第3話:Loveが利用される
クラブでの喧騒から逃れるようにして自分のアパートへ帰り、泥のような数時間の眠りから覚めたケイの網膜を、スマートフォンの無機質な通知の光が刺した。
画面には、彼からの短いメッセージが一件。
『今夜、21時。いつものホテルで』
謝罪でも、気遣いでも、愛情の確認でもない。ただの業務連絡のようなその一文に、ケイは深く息を吐き出し、ベッドに沈み込んだ。
行きたくない。
そう思う自分と、指定された時間に合わせてシャワーを浴び、メイクをし、彼好みの服を選ぼうと無意識に思考を巡らせている自分がいる。
私の中にある「好き」という感情。
それはいつから、彼にとってこれほど便利なツールに成り下がってしまったのだろう。
Loveが利用される。
愛情という名の、目に見えない首輪。ケイが彼を愛している(あるいは愛していると思い込んでいる)ことを彼は熟知しており、それを最大限に利用してケイを動かしている。都合の良い時に呼び出し、都合が悪くなれば冷たくあしらう。そこにケイの意志や感情が介入する余地は、一ミリも残されていない。
出会った頃は、彼のそのミステリアスで他者を寄せ付けない冷たさに惹かれた。自分だけが彼の孤独を理解し、癒すことができるのだと、若さゆえの傲慢さで勘違いをしていた。
しかし、現実は違った。
彼はケイの愛情を、ただの「消費財」としてしか扱わなかった。
感覚がなくなるまで支配したり。
彼の支配は、暴力や暴言によるものではない。ただ、徹底的な「無関心」と「ルールの押し付け」による真綿で首を絞めるようなコントロールだった。
『連絡は俺からする』『俺の仕事のことは聞くな』『泣く女は面倒だ』。
明文化されていない無数のルールに怯え、彼の顔色を窺い続けるうちに、ケイの感情は少しずつ削り取られていった。
怒る気力も、悲しむ気力も奪われ、ただ彼の機嫌を損ねないことだけが最優先事項になる。自分が傷ついているという「感覚」すら麻痺させなければ、彼の隣にいることなど到底できなかった。
「……バカみたい」
洗面所の鏡の前で、ケイは自嘲気味に呟いた。
鏡の中の女は、綺麗にメイクを整えているが、その瞳には何の光も宿っていない。ただ命令に従うだけの、空っぽの操り人形。
時計の針は、無情にも進んでいく。
29歳。友人たちは次々と結婚し、子供を産み、それぞれの「居場所」を確固たるものにしている。SNSを開けば、幸せそうな家族の写真や、キャリアアップを報告する眩しい投稿が溢れている。
時間を無駄にはできない。
焦燥感が、チリチリと胸の奥を焼く。
こんな生産性のない、未来の全く見えない関係に、私の貴重な20代の最後の時間を捧げていていいはずがない。頭では痛いほど理解しているのだ。この男と一緒にいても、私は決して幸せにはなれないと。
それでも、彼から離れる勇気が出ないのは、これが私にとっての「最高」なのかもしれないという呪縛があるからだ。
BEST OF MY LOVE。
もしも、これが私の人生における最大の愛情だとしたら?
これ以上、誰かを強く想うことなど、もう一生ないのだとしたら?
その恐怖が、ケイの足首をきつく縛り付けていた。彼との関係が「正解」ではないと分かっていても、「不正解」を認めてすべてをゼロからやり直すには、もう若くはなかった。
夜の20時。
ケイは薄いコートを羽織り、マンションの部屋を出た。
指定されたホテルへと向かう道すがら、冷たい夜風が頬を打つ。
見上げれば、都会の明るすぎる空にも、微かに星が瞬いていた。あんなに遠くで燃えている星の光が、この街の底辺を歩く私にまで届いている。
星を抜けて どこに。
あの星を通り過ぎた先には、私の本当の居場所があるのだろうか。
感覚がなくなるまで支配されることもなく、Loveを利用されることもない。誰かに与えられたカードではなく、自分自身の意志でカードを切れる場所が。
ホテルの重厚なエントランスが見えてきた。
足取りが重くなる。逃げ出したい。でも、逃げられない。
ケイは深く深呼吸をし、仮面を被るように、いつもの従順な表情を作った。
今夜もまた、私は彼のために私自身を殺す。いつか本当に、自分という存在が完全に消滅してしまうその日まで。




