長く滞在していく、あの不器用な優しさと似た気配がある。
「意外です。てっきり、こういう場でも如才なく振る舞われるのかと」
「買いかぶりだ。人と話すのは、得意な方じゃない」
自嘲するような口調に、私は思わず口元を緩めた。
「それは、少し意外ですわ。皆様、団長様のことを、社交でも完璧な方だと噂していますのに」
「表向きだけの話だ。俺は、皆が思うほど器用な人間じゃない」
ふと零されたその一言に、私は胸の奥が小さく疼くのを感じた。氷の騎士団長と呼ばれる方の、飾らない素顔の一端に触れた気がした。
「私は、そうは思いません」
思わず口をついて出た言葉に、カイル様が僅かに目を見開いた。
「不器用でいらっしゃるのは、悪いことではありませんもの。その分、態度や行動で示してくださる方だと、私はお見受けしています」
言い終えてから、少し出過ぎた発言だったかと不安になる。けれどカイル様は、しばらく黙り込んだ後、小さく息を吐いた。
「……変わった令嬢だな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
思い切って微笑んでみせると、カイル様の口元にも、ほんの僅かに緩みが差した気がした。見間違いかもしれない、けれど確かに。
「団長様は、休日は何をなさっているのですか」
沈黙を埋めるように尋ねると、カイル様は少し考える素振りを見せた。
「大したことはしていない。強いて言えば、街を歩くくらいか」
「お一人で、ですか」
「ああ。人捜しをしている」
思いがけない答えに、私は心臓が跳ねるのを感じた。
「人捜し、ですか」
「拾い物をしてな。持ち主を捜している」
それ以上は語らず、カイル様は懐に軽く手を触れた。その仕草に、私は自分の胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。あの子は、今もあの方の懐で大切にされている。そう思うだけで、後ろめたさと嬉しさが同時にこみ上げてくる。
「早く見つかるといいですわね、その方」
「……ああ。そう願っている」
短く答えたカイル様の声に、いつになく柔らかな響きが混じっていた気がした。
その時、庭園の奥から母の呼ぶ声が届いた。
「リゼット、こちらにいらして。夫人がお呼びよ」
「はい、ただいま」
名残惜しさを覚えながらも、私は一礼してその場を辞した。振り返ると、カイル様はまだ薔薇の生垣のそばに立ったまま、こちらを見つめていた。
(今日は、危なかった……。でも、なんだか)
母の元へ向かう足取りの中、私は自分の頬が緩んでいるのに気づき、慌てて引き締めた。危険と隣り合わせだったはずのひとときが、なぜか温かい余韻だけを残している。
◇
「団長、ずっとあの令嬢と話し込んでましたね」
園遊会を辞し、馬に乗って城へ戻る道すがら、並走するレイフがにやにやとした顔を隠しもせずに言った。
「別に、大した話はしていない」
「大した話じゃない割に、随分と長かったですけど。俺、遠目に見てましたけど、団長があんなに自分から話しかける方なんて、初めて見ましたよ」
「殿下の護衛の合間だ。手持ち無沙汰だっただけだ」
「へえ。手持ち無沙汰で、薔薇の生垣の陰まで追いかけていくんですね」
痛いところを突かれ、俺は口をつぐんだ。追いかけていったという自覚は、確かにあった。
軽口を受け流しながら、俺は先ほど零れた自分の言葉を思い返していた。リゼット・ヴァランタイン。声の高さも、言葉を選ぶ間合いも、伏せがちな睫毛の動きも――工房で向き合った時と、寸分違わなかった。
「団長、また黙り込みましたね。何を悩んでるんです」
「今日会った令嬢は、工房の店主だ」
「は?」
レイフが手綱を握ったまま、驚いたように目を丸くする。
「本当ですか」
「本当だ。それに――」
俺は懐の人形に軽く触れた。
「あの日、街で俺にぶつかって、これを落としていった令嬢も、おそらく同じ人物のような気がする」
レイフが息を呑む気配がした。
「それは……。随分と、核心に迫りましたね」
「あの時は一瞬だったが、髪色も同じだ、何より雰囲気が似ていると思った」
「団長、それ、本人に確かめないんですか」
「今すぐには、しない」
「へえ、どうしてですか?」
「急いては、事を仕損じる」
短く答えながら、俺は自分でも意外な自制心に驚いていた。真実を知りたい気持ちと同じくらい、あの令嬢自身をもっと知りたいという気持ちが、静かに胸の中で育ちつつあった。焦って暴いてしまえば、この心地よい距離感すら壊れてしまう気がしてならなかった。
「それに、本人の口から聞いたわけでもないのに、決めつけて問い詰めるのはフェアじゃない」
「団長の口から『フェア』なんて言葉が出るとは、思いませんでしたよ」
「おかしいか」
「いえ、むしろ団長らしいと思いますよ。不器用なくせに、変なところで律儀ですもんね」
レイフの評に、俺は何も言い返せなかった。図星を突かれた気分だった。
「団長、なんだかんだ言って、余裕ですね」
「そう見えるか」
「ええ、初めて見る顔ですよ、それ」
言われて、俺は自分の頬に軽く触れた。緩んでいる自覚はなかったが、レイフがそう言うなら、そうなのかもしれない。
からかうようなレイフの声を背に受けながら、俺は夕暮れの空を見上げた。城門の向こうに広がる茜色の光が、今日という一日を、いつもより鮮やかに染め上げているように見えた。懐の人形の重みが、いつもよりわずかに軽く感じられるのは、きっと気のせいではなかった。
ふと、あの令嬢の言葉が脳裏をよぎった。
「片想いにも、立派な恋のかたちがある」
か。この人形の持ち主も、もしかしたら――同じ想いを抱えているのかもしれない。その場合、その相手は……。
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