第2話:頭の中を 一人にさせないで
深夜二時。
眠らない街の呼吸は、夜が深まるほどに激しさを増していくようだった。
ケイはセンター街を抜け、重低音が地鳴りのように響くビルの地下へと足を向けた。入り口に立つ大柄な男に身分証を提示し、数枚の紙幣と引き換えにドリンクチケットを受け取る。重い防音扉を開けた瞬間、体内の水分をすべて震わせるような強烈なベースラインが彼女を飲み込んだ。
フロアは、熱気と、煙草の煙と、安っぽい香水の匂いが混ざり合った独特の重たさに満ちていた。
色とりどりのレーザー光線が、無数の「顔」を断続的に照らし出す。笑っている顔、虚ろな顔、何かに取り憑かれたように踊り狂う顔。
Since 1970 lookin' for the FACE
Lookin' for the PLACE
ケイはフロアの端にあるカウンターに辿り着き、ジントニックを注文した。手渡されたグラスの冷たさが、冷え切った心にさらに追い打ちをかける。
なぜ、私はここにいるのだろう。
あの冷え切った部屋に戻るのが怖かった。静寂の中で自分の鼓動を聞くのが怖かった。一人の部屋で思考の海に沈んでしまえば、自分がどこへ向かっているのか、そもそも自分は何者なのか、その答えのなさに窒息してしまう気がした。
「……ねえ、もっと。もっと大きな音で」
ケイは誰にも聞こえない声で呟き、フロアの中央へと歩み出た。
周囲の人間と肩が触れ合い、視線が交差する。けれど、そこには何の繋がりもなかった。ただ、同じ時間に、同じ場所で、同じ孤独を紛らわせようとしているだけの「他人の群れ」でしかない。
それでも、一人でいるよりはマシだった。
大音量の音楽が、脳内に溢れ出す卑屈な思考をかき消してくれる。
One more song 愛を聴かせて
踊り疲れた夢を癒して
DJが繋ぐ次の曲が、切ない旋律をフロアに響かせる。
ケイは目を閉じ、音楽に身を委ねた。かつて見ていたはずの輝かしい夢は、いつの間にか摩耗し、砂のように指の間からこぼれ落ちてしまった。29歳。何者かになれると信じていた季節は過ぎ去り、今はただ、日々の生活を維持するためだけに「ケイ」という役割を演じ続けている。
ふと、フロアの隅で誰かと親しげに笑う女性の姿が目に入った。
彼女は幸せなのだろうか。それとも、私と同じように仮面を被っているだけなのだろうか。
「……誰かのせいに、できたらいいのに」
もう少し 誰かのせいにさせてね。
冷たい彼。冷酷な社会。不景気な時代。
自分の空虚さを何かのせいにして、被害者の振りをしていれば、少しは楽になれるのかもしれない。けれど、ケイは知っていた。この居場所のなさも、顔のない自分も、結局は自分が選択し、積み上げてきた結果なのだということを。
「お姉さん、一人?」
突然、見知らぬ男が耳元で囁いた。
整った顔立ち。けれど、その瞳の奥には何も映っていない。ケイは無言で首を振り、男の手をすり抜けた。ここで誰かの体温を求めても、夜が明ければさらに深い虚しさが襲ってくることを、彼女は嫌というほど学んでいた。
頭の中を 一人にさせないで。
ケイは必死に音楽を追いかけた。
静寂が訪れることを、心から恐れていた。一瞬でも思考が止まれば、あの彼に支配されていた自分の惨めさが、洪水のように押し寄せてくる。
彼は今、何をしているだろう。
きっと、私がこうして街を彷徨っていることなど、微塵も気にかけていないはずだ。彼は甘やかしてはくれない。いつも。ジョークでも嫌いとは言いたくないと思っていたけれど、本当は、嫌いになりたかった。彼を嫌いになることで、自分を救いたかった。
きっとわからない
誰にもわからない
この胸の奥にある、焼け付くような寂しさの正体なんて。
1981年に生まれたこの世界で、私は一体何を見落としてきたのだろう。
誰もいない場所を探し続け、結局どこにも辿り着けないまま、ただ年老いていく。
「……疲れたな」
数時間踊り続け、汗ばんだ肌にエアコンの冷風が当たった。
フロアの喧騒が、急に遠く感じられた。どれだけ音を浴びても、どれだけ誰かと肩を並べても、私の頭の中の「一人」は消えてくれない。
ケイはドリンクチケットの半券を握りしめたまま、フロアを後にした。
地上へ繋がる階段を上ると、空はかすかに白み始めていた。
Lookin' for the FACES
Lookin' for the PLACES
朝帰りの人々が、疲れ切った顔で駅へと向かっている。
朝日を浴びた都会は、夜の魔法が解けたあとの、ひどく現実的で、残酷な姿をさらけ出していた。
「……帰ろう」
自分の部屋へ。あの、誰もいない、居場所のない場所へ。
でも、次は違うカードを切りたい。
ケイは足元に落ちた空き缶を蹴飛ばし、真っ直ぐに伸びたアスファルトを歩き出した。




