第1話:One more time ゲームやらせて
グラスの中で溶けかけた氷が、カランと虚ろな音を立てた。
間接照明だけが薄暗く照らす無機質な部屋。レザーのソファに深く沈み込みながら、ケイは目の前に座る「彼」の顔をじっと見つめていた。
彼は、手元のスマートフォンから目を離さない。スクロールする指の動きだけが、この部屋で唯一の規則正しいリズムを刻んでいる。ケイがグラスを置く音にも、小さくついたため息にも、彼は一切の反応を示さない。
まるで、最初から私がこの部屋に存在していないかのように。
「ねえ」
沈黙に耐えきれず、ケイは声を絞り出した。彼はわずかに眉を動かしたが、視線は画面に落としたままだ。
「帰るの?」
「……ん」
気だるげな短い返事。彼にとって、ケイと過ごす時間は、ただの隙間埋めでしかないのだと、痛いほどわかっていた。彼は決して、ケイの頭を優しく撫でたり、甘い言葉を囁いたりしない。与えられるのは、冷ややかな視線と、自分の都合だけを押し付ける絶対的なルール。
あなたは甘やかしてはくれない いつも。
それでも、ケイはこの男から離れられなかった。彼の冷たさに触れるたび、自分がひどくちっぽけで無価値な存在に思える。その痛みが、空っぽな自分に「生きている」と錯覚させてくれる唯一の刺激だったからだ。
「そう」
ケイは短く答え、自分の唇を強く噛んだ。
ジョークでも 嫌いって言いたくはない。そんなことを言えば、彼は本当に、二度と私の前に姿を現さなくなる。その恐怖が、ケイからすべての言葉を奪っていく。
彼が立ち上がり、無造作にジャケットを羽織る。
ドアが開き、そして閉まる。金属的な鍵の音が響いた瞬間、部屋は完全な静寂と、息が詰まるほどの孤独に包み込まれた。
「また、負けた」
ケイは誰もいなくなった部屋で、ポツリと呟いた。
彼との関係は、いつも最初から勝敗が決まっているゲームのようだ。配られるカードはすべて彼が握っていて、ケイはただ、彼が出すカードに怯えながら付き従うことしかできない。ジョーカーを引かされているのは、いつだって私の方だ。
このままじゃ、ダメだ。
頭の奥で、警鐘のような声が鳴り響く。
One more time ゲームやらせて。
今度は私に カード切らせて。
心の底から湧き上がる、ひりつくような渇望。自分の人生の主導権を、もう一度自分の手に取り戻したい。誰かの機嫌を窺って、自分の心を殺して生きるだけの時間が、私の「最高」であるはずがない。
Best of my life 愛して。
Best of my life 生きてる。
私は今、本当に自分の人生を愛しているのだろうか。胸を張って、今が一番だと言えるのだろうか。
答えは、ひどく残酷なほどに「否」だった。
ケイはソファから立ち上がり、クローゼットからコートを引っ張り出した。
こんな冷え切った部屋に一人でいたら、押し寄せる孤独に窒息してしまいそうだった。ヒールの高いブーツに足をねじ込み、逃げるように部屋を飛び出す。
エレベーターを降り、エントランスの自動ドアを抜けると、冷たい夜の空気が頬を刺した。
深夜の街は、まばゆいネオンと車のヘッドライトが交錯し、まるで巨大な生き物のようにうごめいている。どこへ行く当てもない。ただ、ここにいてはいけないということだけが分かっていた。
人混みの中を、肩をすぼめて歩く。
すれ違う人々の顔は、どれものっぺらぼうのようにぼやけて見えた。誰も彼もが、何かを隠し、何かを演じている。じゃあ、私の本当の「顔」はどこにあるのだろう。私が心から安らげる「場所」は、この街のどこかにあるのだろうか。
Since 1970 lookin' for the FACE
Lookin' for the PLACE
Lookin' for the FACES
Lookin' for the PLACES
私が生まれるずっと前から、きっとこの街の人間は皆、同じように彷徨ってきたのだ。
偽物の顔を被りながら、本当の自分を見つけてくれる誰かを。自分の存在を許してくれる場所を。
ケイはコートのポケットに手を突っ込み、顔を上げた。
赤いテールランプの列が、どこまでも果てしなく続いている。
今夜もまた、終わらないゲームの続きを求めて、私はこの街をさまよう。
私のための顔と、私のための場所を探して。




