第15話
登校して教室の扉をくぐった瞬間、いつもと違う空気を感じた。
窓際に令嬢たちが数人固まり、扇の陰で言葉を交わしている。声を潜めているつもりらしいが、弾んだ調子までは隠しきれておらず、廊下にまで漏れ聞こえていた。鞄を席の背もたれに掛けようとしていた私に気づくなり、その輪の中心にいたフィオナ様が、待ちきれない様子で駆け寄ってくる。
「リゼット様、聞きましたこと? 昨日、近衛の団長様がこの学園にいらしていたんですって」
「団長様が……?」
思わず声が上ずり、鞄を掛け損ねて足元に落としてしまう。慌てて拾い上げながら、私は平静を装うのに必死だった。
「外周警備の点検とかで、正門から中庭のあたりを歩いていらしたそうよ。何人もが目撃していますわ」
フィオナ様の言葉に、周りの令嬢たちが次々と頷く。誰かが「本当に絵になる立ち姿だった」と溜め息交じりに言い、誰かが「目が合いそうになって、思わず俯いてしまいましたわ」と頬を染めながら言う。それぞれの証言を聞くたびに、私は相槌を打ちながらも、内心では冷や汗が滲むのを感じていた。
「リゼット様は、団長様を間近でご覧になったことがおありですの?」
輪の外にいた令嬢の一人に唐突に尋ねられ、私は思わず言葉に詰まった。演習見学で見た凛々しい横顔も、街角で正面から衝突したことも、口にできるはずがない。
「え、ええ……。遠目に、少しだけ」
当たり障りのない返事でその場をやり過ごし、私はさりげなく視線を鞄の留め具へ逃がした。動揺を悟られてはいけないと分かっていながら、指先がわずかに震えているのが自分でも分かる。
(点検にかこつけて、様子を見に来ただけ……よね。まさか、私を捜しに)
考えすぎだと分かっていても、一度浮かんだ不安は簡単には消えてくれない。控えめに息を吐き出したところで、遅れて教室に入ってきたマリー様が、私の隣の席に鞄を置いた。
「おはようございます、リゼット様、フィオナ様」
「マリー様、聞いて。団長様の話」
フィオナ様が身を乗り出すと、マリー様は不思議そうに首を傾げた。事情を一通り聞かされたマリー様は、目を丸くしながらも、どこか浮かない顔をしている。
「あの……実は私も、少し気になることがあって」
「気になること?」
「昨日の放課後、一年生の子たちが、エドガー様に似た人形を見せ合っているのを見かけたんです。私の物とは違う生地でしたけれど、髪の色も、垂れ目のところも、よく似ていて」
言われて、私は思わず口をつぐんだ。同じ相手を想う人が他にもいて、その人がうちの店に頼んでいたとしても、何ら不思議ではない。むしろ人気のある方であれば、あって当然のことだった。それでも、マリー様の表情には隠しきれない翳りが浮かんでいる。
「もしかして、団長様が学園でご覧になったのは、その子の人形だったのかも」
「かもしれませんわね。栗色の髪の人形なんて、そう何体もないでしょうし」
フィオナ様が興味深そうに言うと、マリー様はますます俯いてしまった。膝の上で指を組み替え、小さな声で呟く。
「自分だけの秘密だと思っていたのに……。私の他にも、あんなに堂々と持ち歩いている方がいるなんて」
「あら、妬いていらっしゃるの?」
「ち、違います。ただ、少し……びっくりしただけで」
言葉とは裏腹に頬を赤くするマリー様に、フィオナ様がにやりと笑う。私はその様子を見ながら、密かに苦笑いを浮かべていた。
(人を好きになるって、こういうことよね。誰かと分け合いたくない気持ちも、全部ひっくるめて)
誰かを一途に想う気持ちには、独占欲がついて回るものらしい。前世でも、同じ推しを応援する仲間との間で、似たような感情のさざ波を何度も見てきた。マリー様の頬の赤みに、そのときの記憶がふっと重なる。
「それより、団長様の話に戻りますけれど」
フィオナ様が声を落とし、私とマリー様に顔を寄せてきた。
「昨日の夜会で、直接お声をかけられた方がいらっしゃるんですって。同じ組のセシル様、覚えていて? あの方のお友達が、人形のお店のことを団長様ご本人から尋ねられたそうよ」
「直接、ですか」
喉の奥が、きゅっと締まるような感覚がした。今までは、遠くの噂として耳に入るだけだった。それが今は、令嬢一人一人に足を運び、言葉を交わしてまで手がかりを集めているという。街の外れをただ歩き回っていた頃とは、明らかに違う踏み込み方だった。
「セシル様のお友達が言うには、随分と丁寧な尋ね方だったそうですわ。お店の場所、生地の色、作り手の様子……。かなり細かいところまで聞いていらしたとか」
「そこまで、詳しく……」
私は思わず自分の指先に視線を落とした。作り手の手つき、選ぶ生地の色。それはまさに、私がこの手で積み重ねてきたものそのものだった。
「随分と熱心でいらっしゃいますこと。お店の評判が広がれば広がるほど、探す方の熱も上がっていくものなんですね」
フィオナ様は面白がるように言うが、私にとっては笑い事ではなかった。喜ばしいはずの評判が、じわじわと自分の首を絞める縄になっていく――そんな感覚が、胸の奥にじっとりと居座っている。
昼休みの中庭でも、話題は変わらなかった。ベンチに腰掛けて昼食を摂りながら、フィオナ様が扇の先で遠くを指す。
「近衛の詰所のある方角、少しは見えるかしら」
「見えるはずがありませんわ、こんなに離れていて」
マリー様が呆れたように答えると、フィオナ様はくすくすと笑いながら肩をすくめた。二人のやり取りを聞きながら、私はサンドイッチを頬張るふりをして、内心の落ち着かなさを誤魔化していた。
「それにしても……」
ふと真顔に戻ったマリー様が、膝の上でハンカチを畳み直しながら呟く。
「もし本当に見つかってしまったら、作った方はどうなるのでしょう。悪いことをしているわけではないのに、なんだか落ち着きませんわ」
「あら、心配性ね。別に、罪に問われるようなことではないでしょうに」
フィオナ様はあっさりと言うが、マリー様の表情は晴れなかった。私は二人の顔を交互に見ながら、うまく言葉を返せずにいた。
「そう……よね。困ったことにはならない、はずよね」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、思ったよりも小さく震えていた。フィオナ様もマリー様も、深くは追及せず、話題はすぐに別のことへと移っていった。
午後の授業を終え、馬車に揺られて工房へ向かう道すがらも、セシル様の話が頭から離れなかった。窓の外を流れる並木道を眺めながら、指先で膝の上の鞄をきつく握り締める。
門をくぐると、待っていたアンナが、いつもより早足で駆け寄ってきた。
「リゼット様、お帰りなさいませ。実は先ほど、屋敷への出入りの商人から、妙な話を耳にいたしまして」
「妙な話?」
「近衛の方々が、学園だけでなく街の商家にも聞き込みをして回っているとか。生地屋や小間物屋を中心に、無名の工房から人形が出回っていないか、尋ねて歩いているそうです」
アンナの声には、いつもの軽やかさが薄い。私は工房の作業台に鞄を置きながら、しばらく言葉が出てこなかった。
「学園だけじゃなくて、商家まで……」
「探す範囲を、確実に狭めていらっしゃるのだと思います」
窓から差し込む午後の光が、作業台の上の生地見本を白っぽく照らしている。その眩しさが、今の自分にはやけに落ち着かないものに感じられた。
「怖い……というより、変な感じがするの。見つかりたくないはずなのに、少しだけ、嬉しいような気もしてしまって」
自分で口にしてから、その矛盾に苦笑する。あれほど恥ずかしくて名乗れずにいたのに、こんなにも一生懸命に捜してもらえているのだと思うと、胸の奥がくすぐったいような、落ち着かないような気持ちになる。
「リゼット様らしいご感想ですこと」
アンナが小さく笑い、それから帳簿を開いて今日の予定を確認し始めた。
「本日は、十六時にお客様がお一人。厩番のトビアス様と、結婚を控えていらっしゃる侍女見習いのニナ様です」
言われて間もなく、控えめな呼び鈴の音が響いた。案内された先に立っていたのは、明るい茶色の髪を三つ編みにまとめた、はにかんだ笑みの女性だった。
「あの、こちらで人形をお願いできると伺って参りました。もうすぐ結婚するので……その、彼の顔を毎日見ていたくて」
「よろしければ、お相手の様子を聞かせてくださいませ。似合う生地を一緒に選びましょう」
私が促すと、ニナ様は照れくさそうに頬を緩めながら、厩の仕事のこと、朝一番に馬たちへ声をかける様子、不器用ながらも真面目な人柄について、堰を切ったように語り始めた。日に焼けた肌、少し跳ねた癖のある茶色の髪、笑うと目尻に皺が寄ること。話すうちに言葉はどんどん滑らかになり、最後には両手を胸の前で組んで、うっとりと目を細めていた。
「素敵な方なのですね」
「はい……。少し不器用なところも含めて、大好きなんです」
照れ隠しに俯くニナ様の姿に、私は微笑ましさで胸が温かくなるのを感じた。生地見本を並べ、明るい茶に近い色を二人で吟味する。選び終えた反物を手に取ると、ニナ様は幸せそうに頬を緩めた。
「仕上がりましたら、こちらからお届けにあがりますね」
「ありがとうございます。楽しみに待っています」
「そういえば、こちらのお店は、どちらでお知りになったのですか」
私が何気なく尋ねると、ニナ様は少し照れくさそうに答えた。
「屋敷の先輩から伺ったんです。その先輩も、また別の方から聞いたとかで……。もう、随分と広まっているみたいですね」
深々と頭を下げて帰っていくニナ様を見送ると、アンナが帳簿を閉じながら、ぽつりと呟いた。
「口伝えだけで、これほど広がるとは思いませんでしたね。ありがたいことですけれど、少し、慎重にならなければいけないかもしれません」
「そうね……。誰から誰へ伝わっているのか、こちらではもう追いきれないもの」
答えながら、私は昼休みのマリー様の言葉を思い出していた。喜ばしいはずの評判の広がりが、今はどうしても、追われる足音の近さと重なって聞こえてしまう。私は早速鋏を手に取った。裁った生地に綿を詰め、輪郭を整えていく。針を通すたび、指先が自然と滑らかに動いた。この一連の作業だけは、どれだけ胸がざわついていても、不思議と心を落ち着かせてくれる。
髪に使う生地を選ぼうと反物の束をめくっていたとき、ふと目に留まった一巻きに手を止めた。艶のある黒に近い、深い色の起毛生地――以前、最初のあの子のために使ったのと同じ色目だった。
(また、これ……)
トビアス様の髪は明るい茶色のはずだと分かっていながら、指先はしばらくその黒い反物の上を離れなかった。使うあてもないのに、つい手に取ってしまう。前世の記憶を取り戻してから、幾人もの人形を仕立ててきたけれど、あの最初の一体だけは、どうしても特別な場所に居座ったままだった。
「今度こそ、似た生地でも取り寄せて、もう一体お作りになったら……」
様子を見ていたアンナが、控えめに声をかけてくる。私は首を横に振った。
「同じ生地を使っても、きっと同じ子にはならないもの。あの子は、あの時の私の指が作った、たった一体だけの子だから」
自分の言葉に、我ながら大袈裟だと思う。それでも、この気持ちだけは譲れなかった。取り戻せないと分かっているからこそ、余計に愛おしく思えてしまう。棚の反物を静かに戻し、私はトビアス様のための明るい茶の生地を改めて選び直した。
日が傾き始めた頃、最後の一針を通し終える。仕上がった人形を陽に透かして眺めていると、指先にちくりとした痛みが走った。針先が、皮膚をわずかにかすめたらしい。小さな血の玉が浮かぶのを見て、私は慌てて指を口元へ運んだ。
「大丈夫ですか」
「ええ、大したことないわ。ちょっと考え事をしていただけ」
答えながら、私は窓の外へ目をやった。夕焼けに染まる空の向こう、王城の方角には、今日も変わらずカイル様が立っているのだろう。学園にも、商家にも、そして夜会にまで足を運び、一つずつ手がかりを重ねているという。少しずつ、けれど確実に近づいてくる足音を、私はもう感じずにはいられなくなっていた。
◇
学園の外周警備を終え、俺は帰路の途中で織物商の並ぶ通りに寄り道をしていた。
「団長、また同じ店ですか」
付き合わされたレイフが、呆れ半分に肩をすくめる。俺は店先に並んだ反物を眺めながら、店主に声をかけた。白髪の目立つ、この通りで長年商売を続けている男だ。
「近頃、無名の工房から仕入れに来る客はいないか」
「以前も同じことをお尋ねになりましたね、団長様。そうですねえ……。実を申しますと、先日、若い侍女風の女性が、上質な起毛の生地をまとめて買っていかれました。お屋敷の使いだと仰っていましたが」
「屋敷の名は」
「そこまでは。ただ、支払いは金貨で、値切りもせずに即決でしたよ。ああいった買い方をなさるのは、身分のある方のお使いくらいでしょうね」
店主の言葉に、俺は懐の人形へ視線を落とした。侍女らしき使い、値切らない買い方、まとめ買いの生地――これまで集めてきた噂と、また一つ重なりを見せている。
「手間を取らせた」
礼を告げて店を離れると、レイフが横から顔を覗き込んできた。
「侍女の使い、ですか。だんだん、貴族のご令嬢って線が濃くなってきましたね」
「学園、夜会、商家。どこを当たっても、行き着く先は似たような話ばかりだ」
「目立たない工房、名を明かさない作り手、丁寧な手つき。ずっと同じ人物像ですもんね」
「ああ」
短く答え、俺は足を止めた。西日を受けた石畳が、橙色に長く伸びている。この道の先に、答えがあるのかもしれない。そんな確信めいた予感が、胸の奥で静かに固まりつつあった。
「団長、まさかとは思いますけど」
「なんだ」
「そろそろ、直接乗り込むおつもりですか。噂を集めるだけじゃなく」
レイフの問いに、俺はしばらく黙って夕空を見上げた。遠回しに聞き込みを重ねる段階は、もう十分すぎるほど踏んできた。これ以上、噂の輪郭をなぞっているだけでは、いつまで経っても本人にはたどり着けない。
「ああ。次は、店を直接訪ねる」
「本当に本気で探す気になったんですね」
レイフが小さく笑う気配がした。それでも、からかいの色はいつもより薄い。
「持ち主を捜すと決めたのは、俺自身だ。ここまで来て、遠回りを続ける理由がない」
言い切ってから、俺はもう一度懐の人形に目を落とした。紺青の瞳は変わらず静かにこちらを見つめ返している。この瞳の向こうにいる誰かに、もうすぐ会える――そんな確信だけが、夕暮れの帰路を、いつもより短く感じさせていた。
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