第13話
開店から三週間が経った頃には、工房の予約帳はすでに来月分まで埋まりつつあった。
朝、馬車を降りて門をくぐると、アンナが待ち構えていたように駆け寄ってくる。手には、革張りの帳簿を大事そうに抱えていた。
「リゼット様、おはようございます。今日はもう、三件も予約が入っておりますよ」
「三件も……。ありがたいことだけれど、少し目が回りそうだわ」
そう言いながらも、内心では小さく拳を握っていた。前世では、好きなものを追いかける仲間を見つけるだけでも一苦労だったのに、今世では自分の店にこうして人が集まってくれる。数字だけを見ればくたびれる予定表も、私にとっては勲章のようなものだった。
苦笑しながら工房に足を踏み入れると、木と布の匂いに混じって、干した薬草のような香りが微かに漂っていた。作業台の上には、昨日仕上げきれなかった生地の切れ端が、色ごとに几帳面に並べられている。窓から差し込む朝の光が、白い糸巻きの山をやわらかく照らしていた。
「最初のお客様は、もうすぐいらっしゃる頃かと」
アンナの言葉が終わるより先に、控えめな呼び鈴の音が響いた。
「ごめんくださいませ」
扉の向こうから顔を覗かせたのは、見覚えのない令嬢だった。淡い水色のドレスに身を包み、緊張した面持ちで胸元の鞄を抱きしめている。
「ベアトリス様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
アンナが穏やかに声をかけると、ベアトリス様はほっとしたように肩の力を抜いた。案内された椅子に腰掛けてもなお、視線は落ち着かなく工房の中をさまよっている。
「あの、こちらで人形を……その、想いを寄せている方の人形を、作っていただけると伺って」
「ええ。どうぞ、ゆっくりお話しくださいませ」
私が微笑みかけると、ベアトリス様は恥ずかしそうに俯きながらも、小さく頷いた。膝の上で指を組み替え、意を決したように口を開く。
「幼馴染なんです。今は各地を旅して回る学者をしていて……。半年に一度くらいしか、顔を合わせられなくて」
「学者様、ですか」
「はい。眼鏡をかけていて、いつも本を小脇に抱えていて……。人と話すより、書物と向き合っている方が性に合っている人なんですけれど」
語るうちに、ベアトリス様の言葉は少しずつ滑らかになっていった。旅先から届く手紙のこと、久しぶりに帰ってきた時のぎこちない挨拶のこと、それでも変わらない、本を読む横顔のこと。手紙の話になると、鞄の中から折り目のついた便箋を取り出して見せてくれもした。
(分かるわ……。好きな人の話をしてるだけで、勝手に口が回るのよね……)
前世でも、好きな作品やキャラクターの話を始めると止まらなくなる友人が何人もいた。あの感覚は、身分や世界が違っても変わらないらしい。
「眼鏡の形と、髪の色を、詳しく教えていただけますか? 似合う生地を一緒に選びましょう」
私が尋ねると、ベアトリス様はようやく肩の緊張を解いて、身を乗り出してきた。生地見本を並べ、糸の色を吟味し、二人でああでもないこうでもないと言葉を交わす時間は、何度経験してもやはり楽しい。
「この、少しくすんだ栗色は……」
「素敵だと思います。あの人の髪は、日に焼けて少し赤みがかっているので」
選び終えた生地を手のひらに乗せ、ベアトリス様は愛おしそうに指先で撫でた。その仕草を見ているだけで、こちらまで嬉しくなってしまう。
注文を書き留めながら、アンナがちらりとこちらに視線を寄越した。目が合うと、小さく笑みを返される。
(この時間が一番、好きなのよね)
誰かの「好き」に丁寧に耳を傾け、それを形にしていく。前世では画面の向こうの誰かに向けていた気持ちを、今は目の前の人と分かち合える。それがどれだけ贅沢なことか、この工房を開くまでは分からなかった。
ベアトリス様を見送ってすぐ、次の呼び鈴が鳴った。今度の客人は、以前人形を受け取っていったはずの令嬢だった。
「以前作っていただいた子なのですけれど、旅先に連れていくうちに、リボンの端がほつれてしまって……」
差し出された人形を受け取ると、確かに首元のリボンが、糸ほつれで少しだけよれていた。使い込まれた跡が、あちこちに滲んでいる。
「毎日のように、鞄に入れて持ち歩いていらっしゃるのですね」
「はい……。恥ずかしながら」
照れくさそうに笑う令嬢の様子に、胸の奥がじんわりと温かくなる。針を取り、リボンの結び目を丁寧にほどきながら、私は小さく息をついた。
(大事にしてもらえてるって、こういうことよね)
直しはものの数分で終わったが、それでも令嬢は何度も礼を言いながら帰っていった。扉が閉まると、アンナが帳簿を捲りながら、ふう、と息をついた。
「これで、今月の予約はもう十二件です。さすがに、そろそろお受けする数を絞った方がよろしいかもしれません」
「そうよね……。あまり無理をして、雑な仕上がりになってしまっては本末転倒だもの」
帳簿を覗き込みながら、私は指折り数える。裁縫の腕は前世仕込みで人より速いとはいえ、一体一体、丁寧に仕上げるには限度がある。
「開店したばかりの頃は、こんなに続くなんて思ってもみなかったわ」
「私も驚いております。ですが……嬉しい悲鳴、というやつですね」
アンナの言葉に、私は思わず笑ってしまった。悲鳴と呼ぶには、あまりにも幸せな忙しさだった。
「一人で抱え込みすぎるのも、考えものですけれど……。どなたか、お針の得意な方に手伝っていただくというのは、いかがでしょう」
アンナの提案に、私はしばし考え込んだ。
「そうね……。屋敷の針子頭のマーサに、少し手を借りられないか聞いてみようかしら。刺繍の腕は確かだし、口も堅い人だもの」
「よい案だと思います。まずは仕上げの一部だけでもお願いできれば、随分と楽になるはずです」
帳簿の余白に、アンナが「マーサに相談」と書き添える。父から贈られたその帳簿には、開店からのやり取りが几帳面な文字で綴られていた。誰かに頼ることも、店を長く続けるためには必要な選択なのだと、改めて思い知らされる。
昼を過ぎた頃、外で馬車の停まる音がしたかと思うと、扉が勢いよく開いた。
「リゼット様、お邪魔しますわ!」
フィオナ様だった。後ろから、マリー様も控えめに続いてくる。放課後、学園帰りに立ち寄ってくれたらしい。
「お二人とも、いらっしゃったのね。今日は依頼?」
「いいえ、今日はただの偵察です。あんまり評判になっているものですから、様子を見に来てしまいましたの」
悪びれもせずに言い放つフィオナ様に、私は思わず苦笑した。作業台の上に広げたままの生地見本を、マリー様が興味深そうに覗き込む。
「相変わらず、素敵な生地ばかりですこと」
「今日届いたばかりの反物もあるのよ。見ていく?」
三人で生地の山を囲んでいると、それだけで午後の時間がするすると溶けていく。フィオナ様が反物を体に当てて悪ふざけをすれば、マリー様が控えめに笑い、私はそれを眺めながら針を進める。忙しない日々の中で、こういう時間がどれだけ得難いものか、改めて思い知らされる。
「そういえば、エドガー様の分の人形、最近は肌身離さずお持ちなんですって?」
私が水を向けると、マリー様は慌てたように俯いてしまう。
「そ、そうなんです……。鞄の内ポケットに、いつも忍ばせていて。時々、こっそり取り出して眺めてしまうくらいで」
「あら、可愛らしいこと」
フィオナ様がにやりと笑うと、マリー様はますます俯いてしまう。その様子に、私は思わず口元をほころばせた。誰かを想う気持ちが、こんな風に日常のあちこちに滲み出す瞬間を見るのが、私は何より好きだった。
「そういえば、今夜は王城で夜会があるとか」
ふと、フィオナ様が思い出したように言った。
「ええ、噂には聞いているわ。今回は、どなたが主役なのかしら」
「さあ。私は呼ばれておりませんもの。でも、近衛の方々も総出で警護に当たるという話ですわ」
その一言を聞いた瞬間、私は思わず返す言葉に詰まってしまった。
(近衛の方々、って……)
顔には出さないよう気をつけながら、私は針先に視線を落とす。夜会の警護となれば、当然カイル様も駆り出されているはずだ。会えるはずもないのに、同じ夜、同じ王城の下にいるかもしれないと思うだけで、胸のあたりがそわそわと落ち着かなくなる。
「リゼット様、お顔が赤いですわよ」
「そ、そんなことないと思うけれど」
フィオナ様の指摘に、私は慌てて生地の山に視線を逃がした。誤魔化すように反物を畳み直していると、マリー様がくすりと小さく笑う気配がした。
夕暮れ、二人を見送った後の工房で、私は端切れの山から柔らかな黒の生地を一枚、選び出した。ベアトリス様への礼にと思いついた、小さな巾着袋を作るつもりだった。
鋏を入れ、縁を折り、針を通していく。何気なく作り始めたはずのそれは、気づけば裾のあたりに、細かな返し縫いで小さな襟の形を刻んでいた。
手を止め、しばらくその襟を見つめる。
(これ……)
見覚えのある形だった。あの最初の一体、カイル様の推しぬいに纏わせた、簡素な衣装の襟ぐりと、よく似ている。意識したつもりはなかったのに、指先が勝手に、あの夜幾度も繰り返した動きを覚えていたらしい。
「リゼット様、どうかなさいましたか」
様子に気づいたアンナが、隣から顔を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもないの。ただ……」
言葉を探しながら、私は巾着袋を膝の上に置いた。
「今作っている子たちを見ていると、時々、最初のあの子のことを思い出すの。もう手元にはないのに、指の方が忘れていないというか」
「……カイル様の人形、ですね」
アンナの声が、少しだけ柔らかくなる。私は小さく頷いた。
「指が覚えているくらいだもの、よっぽど根を詰めて作ったのよね、あの子は。今作っているどの子より、時間をかけたと思うわ」
「それだけリゼット様の想いがこもった子、ということですね」
アンナの言葉に、私は素直に頷いた。苦笑しながら、巾着袋の続きに針を戻す。
(また、こんなところで思い出しちゃって……。だめね、私。仕事中なのに)
それでも、この小さな疼きは嫌いではなかった。誰かをこんなにも想い続けられる自分が、今世でも変わっていないことが、少しだけ誇らしくもある。
◇
その日、俺は非番ではなかった。
「団長、今夜は王城で夜会があるそうですね。うちの団も、警護に駆り出されるとか」
執務室に顔を出したレイフが、書類の束を机に置きながら言った。
「ああ。今月は立て続けに行事が多い」
「街を回る暇もない、と」
「……そうなるな」
ペンを走らせる手を止め、俺は窓の外に目をやった。あの通りをもう一度歩くと決めてから、すでに数日が経っている。行くたびに用事が入り、思うように足を運べずにいた。
「例の店の件、まだ気になってるんですか」
「気になっている、というほどでは」
言いながらも、机の端に置いた人形にちらりと視線が向く。灯りを受けた紺青の瞳が、いつもと変わらぬ静けさでこちらを見つめ返してくる。この人形を拾ってから、もう随分と長い時間が経った。
「まあ、あれだけ噂になってる店なら、そのうち向こうから近づいてくるかもしれませんよ。夜会に呼ばれた令嬢方が、こぞって新しい人形自慢をする、なんてこともあるかもしれませんし」
「令嬢たちの間で流行っている、という話だったな」
「ええ。妹の学園でも、話題は持ちきりらしいです。今日の夜会にも、こっそり忍ばせてくる令嬢がいてもおかしくないですね」
レイフの言葉に、俺はしばし考え込んだ。今まで街の外れを地道に歩き回っていたが、案外、答えは向こうから近づいてくるのかもしれない。
「今夜は、警護の合間も気を抜くな」
「珍しく、やる気ですね」
「持ち主を捜す、と決めたのは俺だ。手を抜く理由がない」
短く答えると、レイフは肩をすくめながらも、どこか楽しそうに笑った。
「団長がそこまで気になるなんて、思ってもみませんでした。……相手がどんな人か、少し楽しみになってきましたよ」
軽口には答えず、俺は書類に視線を戻した。だが手元の文字は、いつまで経っても頭に入ってこなかった。
夕刻、支度を整えるために鎧を身につけていると、留め具の金具がやけに冷たく指先に触れた。それでも、胸の奥では小さな熱が、静かに燃え続けている。夜会に集う令嬢たちの中に、あの噂の店に繋がる手掛かりがあるかもしれない――そう思うだけで、今日という一日が、いつもより長く感じられた。
夜も更けた頃、王城の大広間には、シャンデリアの光が惜しみなく降り注いでいた。楽団の奏でる曲に合わせ、着飾った令嬢たちが次々と広間を横切っていく。俺は柱の陰に立ち、その一人一人に視線を配っていた。
「団長、こんな端っこにいたら、誰も声をかけてくれませんよ」
巡回から戻ってきたレイフが、からかい半分に肩を並べてくる。
「警護中だ。声をかけられる必要はない」
「またそれですか。せっかくの夜会だっていうのに」
軽く肩をすくめながら、レイフも広間へと目をやった。金銀の髪飾りが、灯りを受けて次々ときらめく。その中に、探している色はなかった。
柱廊を一巡りしたところで、若い令嬢たちの一団が、扇の陰でひそひそと言葉を交わしているのが耳に入った。
「ねえ、聞いた? あの人形のお店の噂」
「ええ。私のお友達も先日、お願いしに行かれたそうよ。とても丁寧な仕事ぶりだったって」
「一体、どちらのお店なのかしら。名前も分からないなんて、余計に気になってしまうわ」
何気ない世間話のはずが、俺は思わず足を止めていた。声のした方をさりげなく見やると、令嬢たちはすでに違う話題へと移っている。
(また、あの店の話か)
街の外れの、名も知れぬ工房。その噂は、こうして夜会の片隅にまで届いている。どれだけ探しても影すら掴めなかった相手が、まるでこちらの知らないところで、少しずつ確かな輪郭を持ち始めているようだった。
「団長、今の話……」
「聞こえていた」
短く答え、俺はもう一度、広間を見渡した。金色の髪の令嬢は、何人もいる。だが、あの日ぶつかった瞬間の姿と重なる者は、どこにも見当たらなかった。
それでも、焦りはなかった。噂が広がれば広がるほど、いずれ手繰り寄せられる糸は太くなっていく。そんな確信だけが、静かに胸の中で育っていた。
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