第14話
大理石の床に、シャンデリアの光が幾重にも反射していた。楽団の奏でる曲に合わせ、着飾った令嬢たちが柱の間を次々と横切っていく。蝋燭の匂いと香水の香りが入り混じって漂う中、柱の陰に立ち尽くしたまま、俺はその喧騒の隅で、扇の陰でひそひそと話し込む令嬢たちの声に耳を澄ませていた。それでも、あの一言だけは、なぜかはっきりと耳に残った。
――一体、どちらのお店なのかしら。
声をかければ、警戒されて口をつぐんでしまうかもしれない。それでも、このまま黙って聞き流すには惜しい話だった。俺は努めて何気ない足取りで、令嬢たちの輪へ歩み寄った。
「失礼。今のお話、少し耳に入ってしまったのですが」
令嬢たちは弾かれたように顔を上げ、俺の姿を認めるなり、扇を握る手を止めて慌てて姿勢を正した。
「ま、まあ。カイル様……」
「先ほどの、人形のお店の話です。差し支えなければ、詳しく伺えますか」
努めて平静な声を心がけたつもりだったが、令嬢たちは互いに顔を見合わせ、どこか浮き足立った様子で頷き合った。一人が扇を胸元に下ろし、もう一人の背を軽く小突く。
「あの、実は私、お友達がそちらでお人形を作っていただいたことがあって」
「お店の名前までは分かりませんの。ただ、街の外れの、あまり目立たない場所にあるとしか」
「作ってくださる方は、ご自分のことをあまり話したがらない方だそうです。でも、生地を選ぶ間もずっと、こちらの話を丁寧に聞いてくださって……。手つきも、とても優しかったと聞きました」
断片的な話を、俺は一つずつ頭に刻んでいく。目立たない場所。名を明かさない作り手。丁寧な聞き役。優しい手つき。以前から街の外れで拾い集めてきた噂と、少しの矛盾もなく重なっていく。
「他には、何か覚えていることは」
「そういえば、お店に伺った日は、雨上がりだったのに、店の中は嫌な湿気ひとつ感じなかった、と申しておりましたわ。いつも綺麗に整えていらっしゃるのね、と友人も感心しておりました」
几帳面な性分らしい。そう頭の片隅に書き加えながら、俺は小さく頷いた。丁寧な聞き役、優しい手つき、そして几帳面な気質――集まった情報を並べるほど、まだ会ったこともないその人物の輪郭が、少しずつ像を結び始めていた。
「ありがとうございます。参考になりました」
「あの、もしよろしければ、この後一曲……」
控えめに切り出した一人に、俺は静かに首を振った。
「生憎、任務中の身でな。すまない」
残念そうに肩を落とす令嬢たちに、丁重に一礼して背を向ける。誘いを断ること自体は、今夜に始まったことではなかった。それでも、頭の中を占めているのは、踊りの相手ではなく別のことだった。
礼を告げて場を離れる前に、ふと思いつき、通りがかった給仕の一人を呼び止めた。この城で長年働く古参の従者だ。
「一つ尋ねたい。近頃、貴族の屋敷や城に、無名の工房から品を届ける商人が出入りしていないか」
「工房、でございますか……。さて、私の知る限りでは、これといって思い当たりません。ただ、そういった品は本人が直接受け取りに出向くことが多いと聞きますので、配達の記録には残らないかもしれませんね」
「そうか。手間を取らせた」
従者に礼を告げ、俺はその場を離れた。手掛かりは、まだどこか輪郭がぼやけたままだった。それでも、一つずつ潰していくしかない。
背後で令嬢たちが顔を寄せ合い、何やらはしゃいだ様子で囁き合う気配がした。
「団長、令嬢方に直接聞き込みなんて、珍しいこともあるものですね」
巡回から戻ってきたレイフが、面白がるような顔で肩を並べてくる。
「手掛かりが増えるなら、手段は選ばん」
「らしくない台詞ですね、それ。いつもの団長なら、面倒事は俺に押しつけるくせに」
「押しつけてはいない。適材適所だ」
「よく言いますよ」
軽口には取り合わず、俺は広間の奥へ視線を戻した。シャンデリアの光の下、着飾った令嬢たちが幾人も行き交っている。絹の衣擦れの音と、控えめな笑い声とが、絶え間なく重なり合っていた。この中の誰か、あるいはその友人の誰かが、あの店に通っている――そう思うだけで、見慣れたはずの光景が、これまでとは違って見えた。
「団長、なんだか今日は目つきが違いますね。獲物を見つけた猟犬みたいで」
「大袈裟だ」
「いやいや。俺は長い付き合いですから分かりますよ」
肩をすくめるレイフを横目に、俺はもう一度、広間を見渡した。金色の髪は何人もいる。だが、あの一瞬の姿と重なる者は、やはりどこにも見当たらなかった。それでも、焦りはなかった。今夜だけで、これだけの話が集まった。この調子で続ければ、いずれ答えに辿り着ける。その手応えだけで、今夜は十分だった。
持ち主を捜す理由を、任務のついでだと自分に言い聞かせていた時期は、もう過ぎている。落とし物を届けるだけなら、とうに諦めていてもおかしくない。それでも足を止められないのは、あの人形の向こうに、まだ見ぬ誰かの人柄が透けて見えるからだった。丁寧な手つき、名を隠す慎ましさ、そして――何より、あの日、荷物を必死に拾い集めていた令嬢の姿。理由を挙げるだけ挙げても、結局は同じところに行き着く。会って、話してみたい。ただ、それだけだった。
◇
夜会は、まだ続いているだろうか。
寝支度を整える前、私は寝室の窓辺に立ち、遠く王城の方角に目をやった。この距離からは灯り一つ見えるはずもないのに、つい視線がそちらへ吸い寄せられてしまう。夜風が頬をかすめ、庭木の葉がさわさわと鳴った。
「リゼット様、湯冷めいたしますよ」
寝台の支度を整えていたアンナが、盥を片付けながら苦笑まじりに声をかけてくる。
「ええ、分かっているのだけれど」
名残惜しく窓辺を離れ、寝台の端に腰を下ろす。ブラシで髪を梳いてもらいながら、私はぼんやりと天蓋を見上げた。窓の外では、庭の茂みで虫たちが控えめに鳴き始めている。月明かりが薄いカーテン越しに差し込み、床にぼんやりとした縞模様を描いていた。
「今夜は、随分と気もそぞろでいらっしゃいますね」
「そんなことは……」
言いかけて、私は口をつぐんだ。誤魔化しきれないことは、自分が一番よく分かっていた。
(会えるはずもないのに。同じ夜、同じ空の下にいるってだけで、こんなに落ち着かなくなるなんて)
前世でも、遠くの会場に思いを馳せて眠れなくなる夜が何度もあった。届くはずのない声援を送りながら、朝まで気持ちが昂ぶって困ったこともある。あの頃と同じ浮ついた気持ちを、まさか今世でもう一度味わうことになるとは思わなかった。
「近衛の方々も、大変ですね。夜通しの警護だなんて」
「そうね……。カイル様も、きっと気を張っていらっしゃるのでしょうね」
何気なさを装って呟くと、アンナがブラシを動かす手を止め、鏡越しにこちらを見た。悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「随分と、お顔がお優しくなっていらっしゃいますよ」
「そ、そんなことないと思うけれど」
慌てて取り繕う私に、アンナはくすりと笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。その気遣いに、少しだけ救われる。
寝台に横になったまま、私は今日一日の慌ただしさを思い返した。三件の依頼、フィオナ様とマリー様の来訪、そして夕暮れに縫った小さな巾着袋――どれも、充実した一日の証だった。それでも、ふとした拍子に浮かぶのは、やはりあの最初の一体のことだった。
(今頃、大切にしてくださっているといいのだけれど)
考えたところで、答えの出るはずもない。分かっているのに、こうしてまた思いを馳せてしまう自分に、私は小さく苦笑した。
「早くお休みになった方がよろしいかと。おやすみなさいませ、リゼット様」
「ええ、おやすみ」
灯りが消えた部屋の中、私は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、演習場で見た凛々しい横顔だった。もう一度、あんな風に近くで見られる日が来るだろうか。そんなことを考えながら、いつしか眠りに落ちていった。
◇
翌朝、執務室の扉を叩いたのはレイフだった。開口一番、いつもより弾んだ声で切り出してくる。
「団長、面白い話を仕入れてきましたよ」
「話せ」
書類から顔を上げずに答えると、レイフは机の向かいの椅子に断りもなく腰を下ろした。
「団長がご令嬢に自分から声をかけるなんて、王都中に知れ渡ったら大騒ぎですよ」
「余計なことを言うな」
「言いませんよ、俺は。妹には、もう話しちゃいましたけど」
「レイフ」
「冗談です、冗談。それより本題ですよ」
「うちの妹からです。学園で仲のいい友人が、例の人形を持っているそうで」
俺は手にしていたペンを置いた。
「詳しく聞かせろ」
「妹が言うには、その友人は最近、態度が随分と柔らかくなったらしいんです。理由を聞いたら、想い人にそっくりの人形を持ち歩くようになってから、だとか。作った人のことは、決して名乗らないそうですが」
「学園の生徒が作った、ということか」
「断定はできませんが、少なくとも学園の中で作られている、あるいは学園を通じて広まっている可能性は高いですね。妹なんて、うらやましがって『わたしにも兄さんの人形、作ってもらいたいわ』なんて言い出す始末で」
「お前の人形か……」
「フッ……そんな嫌な顔をしなくても」
レイフが肩を揺らして笑う。窓から差し込む朝の光が、机の上に広げられた書類の端をわずかに黄色く染めていた。
机の端に置いたままの人形に、ふと視線が向く。当初は行きずりの落とし物として片付けるつもりだったのに、気づけば手放す気になれないまま、今日まで机に置き続けていた。
「団長、また人形見てますね」
「……別に」
「別に、で三十秒は見てましたよ」
返す言葉が見つからず、俺は視線を書類に戻した。柄にもないと分かっていても、目が離せない自分がいた。
昨夜、夜会で聞いた話と重なる。目立たない場所、名を明かさない作り手――そこに「学園」という言葉が加わり、輪郭が少しずつはっきりしてきた。
「その友人とやらに、直接話を聞くことはできるか」
「聞いてはみますが、あんまり強引にやると、警戒されて口を閉ざされる気もしますね。何しろ、作った本人にとっても、あまり大っぴらにしたくない事情があるみたいですし」
レイフの言葉に、俺はしばし考え込んだ。焦って踏み込めば、せっかく手繰り寄せかけた糸を、逆に手放すことになりかねない。
「無理はするな。だが、次に何か耳に入ったら、必ず知らせろ」
「了解です。にしても、団長がここまで本気になるとは思いませんでしたよ」
からかうような口調に、俺は答えなかった。答える必要のない問いだった。
「で、団長はこの後どうするんです?」
「学園の外周警備が、ちょうど今日回ってくる。ついでに、様子を見てくる」
「ちゃっかりしてますね。ついで、ついでって言いながら、結局本気で調べに行くんじゃないですか」
「任務は任務だ」
しれっと答えると、レイフは呆れたように笑いながら、それでも何も言わずに書類を片手に部屋を出ていった。
その日の午後、俺は王立エルデシア学園の外周警備を確認する任に就いていた。貴族の子女が多く通うこの学舎の警護体制は、月に一度、近衛が直接足を運んで点検することになっている。今日はちょうど、その順番が回ってきていた。
正門をくぐると、放課後の校庭には、下校前の生徒たちの姿がまばらに残っていた。談笑しながら歩く令嬢たちの合間に、鞄の隙間から小さな人形の頭がのぞいているのが目に入る。
俺は思わず足を止めた。
艶やかな栗色の髪に、優しげな面差し。丁寧な作り込みは、噂に聞いていた工房の仕事ぶりを彷彿とさせた。令嬢たちは人形を大事そうに鞄の奥へ仕舞い直すと、何事もなかったように笑い合いながら歩いていく。
「あの人形……」
思わず呟くと、隣を歩いていた巡回中の同僚が怪訝な顔をした。
「団長?」
「いや、なんでもない」
令嬢たちはすぐに校舎の陰へと消えていった。追いかけて確かめる理由も口実もない。それでも、確かにこの目で見た。この学園のどこかに、あの噂の続きがある。
俺は近くにいた守衛に歩み寄った。何度か顔を合わせたことのある、白髪交じりの初老の男だ。
「一つ尋ねたい。放課後、生徒たちの間で流行っている人形について、何か耳にしていないか」
「人形、でございますか。ああ、そういえば最近、令嬢方が妙に鞄を大事に抱えていらっしゃるのはよく見かけますね。中身までは存じ上げませんが」
「出入りの商人などに、変わった様子は」
「いえ、特には……。ただ、生徒同士で何か手作りの品をやり取りしているという話は、耳にしたことがあります。校内での品のやり取りは黙認されておりますので、詳しいことまでは、こちらでも把握しきれておりません」
守衛の言葉に、俺は小さく頷いた。少なくとも、外部の商人が持ち込んでいるわけではなさそうだ。だとすれば、答えはやはりこの学園の内側にある。
「手間を取らせた」
礼を告げ、俺は再び敷地を見渡した。整然と並ぶ校舎、手入れの行き届いた庭木、遠くの渡り廊下から響く生徒たちの笑い声。春風が中庭の木々を揺らし、若葉の匂いを運んでくる。この落ち着いた光景のどこかに、あの人形を作った本人が学生として日々を過ごしている。そう思うと、これまで漠然としていた捜索が、急に確かな輪郭を持ち始めた気がした。
巡回を終え、校門を出る間際、俺はもう一度、背後の校舎を振り返った。
「近いうちに、もう一度足を運ぶことになりそうだ」
独り言のようにこぼした言葉に、隣にいた同僚は首を傾げるばかりだった。だが、俺の中では、もう迷いはなかった。
あの人形を作った本人は、きっとこの敷地のどこかにいる。焦る必要はない。一つずつ、確かめながら近づいていけばいい。
学園から王城へ戻る道すがら、俺は遠回りをして、あの織物商の並ぶ通りを歩いた。夕刻の光が石畳を橙色に染め、店じまいを始めた商人たちの声があちこちから聞こえてくる。あの日、令嬢とぶつかったのは、確かこのあたりだった。荷物を抱えて慌てふためいていた後ろ姿を、今でもはっきりと思い出せる。
あの時は、まさかこれほど長く捜すことになるとは思っていなかった。それでも、こうして少しずつ手掛かりを重ねていくうちに、いつしか単なる落とし物探し以上の何かに変わっていた。
王城への帰路、夕暮れの空を見上げながら、俺は静かにそう心に決めていた。あの窓辺で見た金色の髪に、少しずつ手が届き始めている――そんな予感だけが、いつまでも胸の奥に残っていた。
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