第17話
カイル様の訪問から三日が経っていた。
あれ以来、工房の空気はどこかそわそわと落ち着かない。アンナは呼び鈴が鳴るたびに肩を強張らせ、私は私で、次はいつ、どんな顔をしていらっしゃるだろうかと、恐怖と期待の狭間で気を揉み続けていた。
「リゼット様、今日はもう三度も同じ生地の束を数え直していらっしゃいますよ」
アンナに指摘され、私は慌てて手元の反物から目を離した。
「そ、そう? 自分では気づかなかったわ」
「落ち着かないお気持ちも分かりますけれど……。もし今日いらしても、いつも通りに振る舞えばよろしいのですよ」
「分かってはいるのだけれど」
窓の外に目をやると、通りを行き交う人々の合間に、近衛の制服を着た方の姿がちらりと見えた。日頃の巡回にしては、この辺りまで足を延ばすのは珍しい。街の外れの、目立たないはずのこの一角にも、少しずつ人目が増えてきている気がする。
(このままだと、本当に見つかってしまうかもしれないわね……)
不安がよぎる一方で、それとは裏腹な高揚感が胸の奥でちりちりと燃えている自分にも、私は気づいていた。
(また来るなんて言ってなかったけど……。でも、なんだかんだで、また会える気がするのよね)
自分でも都合のいい予感だと分かっていた。それでも、一度でも間近でお顔を拝見してしまった以上、もう心のどこかがすっかり浮き足立ってしまっている。前世で言うところの「一度供給を受けたオタクの飢え」というやつだ。会えたら会えたで心臓が持たないくせに、会えない日が続けば続いたで、それはそれで物足りなさを覚えてしまう。我ながら忙しい性分だと思う。
その日の午後、私は常連の令嬢の対応をしていた。名はセレナ様。学園の後輩に想いを寄せているという、線の細い、控えめな方だ。
「あの、こんな些細なことで人形をお願いするなんて、贅沢でしょうか」
生地見本を選びながら、セレナ様は不安げに眉を下げた。
「まだ、告白もしていないんです。ただ、遠くから見ているだけの関係で……。それなのに、こんな風に形にしてしまってもいいものかと」
私は手を止めて、まっすぐに彼女を見つめ返す。
「贅沢だなんて、とんでもございません。誰かを想う気持ちに、些細も些細でないもありませんもの」
「でも……。まだ、お付き合いしているわけでもないのに」
「想いの重さは、関係の深さでは測れませんわ。片想いだって、立派な恋のかたちです。むしろ、まだ何も約束されていないからこそ、その気持ちを大切に取っておきたいと思うのは、少しもおかしなことではありませんもの」
言葉にしながら、私は自分の胸の内をも見つめ直していた。名乗ることもできない、届くはずもない想い。それでも、こうして日々を彩ってくれる大切な感情には違いない。
セレナ様は目を潤ませながら、小さく頷いた。
「そう言っていただけると、少し肩の荷が下ります」
「後輩の方の、どんなところに惹かれたのですか」
「休み時間、いつも一人で庭の花を写生していて。誰かに見せるためでもないのに、真剣な横顔で……。声をかける勇気もなくて、遠目に眺めているだけなんですけれど」
語るうちに、セレナ様の声はだんだんと熱を帯びていった。淡い緑色の反物を選び、髪の色に合う糸を並べていく間、彼女の頬はほんのり赤く染まったままだった。
「この緑、少し彼の瞳の色に近い気がします」
「でしたら、縁取りの糸だけ、もう少し濃い色に変えてみましょうか。輪郭がはっきりして、より印象に残る仕上がりになりますよ」
いくつかの組み合わせを並べて見せると、セレナ様は迷いながらも、最後には一番濃い緑を指差した。
「これにします。……こうして選んでいるだけで、なんだか会いに行けたような気分になりますね」
照れくさそうに笑うその横顔に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。誰かを想う気持ちを、こうして少しずつ形にしていく手伝いができる。この瞬間だけは、何度経験しても飽きることがない。
その時だった。控えめな呼び鈴の音に続いて、扉の隙間から誰かがそっと顔を覗かせる気配がした。
(え……。まさか……)
振り返るより早く、扉の向こうに立つ人影の輪郭で分かってしまった。カイル様だ。今日は鎧姿ではなく、以前と同じ落ち着いた色合いの上着を纏っている。
セレナ様が接客中だと気づいたのか、カイル様は入り口の脇に控え、無言のまま待つ姿勢を見せた。急かす様子もなく、ただ静かにこちらを見ている。
(え、待っていてくださるの……? うそ、視線が痛い、痛いけど嬉しい、でも今は接客中……! 平常心、平常心よ、リゼット……!)
内心の大混乱を押し隠しながら、私はどうにか平静を装ってセレナ様との商談を締めくくった。丁寧に頭を下げて見送る間も、背中にカイル様の視線を感じている気がして、指先まで緊張が走る。
扉が閉まると、カイル様がゆっくりと歩み寄ってきた。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「いや、こちらが勝手に押しかけただけだ。客の応対を優先するのは当然のことだろう」
「今のやり取りが聞こえた。片想いにも、立派な恋のかたちがある、と」
思いがけず自分の言葉を引かれ、私は少し狼狽えた。
「あ……。お聞かせするつもりはなかったのですが」
「気にするな。……いい言葉だと思った」
短く告げられたその一言に、胸の奥が小さく波打つ。表情はほとんど変わらないのに、声の端に確かな実感がこもっているのが分かった。
「今日は、また何かお調べになることが」
「以前尋ねた店の場所について、他に何か聞いていないかと思ってな」
それは建前だと、私にはなんとなく分かった。前回訪れた時よりも、質問の間隔が長い。急ぐでもなく、ただ工房の様子を眺めるように、視線をゆっくりと巡らせている。
「この仕事は、いつから」
「学園に通い始めた頃からです。誰かの想いを形にするお手伝いができたら、と思い立ちまして」
「なぜ、そう思った」
率直な問いに、私は少し考えてから答えた。
「言葉にできない想いを、抱えたままの方がたくさんいらっしゃるからです。好きだと伝える勇気がなくても、形にすることならできる。そうやって、誰かの気持ちが少しでも軽くなるなら――それだけで、この仕事をしている意味があると思っています」
言い終えてから、少し喋りすぎただろうかと不安になる。けれどカイル様は黙ってこちらを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「不器用な人間には、ありがたい仕事だな」
ぽつりと零されたその言葉に、私は思わず顔を上げた。カイル様の表情は変わらず硬いままだったけれど、その目にはどこか遠くを見るような色が浮かんでいた。
「言葉にするのが得意ではない方でも、想いそのものが消えるわけではありませんもの」
「……そうだな」
短い相槌に、それ以上の意味を読み取っていいものか分からず、私は視線を落とした。沈黙が落ちても、不思議と気まずくはなかった。窓の外で風に揺れる木々の音だけが、静かに工房を満たしている。
「これまで、断られたことは」
「依頼を、ということでしょうか」
「いや。想いを形にしたところで、届かないままのことも多いだろう。それでも作り続ける理由が、俺にはよく分からなくてな」
思いがけない問いに、私は少し言葉を探した。
「届くかどうかは、また別のお話ですもの。それでも、想い続けたという事実は、誰にも消せません。形にすることで、それを自分自身がちゃんと抱きしめていられるようになる――そのための人形だと、私は思っています」
カイル様はしばらく黙り込んだ後、小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
納得したのか、それとも別の何かを考えているのか、その横顔からは読み取れなかった。それでも、真剣にこちらの言葉を受け止めてくださっているのだけは、痛いほど伝わってきた。
「先ほどの令嬢……。名は、なんと言ったか」
「セレナ様、です。お名前まで気にされるとは、意外ですわ」
「別に。ただ、誰かがああして一生懸命に想いを語る場面を、久しく見ていなかった気がしてな」
その言葉に、私はふと胸を突かれた。氷の騎士団長と呼ばれるほどに冷静沈着なこの方も、誰かの熱心な想いに触れて心を動かされることがあるのだと、当たり前のことに今更気づかされる。
「長居した。今日はこれで失礼する」
「はい。お気をつけて」
一礼して見送りながら、私はふと、いつもより長く感じた滞在時間に気づいた。用件だけなら、もっと短く済んだはずなのに。
(気のせいよね、きっと。……気のせい、だといいのだけれど)
扉が閉まった後も、私はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。アンナが茶器を片付けながら、こちらをちらりと窺う。
「リゼット様、お顔が緩んでいらっしゃいますよ」
「え……っ、そんなことないわ」
慌てて頬を押さえたけれど、火照りは簡単には引いてくれなかった。
「今日は随分と、色々とお話しされていましたね。いつもの団長様は、あんなに長くお喋りになる方ではないと聞いていたのですけれど」
「そう、なのかしら。私にはよく分からないけれど……」
言いながら、私は先ほどの静かな沈黙を思い出していた。あの一拍の間、確かに何かが通じ合っていたような、そんな錯覚に近い感覚が、まだ胸の奥に残っている。
(勘違いしちゃだめよ、リゼット。あの方は、あくまでお仕事でいらしているだけなんだから)
自分に言い聞かせながらも、口元がどうしても緩んでしまうのを、私は止められずにいた。
◇
工房を出て、俺はしばらく無言のまま通りを歩いていた。
「団長、今日はやけに長かったですね」
外で待っていたレイフが、待ちくたびれた様子で伸びをしながら声をかけてくる。
「聞きたいことがあった」
「聞きたいこと、ねえ。店の場所の話にしては、随分と時間がかかってましたけど」
からかうような声音に、俺は答えずに歩みを進めた。実際、聞き出したかった手がかりはほとんど得られなかった。それでも、無駄な訪問だったとは思えなかった。
脳裏に浮かぶのは、あの令嬢の言葉だった。片想いにも、立派な恋のかたちがある。誰かにそう言ってもらえたなら、あの日、街角で人形を拾い上げたまま立ち尽くしていた自分の気持ちも、少しは形になったのかもしれない。
「団長、聞いてます?」
「聞いている」
「じゃあ、俺が今何を言ったか繰り返せます?」
答えられずにいると、レイフが呆れたように肩をすくめた。
「やっぱり。すっかり心ここに在らずですね」
言い返す言葉が見つからず、俺は黙って歩みを続けた。あの時の目の色、言葉を選ぶ間合い、伏せがちな睫毛の動き――どれもが、記憶の奥にある誰かの姿と静かに重なっていく。似ている、というだけでは足りない。もっと確かな何かが、少しずつ像を結び始めている気がした。
それだけではない。想いが届かなくても作り続ける理由を尋ねた時の、あの落ち着いた答え方。誰かに教えられた台詞ではなく、自分自身の芯から出てきた言葉だというのが、聞いていて分かった。ああいう芯の強さを持つ人間に、俺はこれまで出会った覚えがない。
任務のために店へ通っていたはずが、いつの間にか、その芯の強さそのものに引き寄せられている自分がいる。認めるのは癪だが、否定できるほど単純な感情でもなかった。
「団長、また随分と考え込んでますね」
「別に」
「その『別に』、この頃よく聞く気がしますよ」
レイフが肩をすくめながら笑う。俺はそれを軽く受け流しながら、懐の人形に手を触れた。紺青の瞳が、いつものように静かにこちらを見つめ返している。
「今日、店で何を話したんです」
「大したことじゃない」
「またそれだ。まあ、団長がそこまで隠したがるなら、よっぽど大事な話をしたんでしょうね」
軽口を叩きながらも、レイフの目には珍しく真剣な色が浮かんでいた。
「団長、無理はしないでくださいよ。任務にかこつけて、なんて言い訳もそろそろ苦しくなってきてる頃合いでしょう」
「……分かっている」
短く答えると、レイフはそれ以上何も言わず、隣を歩く足取りだけを合わせてきた。石畳を踏む足音だけが、しばらくの間、二人分重なって響いていた。
こんな風に誰かを気にかけるのは、いつ以来だろうか。任務に忙殺される日々の中で、自分の内側にこれほど静かな熱が灯るのを感じたことは、記憶する限り一度もなかった。
「団長、次はいつ行くんです」
「決めていない」
「決めていないわりに、もう次の口実を考えてる顔ですけど」
図星を突かれ、俺は答えに詰まった。レイフはそれだけで満足したのか、これ以上追及せず、口笛でも吹きそうな軽い足取りで隣を歩き続けている。
あの店に、また行く理由を作らなければならない。任務としてではなく――ただ、もう一度あの声を聞きたいという、それだけの理由で。
夕暮れの空を見上げながら、俺はそんな自分に、密かに戸惑っていた。持ち主を捜すという目的が、いつの間にか、それとは別の何かにすり替わりつつある。リゼットと名乗った、あの令嬢の姿が、頭の中を占め始めていた。
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