第9話:In 1997 lookin' for the FACE
春の日差しに誘われるようにして街を歩き続けたケイは、古びた喫茶店に足を踏み入れた。
琥珀色の照明と、年季の入ったベルベットのソファ。チェーン店のカフェにはない、時間が止まったような静寂がそこにはあった。
席に座り、熱い紅茶を頼む。
ふと、店内のスピーカーから低く流れているBGMに耳を傾けた。それは、90年代後半に流行した、どこか切なくて激しいメロディだった。
In 1997 lookin' for the FACE。
1997年。
ケイがまだ、ほんの子供だった頃の時代。
あの頃のテレビの中の大人たちは、皆ギラギラと輝いて見えた。誰もが自己主張を激しくぶつけ合い、熱狂の渦の中で何かを必死に探しているように見えた。子供心に「大人になれば、私もあんな風に自分の確固たる居場所を見つけて、自分の顔で生きていくんだ」と信じて疑わなかった。
けれど、現実はどうだろう。
29歳になった私は、本当の「顔」の作り方すら分からないまま、他人のルールに縛られて息を潜めていた。
Lookin' for the PLACE。
もしかしたら、あのブラウン管の中で輝いていた大人たちも、本当は何も持っていなかったのかもしれない。
きらびやかな衣装を纏い、自信に満ちた笑顔を浮かべながらも、心の奥底では「ここではないどこか」を、私と同じように血眼になって探していたのではないだろうか。
時代がどれだけ移り変わっても、人間が抱える本質的な孤独や、居場所を求める渇望は、きっと変わらないのだ。
紅茶のカップを両手で包み込みながら、ケイはバッグからスマートフォンを取り出した。
先ほど電源を入れた画面には、やはり彼からの着信履歴と、苛立ちを隠そうともしない短いメッセージがいくつか残っていた。
『無視か?』
『いい加減にしろよ』
以前のケイなら、この文字を見るだけで心臓が縮み上がり、血の気が引いていただろう。自分が捨てられる恐怖でパニックになり、どんな惨めな嘘をついてでも彼の元へ駆けつけていたはずだ。
しかし、不思議なほどに心は凪いでいた。
画面の中の文字は、もはやケイの心を縛る呪文ではなく、ただの電子の羅列でしかない。
「……さようなら」
ケイは誰に聞こえるでもない声で小さく呟き、彼のアドレスを画面に表示させた。
そして、ためらうことなく『削除』のボタンを押した。さらに、SNSのアカウントもすべてブロックし、彼に繋がるあらゆる糸を完全に断ち切った。
これで、もう彼は私を探せない。私も彼を探さない。
一つの時代が、私の小さな世界の中で完全に終わった瞬間だった。
Lookin' for the FACES。
Lookin' for the PLACES...
連絡先が消え、スッキリと片付いたスマートフォンの画面を見つめる。
誰の支配も受けない、誰にも利用されない、純粋な「一人の人間」としての私。
これからは、自分で選んだ服を着よう。彼が嫌がったからとクローゼットの奥に追いやっていた、鮮やかな色のワンピースを。
これからは、自分が食べたいものを食べよう。彼の好みに合わせて無理して頼んでいた、味気ないサラダではなく。
そして、私が本当に一緒にいたいと思える人たちとだけ、笑い合おう。
失われた時間は戻らない。置き忘れてきた汚れた足跡も、決して消えることはない。
私はこれからも、過去の自分の愚かさを思い出すたびに、胸を締め付けられるような痛みを抱えて生きていくのだろう。
それでも、私はもう逃げない。
痛みを痛みとして受け入れ、孤独を孤独として愛しながら、この雑音だらけの街を歩いていく。
紅茶を飲み干し、ケイは静かに席を立った。
喫茶店の扉を開けると、先ほどよりも少しだけ傾いた太陽が、街を柔らかいオレンジ色に染め始めていた。
私の中のからっぽの空間に、これからどんな景色を詰め込んでいこう。
まだ見ぬ私の顔と、私の居場所を探すための、本当の意味での「私だけの旅」が、今ようやく始まろうとしていた。




