第8話:Things are changing and you are living
部屋の空気を入れ替えるために窓を開けると、まだ少し冷たい春の風がカーテンを大きく揺らした。
玄関には、昨日の朝に勢いでまとめた大きなゴミ袋が三つ、鎮座している。彼に関するもの、彼に好かれるために買ったもの、それらをすべて詰め込んだ袋は、ずっしりと重かった。
ケイはゴミ袋を両手に提げ、アパートの階段を降りた。
ゴミ集積所にそれを放り投げた瞬間、鈍い音が響いた。昨日までの私の、重たくて惨めだった執着の塊。それが手元から離れていくのを見届けると、ふっと肩が軽くなったような気がした。
時刻は午前十時。
平日のこの時間に外を歩くのは、いつぶりだろう。
あてもなく街を歩いてみる。夜のネオンに毒されていた視界が、強い春の日差しに洗われていくようだった。
駅前の通りは、大掛かりな再開発の工事が行われていた。長年そこにあったはずの古い雑居ビルが取り壊され、白い防音シートの向こうで巨大なクレーンがゆっくりと動いている。
私が夜の闇で立ち止まり、誰かにすがりついて身動きが取れなくなっていた間にも、世界はこうして猛スピードで形を変え続けていたのだ。
Things are changing and you are living。
時代は変わり、街も変わり、人の心も移ろいゆく。
そして私も、この絶え間なく変化する世界の中で、ただ息をして、血を巡らせて、生きていかなければならない。誰かに立ち止まることを許されるわけではないのだ。
すれ違う人々の顔を見る。
ベビーカーを押す若い母親、イヤホンをして足早に歩く学生、営業の合間に缶コーヒーを飲むサラリーマン。彼らもまた、それぞれの変化の中で、必死に自分のバランスを取りながら「生きている」。
私だけが、世界から取り残されたような気になっていた。
私だけが、特別に不幸で、孤独で、救われない存在なのだと。でもそれは、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げることで、自分の足で歩くという責任から逃げていただけだった。
ふいに、鼻の奥がツンと痛くなった。
彼への未練ではない。彼を失った悲しみでもない。
ただ、29年という月日を不器用に生きてきて、たくさん間違えて、たくさん自分を傷つけてしまった「私自身」への、どうしようもないほどの憐れみと愛おしさだった。
視界が歪む。アスファルトの照り返しが、水面のように揺れて見えた。
せめて涙がこぼれる前に。
ケイは立ち止まり、ぐっと空を見上げた。
ここで泣いてしまったら、また誰かに優しく声をかけられるのを待ってしまうような気がしたから。また、自分の足で立つことをやめてしまいそうだったから。
泣かない。私はもう、泣いて誰かの気を引こうとする弱い私じゃない。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように、小さな声で呟く。
Let me tell you if you are not wrong。
ねえ、教えて。私は間違っていないよね。
彼から離れたこと。自分の空っぽな心を認めたこと。そして、もう一度一人からやり直そうと決めたこと。
誰の保証もない。これが正解なのかどうかなんて、誰も教えてくれない。
それでも、ケイは強く目を閉じ、自分自身に向かって何度も語りかけた。
私が私の選択を肯定してあげなければ、誰が私を認めてくれるというのだろう。
間違ってない。
不恰好でも、泥だらけでも、これが私が私自身のために切った、最初の一枚目のカードなのだから。
Everything... Everything is all right。
すべては、きっとうまくいく。
いや、うまくいくように、私がするんだ。
誰かに「幸せにして」とねだるのではなく、私が私を「大丈夫」だと思える場所に連れて行く。
目を開けると、涙はもう引っ込んでいた。
大きく息を吸い込む。都会の排気ガスの混じった、決して綺麗とは言えない空気。それでも、昨日までホテルの密室で吸っていた淀んだ空気よりは、ずっと美味しく感じられた。
Best of my life... Best of my life...
まだ、胸を張って「今が最高の人生だ」とは言えない。
心は空っぽのままだし、これからどう生きていくのかの道筋も全く見えていない。
けれど、少なくとも、誰かの顔色を窺って偽物の人生を生きるよりは、この空っぽな「今」の方がずっと愛おしかった。
春の風が、ケイの少し乱れた髪をふわりと揺らした。
彼女の目は、工事現場のシートの向こう側に見える、雲一つない真っ青な空を、真っ直ぐに見つめていた。




