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第5話:どっちが悪いなんて 誰が決めるの?

ネオンの海に沈むようにして、ケイは雑居ビルの地下にある小さなバーへと逃げ込んだ。

重い木製のドアを開けると、微かなジャズの音色と、紫煙の香りが漂ってくる。先客は、カウンターの隅でグラスを傾ける初老の男が一人だけ。ケイは彼から一番離れた席に座り、無口なバーテンダーに短く告げた。

「……きついやつを」

「かしこまりました」

ほどなくして、氷が一つだけ浮かんだ琥珀色の液体が差し出される。ケイはそれを一息に喉へと流し込んだ。

食道が焼け付くような熱さが走る。アルコールが空っぽの胃袋に落ちて、そこから急速に全身の血液へと溶け出していくのがわかった。

One more drink 何か飲ませて。

足りない。もっと強い麻痺が必要だった。

ホテルの冷たいベッドで感じた、自分自身の薄汚れた過去。都合のいい女として扱われているという現実。それらをすべて覆い隠すほどの、強い酒が。

グラスを滑らせてお代わりを要求する。

泥酔して記憶をなくしたいわけではない。ただ、どうしようもなく惨めな「今日」という日を終わらせて、絶望的な「明日」という日を迎えるための、心の準備がしたかった。

明日につながるように うまく酔わせて。

二杯目のグラスを弄りながら、ケイはぼんやりと考える。

時刻は午前三時を回ったところだ。始発まではまだ時間がある。これからどうしよう。

スマートフォンの画面をタップするが、当然、彼からの連絡など入っていない。彼は今頃、あのホテルのベッドで別の夢を見ているか、あるいは別の女にメッセージを送っているのだろう。

ネットカフェかカプセルホテルにでも入って、狭い個室で丸まって朝を待つべきだろうか。それとも、このままアルコールの熱に任せて、夜明けまで街を歩き続けるべきだろうか。

どこかに泊まるのと 街をさまようのと。

ふと、彼の冷たい声が脳裏に蘇る。

『夜中に一人でフラフラしてる女なんて、バカみたいだ』

いつだったか、彼が吐き捨てた言葉。彼の中には明確な「正しい女」のルールがあり、そこから外れる者はすべて見下し、否定した。

でも、と思う。

どっちが悪いなんて 誰が決めるの?

私がどこで夜を明かそうが、どうやってこの痛みをやり過ごそうが、誰かに非難される筋合いはないはずだ。

常識的な世間の目? それとも、私の心を縛り付けている彼?

グラスの氷がカランと音を立てる。

ケイの口角が、自嘲気味に歪んだ。

愛してくれてる あなたが決めるの?

愛してくれている、なんて、どの口が言えるのだろう。

いや、彼は一度も「愛している」なんて言葉を口にしたことはない。ただ私が、彼の支配と無関心を「不器用な愛情表現だ」と自分に都合よく解釈し、思い込もうとしていただけだ。彼にとって私はただの所有物であり、ゲームの駒でしかない。

そんな男に、私の人生の善悪を決める権利など、最初から一ミリも存在しなかったのだ。

「お会計、お願いします」

三杯目を飲み干し、ケイはカウンターに紙幣を置いた。

アルコールが回り、足元が少しだけふらつく。けれど、心の中を覆っていた分厚い雲が、ほんの少しだけ晴れたような気がした。

重いドアを開けて外に出ると、夜の底冷えする空気が、火照った頬を容赦なく冷ましていく。

街は深い眠りにつき、煌びやかだったネオンもその大半が光を落としていた。

Since 1984 lookin' for the face

Lookin' for the PLACE

Lookin' for the FACES

Lookin' for the PLACES

1984年。私が生まれるよりもずっと前の時代から、この街の夜には、行き場のない孤独が澱のように溜まり続けているのだろう。

無数の人々がこのアスファルトの上で、本当の顔(FACE)を探し、自分の居場所(PLACE)を求めて彷徨ってきた。そしてその多くが、何も見つけられないまま、時代という濁流に飲み込まれて消えていった。

私も、そのうちの一人なのだろうか。

誰もいない交差点で、赤信号が点滅している。

立ち止まる理由などない。ケイはふらつく足取りのまま、点滅する光の下をゆっくりと歩き出した。

彼が定めたルールも、世間の正しさも、今はどうでもよかった。今はただ、この街の底をさまよいながら、自分自身の足で歩いているという実感だけが欲しかった。

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