第6話:いつからか誰かが 拾って救って
アルコールの熱は、冷たいアスファルトの上を歩くうちに次第に冷めていった。
空はまだ暗いが、空気の質が夜中とは明らかに違う。夜と朝の境界線、そのひんやりとした青黒い時間帯を、ケイは一人で歩き続けていた。
足が棒のように重い。
ふと見上げた先に、24時間営業のファミリーレストランの黄色い看板がぼんやりと光っていた。誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、ケイはふらふらとその光に向かって歩を進めた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
店員の事務的な声に迎えられ、一番奥のボックス席に身を沈める。
温かいコーヒーを注文し、両手でカップを包み込んだ。じんわりとした熱が、冷え切った指先から伝わってくる。
One more day そばにいさせて。
このまま、今日という一日が始まらなければいいのに。
この無機質で、誰も私を気に留めない、でも安全な光の中に、もう少しだけいさせてほしい。
世の中には星の数ほどの建物があり、無数の部屋があるというのに、私が心から安らぎ、素顔のままで呼吸ができる場所なんて、実はどこにもないのだ。
そうゆう場所は数少ない。
彼と過ごすホテルの部屋は、緊張と服従の密室だった。
自分が家賃を払っているはずのあのアパートの部屋でさえ、私にとっては安息の地ではなかった。
Take up my room いつからか誰かが。
私の部屋。私のテリトリー。そして、私の心の中。
いつからだろう。私は、自分の最もパーソナルな領域に、土足で他人が踏み込むことを許してしまったのは。
淋しさを埋めるため、愛されているという錯覚を得るために、招き入れてはいけない人間ばかりを自分の部屋(心)に引き入れてきた。
彼らは、ケイの部屋を、ケイの心の中を勝手に占拠した。
都合よく扱い、身勝手なルールを押し付け、私が本来持っていたはずの自尊心や感情をゴミのように踏み躙った。
私を汚してふさいで。
泥だらけの靴で心を汚され、息ができないように出口を塞がれる。
それでも私は、彼らを拒絶しなかった。彼らが悪いのではない。彼らを招き入れ、汚されることを許容し、塞がれることに安堵していた私自身がすべての原因なのだ。
なぜなら、私はずっと待っていたから。
いつからか 誰かが 拾って救って。
道端に捨てられた段ボールの中の仔猫のように。
ただそこで悲しそうな顔をしてしゃがみ込んでいれば、いつか必ず、優しくて強い誰かが通りかかり、私を拾い上げて、暖かい毛布で包んで救ってくれる。そんなおとぎ話のような「絶対的な救済者」を、心のどこかで信じて待っていたのだ。
だから、彼のような男が現れた時、その強引な支配を「私を引っ張ってくれる強さ」だと勘違いして、自分の足で立つことを放棄してしまった。
私を拾ってくれるなら、少しくらい汚されてもいい。出口を塞がれても、箱の中にいれば外の冷たい風には当たらないから。
「……バカみたい」
冷めかけたコーヒーの水面に映る自分の顔に向かって、ケイは小さく吐き捨てた。
誰も、私なんか救ってくれない。
他人に自分の人生のハンドルを握らせて、助手席で目を閉じている人間に、本当の居場所なんて与えられるはずがないのだ。
窓の外が、少しずつ白み始めていた。
深夜の清浄な空気は消え去り、ゴミ収集車の音や、早朝の配達のトラックの音が街の鼓動を呼び覚ましていく。
朝が来る。
現実の時間が動き出す。
ケイは伝票を手に取り、レジへと向かった。
自動ドアが開き、朝の光が容赦なくケイの全身を照らし出す。
すれ違うスーツ姿の男たちや、足早に駅へ向かう女たち。彼らもまた、夜の間に抱えた孤独や痛みを腹の底に隠し、平然とした顔をして「今日」という日を歩き始めている。
こうして歩いて
色んな顔して。
ケイは深く息を吸い込み、ピンと背筋を伸ばした。
彼に従順な「都合のいい女」の顔。
夜の街で孤独を紛らわせる「空っぽな女」の顔。
そして今、朝の光の中で、何も傷ついていないふりをする「普通の女」の顔。
色んな顔を付け替えながら、私はこの街を歩く。
でも、もう「誰かに拾われること」を待つのはやめよう。
汚された部屋の掃除は、私自身の手でしなければならないのだから。




