第4話:汚れた足跡 置き忘れてきた
シャワールームから聞こえていた水音が止み、少しして彼がバスローブ姿で出てきた。
乱れたベッドシーツの上に横たわったまま、ケイは虚ろな目で天井のダウンライトを見つめていた。体に残る微かな熱と、シーツに染み付いた彼の香水の匂い。たった今まで肌を重ね合わせていたというのに、彼との間には、果てしなく遠く、冷たい海が横たわっているような気がした。
彼はベッドには戻らず、一人掛けのソファに腰を下ろして煙草に火をつけた。
ケイの方を振り返ることも、労いの言葉をかけることもない。ただの物理的な行為が終われば、彼はまた「絶対的な他者」へと戻ってしまう。
「……ねえ」
ケイの掠れた声に、彼は紫色の煙を吐き出しながら「ん?」とだけ応えた。
「私がいなくなったら、少しは淋しいって思う?」
言ってしまってから、すぐに後悔した。こんな重たい質問、彼が一番嫌う「ルール違反」だ。
案の定、彼は少しだけ苛立たしげにため息をついた。
「そういうの、やめろって言ってるだろ。面倒くさい」
冷たく突き放す言葉。予想通りだった。
ケイはゆっくりと寝返りを打ち、彼に背を向けた。シーツをきつく握りしめる。胸の奥に、ぽっかりと黒くて冷たい穴が空いているのがわかった。
いったいどこから この淋しさは。
彼に冷たくされたから淋しいのだろうか。違う。この淋しさは、もっとずっと前から、私の奥底にこびりついているものだ。彼という存在は、ただその穴の輪郭を浮き彫りにしているに過ぎない。
目を閉じると、過去の記憶が走馬灯のように蘇ってくる。
まだ20代前半だった頃。私は、自分が世界の中心にいると本気で信じていた。若さと、少しばかりの容姿を武器にして、夜の街を我が物顔で歩いていた。
あの頃の私は、他人の心なんてどうでもよかった。
誰かが私に向けてくれた真剣な愛情も、都合よく利用しては使い捨てていた。本気になること、誰かと深く向き合うことの責任から逃げ回り、ただ上辺だけの楽しさだけを貪っていた。
ルールを無視して
遊ぶのに夢中で
恋愛における「誠実さ」というルール。誰かを傷つければ、自分も傷つくという因果のルール。
それらすべてを嘲笑うように無視して、ただ刹那的な快楽と優越感に夢中になっていた。私は賢く立ち回っている、誰も私を縛ることはできないと、本気で思い上がっていたのだ。
けれど、その代償は確実に積み重なっていた。
本当の愛を差し出してくれた人たちとは、ことごとくすれちがい、気がつけば私の周りには、同じように上辺だけの関係しか求めない人間ばかりが残っていた。
あの頃、私が軽やかなステップで歩いてきたと思っていた道。
今振り返ってみれば、そこにあるのは美しい花道なんかじゃない。他人の心を土足で踏み躙り、自分自身の価値すらもすり減らしてきた、泥だらけの道だ。
汚れた足跡 置き忘れてきた。
私が置き忘れてきた、数々の汚れた足跡。
誠実に向き合ってくれた男の子の涙。私を心配してくれた友人の忠告。それらすべてを「重たい」と切り捨て、置き去りにしてきた結果が、今の私なのだ。
この息が詰まるような孤独も、彼から受ける冷たい扱いも、すべてはあの頃の私が撒いた種なのだ。私は今、自分が誰かにしてきたことを、彼を通じて清算させられているだけなのかもしれない。
「……帰るわ」
ケイはベッドから身を起こし、床に散らばった自分の服を拾い集めた。
彼はソファに座ったまま、スマホの画面に視線を落としている。引き止める言葉は、もちろんない。
「タクシー代、テーブルの上に置いとくから」
「……うん。ありがと」
綺麗に整えられた冷たい言葉。
ケイは服を着て、鞄を手に取った。ドアノブに手をかけた時、一度だけ振り返ったが、彼はすでにケイの存在など忘れたかのように、別の誰かとメッセージをやり取りしているようだった。
ホテルの外に出ると、深夜の街はまだギラギラと毒々しい光を放っていた。
どこへ帰ればいいのだろう。あのアパートの部屋に戻っても、私が過去に置き忘れてきた「汚れた足跡」の幻影が、私を責め立てるだけだ。
すべてをやり直したい。
でも、もう遅いのかもしれない。
タクシー乗り場には向かわず、ケイは夜の街をあてもなく歩き出した。
ただ、何か強いお酒を胃に流し込みたかった。明日という現実がやってくる前に、このひどい淋しさと後悔を、アルコールで麻痺させてしまいたかった。




