第16話
朝から降り続いていた小雨が、昼過ぎになってようやく上がった。面影工房の窓越しに覗く空は、まだ灰色の雲を薄く残しながらも、時折り淡い陽の光を差し込ませている。濡れた石畳に反射する光が、作業台の端までうっすらと届いていた。
私は受け取ったばかりの依頼票に目を通していた。今日の予約は、あと一件。近衛騎士団の若手騎士に想いを寄せているという令嬢からの、初めての注文だった。
「リゼット様、次のお客様がいらっしゃるまで、まだ少し時間がありますね」
帳簿を片手に、アンナが温かいお茶を運んできてくれる。カップを受け取りながら、私は小さく息をついた。
「そうね。少しだけ、休ませてもらおうかしら」
(それにしても……。最近、物騒な噂ばかり耳にするのよね)
昨日、学園で聞いた話が、まだ頭の片隅に引っかかっていた。近衛の方々が、街の商家にまで聞き込みをして回っているという話。生地屋や小間物屋を中心に、無名の工房から人形が出回っていないか尋ねて歩いているのだと、アンナも言っていた。
(工房、って言われると、さすがにぎくりとするわ……)
温かいお茶を一口含みながら、私は密かに肝を冷やす。まさか今日にでも――なんて考えすぎだと分かっていても、一度浮かんだ不安はなかなか消えてくれなかった。
考えを振り払うように、私は午後の予約に向けて準備を始めた。棚から明るい水色の反物を選び出し、作業台の上に広げる。若い騎士の爽やかな印象に似合いそうな色を、あらかじめ見繕っておくつもりだった。
程なくして、控えめな呼び鈴の音が響いた。今度は予約通りの来客だ。
「いらっしゃいませ」
迎え入れたのは、そばかすの浮いた頬をほんのり染めた、年若い令嬢だった。案内された椅子に腰掛けるなり、彼女は膝の上で指をきつく組み合わせた。
「あの……初めてで、緊張してしまって」
「大丈夫ですよ。まずは、想っていらっしゃる方のお話を聞かせてくださいませ」
促すと、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。剣の稽古の合間に見せる不器用な優しさ、汗を拭う仕草、ふとした時に見せる照れくさそうな笑み――話すうちに言葉はどんどん熱を帯びていき、最後には頬を両手で覆って俯いてしまった。
「すみません、つい夢中になって喋りすぎてしまいました」
「いいえ、ちっとも。それだけ大切に想っていらっしゃるのが、よく伝わってきましたわ」
水色の反物を手に取り、明るい栗色の髪に合いそうな糸の色を並べて見せる。彼女は目を輝かせながら一つずつ手に取り、光にかざして確かめていた。
「この色、稽古着の下から覗く襟元の色にそっくりですわ」
「でしたら、こちらの糸も合わせてみましょうか。瞳の色に、少し緑がかった色を差すと、より柔らかい印象になりますよ」
いくつかの組み合わせを並べて見比べながら、彼女は真剣な面持ちで選び続けた。選び終える頃には、最初の硬さはすっかり抜け、晴れやかな表情に変わっている。
「仕上がりましたら、こちらからお届けにあがりますね」
「ありがとうございます。今からもう、待ち遠しくて仕方ありません」
深々と頭を下げて帰っていく後ろ姿を見送りながら、私はしみじみとした温かさに包まれていた。誰かを想う気持ちを、こうして形にする手伝いができる。何度経験しても、この瞬間だけは飽きることがない。
アンナが空いた椅子を戻しながら、帳簿に予約の完了を書き込んでいく。
「今日はこれで、予定の分は終わりですね」
「そうね。あとは、頼まれていた分の仕上げを進めましょうか」
私は作業台に向き直り、仕上げかけの人形を手に取った。先ほどの令嬢のために用意する、栗色の髪のものだ。針を通す指先が、自然と滑らかに動き始める。
そのとき、控えめな呼び鈴の音が、静かな工房に再び響いた。
予約のない時間帯だ。私が顔を上げるより早く、アンナが席を立ち、玄関へと向かう。
「いらっしゃいませ」
扉の向こうの相手を見るなり、アンナの声がふっと途切れた。普段はどんな来客にも如才なく応じる彼女が、珍しく言葉を失っている。ただ事ではない気配に、私は思わず腰を浮かせた。
振り返ったアンナの顔は、いつになく強張っていた。
「リゼット様。近衛騎士団の……団長様が、いらしています」
喉の奥から、声にならない悲鳴が込み上げてくる。手にしていた針を、危うく取り落としそうになった。
深呼吸を一つ挟んで、私はできる限り平静な顔を作った。伯爵令嬢として培ってきた作法が、こういうときばかりは頼もしい。
「お通しして」
告げると、アンナが小さく頷いて扉を大きく開いた。
入ってきたのは、黒髪に鋭い双眸の、鎧姿ではなく落ち着いた色合いの上着をまとった男性だった。街ですれ違うだけでも人目を集めるだろう整った輪郭に、私は内心で盛大に取り乱していた。
(本物だ……。本物のカイル様が、うちの工房に……! うそ、うそ、心の準備が……!)
浮かれていられるはずもないのに、胸の奥がどうしようもなく高鳴ってしまう。喜びと恐怖が同時に押し寄せてくる感覚を、私は必死に押し殺した。
「突然の訪問、失礼する。近衛騎士団のカイル・アシュフォードだ」
「ようこそいらっしゃいました。この工房を任されております、リゼットと申します」
名乗りながら、私はさりげなく視線を伏せた。声が震えていないか、それだけが気がかりだった。
「聞きたいことがある。少し、時間をもらえるか」
「はい。私に分かることでしたら、何なりと」
促すと、カイル様は工房の中をゆっくりと見回した。棚に並んだ反物、壁際の糸巻き、作業台の上の裁ちばさみ――一つ一つに視線を落としていく様子は、値踏みというよりも、何かを確かめているような静かな眼差しだった。
視線が棚の隅、見本として飾ってある数体の人形へと向いた瞬間、私の背筋にひやりとしたものが走った。幸い、そこに並んでいるのはマリー様やフィオナ様のために作った分の控え――ご本人たちの許しを得て店先に置かせてもらっている、当人以外には分からない人形ばかりだ。それでも、カイル様の目がその一体一体を丁寧になぞっていく様子を見ていると、指先から血の気が引いていくのが分かった。
傍らに控えていたアンナが、さりげなく茶器を片付けるふりをしながら、見本の棚の前へと立ち位置を変える。視界を遮ろうとしてくれているのだと分かり、私は密かに感謝した。
「ここで、人形を仕立てていると聞いた」
「はい。お客様のご依頼に応じて、お作りしております」
「作っているのは誰だ」
核心に触れる問いに、私は胸の内で身構えた。ここで慌てては元も子もない。
「申し訳ございませんが、職人の詳細はお伝えしない決まりにしております。作り手が誰であるかより、出来上がったものをどうご覧いただくか――それを大切にしたいと思っておりますので」
「決まり、か」
カイル様は短く呟くと、懐に手を入れた。取り出されたものを目にした瞬間、私は息を止めた。
小さな、手のひらに収まるほどの人形。黒いビロード生地の髪、深い紺青の瞳、きりりと結ばれた口元――紛れもなく、私が最初に仕立てた、あの子だった。
「この人形を作った者を知らないか。心当たりがあれば、教えてほしい」
(あああああ、あの子……! よりによって、あの子を連れてきていらっしゃるなんて……!)
叫び出したい衝動を、私は奥歯を噛んで堪えた。表向きは、初めて目にするもののように、丁寧な手つきでそれを受け取る。
手のひらに乗せた瞬間、覚えのある重みがじんと伝わってきた。綿の詰め方も、生地の厚みも、何もかもが記憶通りだ。指先が、覚えのある感触をなぞる。自分で刺した瞳の縁の刺繍、髪の分け目の作り方――どこもかしこも、覚えていないはずがなかった。
顔を上げれば、視線の先にはカイル様ご本人がいる。人形とご本人を見比べるようにして眺める、というだけの動作すら、今の私には途方もない危険を孕んでいるように感じられた。
(似てる、なんて言ったら不自然よね……。でも似てないなんて言うのも、それはそれで嘘くさいし……!)
内心で百面相を繰り広げながら、私はどうにか無難な言葉を選び取った。
「……とても丁寧なお仕事ですね。髪の生地の選び方も、瞳の色の重ね方も」
思わず、職人としての視点で言葉が漏れる。慌てて口をつぐんだけれど、もう遅かった。
「随分と、詳しく見るのだな」
カイル様の声に、わずかな興味の色が滲んだ気がした。私は慎重に人形を両手で持ち直し、視線を上げないまま答えた。
「人形を扱うお店をしております以上、良い仕事は見れば分かりますので」
「……そうか」
カイル様は視線をわずかに横へ移し、控えていたアンナに問いを向けた。
「そちらの侍女にも聞きたい。この工房を任されているのは、本当にこの女性一人か」
突然の問いかけに、アンナの肩がぴくりと揺れる。私は心の中で悲鳴を上げながらも、表情だけはどうにか取り繕った。
「はい。仕入れや帳簿の管理は私がお手伝いしておりますが、人形に関わる一切は、こちらのリゼット様お一人がご采配なさっています」
声こそ落ち着いていたけれど、帳簿を持つ手の指先が、白くなるほど強く握り込まれているのに私は気づいていた。
「そうか。手間を取らせた」
それ以上は追及されず、私はほっと胸を撫で下ろした。カイル様は差し出した手に人形を戻すよう促し、私はそっとそれを返した。指先が触れ合いそうになった瞬間、息を吸うことすら忘れていたのに気づく。
「もし、何か思い当たることがあれば、近衛の詰所まで知らせてほしい」
「かしこまりました」
一礼して見送りながら、私は膝が震えているのを悟られないよう、必死に背筋を伸ばし続けていた。
扉が閉まる音を聞いてから、ようやく体の力が抜ける。作業台に手をついて崩れ落ちそうになった私を、アンナが慌てて支えてくれた。
「リゼット様、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫……。大丈夫じゃないかもしれない……」
自分でも支離滅裂だと分かる返事をしながら、私は椅子に腰を落とした。
「今のは、本当に肝が冷えましたね。私まで、声が出ませんでした」
「私もよ……。まさか、あの子を持ち歩いていらっしゃるなんて、思わなかったもの」
力の抜けた声で答えながら、私は自分の両手を見下ろした。まだ、あの人形の重みが指先に残っている気がする。
(見つからなくてよかった……。でも、これから先も、こんな綱渡りが続くのかしら)
喜びと恐怖の余韻が入り混じったまま、私はしばらくの間、その場から動けずにいた。
◇
工房を辞し、通りを歩き出してすぐ、道の端で待っていたレイフが小走りに追いついてきた。
「団長、どうでした」
「作り手は名乗らない主義らしい。店の管理をしている女性が、それらしいことを言っていた」
「その女性、何か気になる様子でしたか」
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「気になるというより、様子が硬かった。ただ、それだけなら緊張していただけかもしれん」
脳裏に浮かぶのは、人形を手に取った時の彼女の指先の動きだった。ためらいなく、それでいてどこか慈しむような手つきで生地をなぞる様子は、初めて見る品を扱う手つきには見えなかった。
あの言葉も引っかかっている。髪の生地の選び方、瞳の色の重ね方――淀みなく口にした様子は、他人の仕事を語る口調というより、自分の仕事を語る口調に近かった。
「団長?」
「……いや」
俯きがちに答えていた声も、頭を下げた拍子に覗いた金色の髪も、あの日の記憶と重なって仕方なかった。人混みの中で正面からぶつかり、荷物を拾い集める間もなく、人形を落としたまま逃げるように立ち去っていった、あの令嬢――目元の感じも、色素の薄い髪の色も、確かによく似ている。
だが、すぐには頷けなかった。あの日はほんの一瞬の出来事だった上に、直後に人形へ気を取られ、相手の顔をまともに見返す余裕さえなかった。似ている、というだけでは、判断材料としてあまりに心許ない。
「気になることでも?」
「いや、大したことじゃない」
言い切ったものの、胸の奥に小さな引っ掛かりが残ったままだった。うまく言葉にできない何かが、ずっと胸の内側を引っ掻いている。任務中にこれほど気を取られるのは珍しいことだった。
レイフは俺の顔を横目でしばらく窺っていたが、やがて何も追及せず、隣を歩く歩調だけをこちらに合わせてきた。こういうところは、案外察しがいい。
「それで、次はどうします」
「もう一度、あの店に行く」
「へえ。今度はどんな用件で」
「決めていない。だが、行けば何か分かる気がする」
レイフが呆れたように肩をすくめる気配がした。
「団長がそこまで言うの、珍しいですね。仕事の勘、というやつですか」
「そう言えなくもない」
答えながら、俺はもう一度懐の人形に触れた。紺青の瞳が、静かにこちらを見つめ返してくる。
西日が石畳の上に長く影を落とし、通りを行き交う人々の輪郭を橙色に縁取っていた。荷馬車の車輪が石を打つ音、露店の呼び込みの声、遠くで鳴る鐘の音――普段なら気にも留めない喧騒が、今日はやけに鮮明に耳へ届いてくる。
答えは、思っていたよりずっと近くにあるのかもしれない。そんな予感だけを胸に、俺は夕暮れの通りを歩き出した。
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




