表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第3話:Loveが利用される

クラブでの喧騒から逃れるようにして自分のアパートへ帰り、泥のような数時間の眠りから覚めたケイの網膜を、スマートフォンの無機質な通知の光が刺した。

画面には、彼からの短いメッセージが一件。

『今夜、21時。いつものホテルで』

謝罪でも、気遣いでも、愛情の確認でもない。ただの業務連絡のようなその一文に、ケイは深く息を吐き出し、ベッドに沈み込んだ。

行きたくない。

そう思う自分と、指定された時間に合わせてシャワーを浴び、メイクをし、彼好みの服を選ぼうと無意識に思考を巡らせている自分がいる。

私の中にある「好き」という感情。

それはいつから、彼にとってこれほど便利なツールに成り下がってしまったのだろう。

Loveが利用される。

愛情という名の、目に見えない首輪。ケイが彼を愛している(あるいは愛していると思い込んでいる)ことを彼は熟知しており、それを最大限に利用してケイを動かしている。都合の良い時に呼び出し、都合が悪くなれば冷たくあしらう。そこにケイの意志や感情が介入する余地は、一ミリも残されていない。

出会った頃は、彼のそのミステリアスで他者を寄せ付けない冷たさに惹かれた。自分だけが彼の孤独を理解し、癒すことができるのだと、若さゆえの傲慢さで勘違いをしていた。

しかし、現実は違った。

彼はケイの愛情を、ただの「消費財」としてしか扱わなかった。

感覚がなくなるまで支配したり。

彼の支配は、暴力や暴言によるものではない。ただ、徹底的な「無関心」と「ルールの押し付け」による真綿で首を絞めるようなコントロールだった。

『連絡は俺からする』『俺の仕事のことは聞くな』『泣く女は面倒だ』。

明文化されていない無数のルールに怯え、彼の顔色を窺い続けるうちに、ケイの感情は少しずつ削り取られていった。

怒る気力も、悲しむ気力も奪われ、ただ彼の機嫌を損ねないことだけが最優先事項になる。自分が傷ついているという「感覚」すら麻痺させなければ、彼の隣にいることなど到底できなかった。

「……バカみたい」

洗面所の鏡の前で、ケイは自嘲気味に呟いた。

鏡の中の女は、綺麗にメイクを整えているが、その瞳には何の光も宿っていない。ただ命令に従うだけの、空っぽの操り人形。

時計の針は、無情にも進んでいく。

29歳。友人たちは次々と結婚し、子供を産み、それぞれの「居場所」を確固たるものにしている。SNSを開けば、幸せそうな家族の写真や、キャリアアップを報告する眩しい投稿が溢れている。

時間を無駄にはできない。

焦燥感が、チリチリと胸の奥を焼く。

こんな生産性のない、未来の全く見えない関係に、私の貴重な20代の最後の時間を捧げていていいはずがない。頭では痛いほど理解しているのだ。この男と一緒にいても、私は決して幸せにはなれないと。

それでも、彼から離れる勇気が出ないのは、これが私にとっての「最高」なのかもしれないという呪縛があるからだ。

BEST OF MY LOVE。

もしも、これが私の人生における最大の愛情だとしたら?

これ以上、誰かを強く想うことなど、もう一生ないのだとしたら?

その恐怖が、ケイの足首をきつく縛り付けていた。彼との関係が「正解」ではないと分かっていても、「不正解」を認めてすべてをゼロからやり直すには、もう若くはなかった。

夜の20時。

ケイは薄いコートを羽織り、マンションの部屋を出た。

指定されたホテルへと向かう道すがら、冷たい夜風が頬を打つ。

見上げれば、都会の明るすぎる空にも、微かに星が瞬いていた。あんなに遠くで燃えている星の光が、この街の底辺を歩く私にまで届いている。

星を抜けて どこに。

あの星を通り過ぎた先には、私の本当の居場所があるのだろうか。

感覚がなくなるまで支配されることもなく、Loveを利用されることもない。誰かに与えられたカードではなく、自分自身の意志でカードを切れる場所が。

ホテルの重厚なエントランスが見えてきた。

足取りが重くなる。逃げ出したい。でも、逃げられない。

ケイは深く深呼吸をし、仮面を被るように、いつもの従順な表情を作った。

今夜もまた、私は彼のために私自身を殺す。いつか本当に、自分という存在が完全に消滅してしまうその日まで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ