不安
日が沈み、空が群青に染まり始めた頃。
「……もう無理」
そう言って、俺は地面に体を投げ出した。
まるで打ち捨てられたカカシのように。
体から骨が抜けたみたいで、指一本動かせない。
大の字に倒れ込んだまま、土の冷たさが背中に染みていく。
「俺も、もう無理だ……」
隣でカイルも同じように寝そべっていた。
お互い、慣れない魔力ってやつに体力を削り取られ、声すらかすれている。
「二人とも、初日にしては上出来よ。このまま成長したら、私が教えられることなんて、すぐになくなってしまうかもしれないわね」
レティシアが柔らかく笑う。
冗談めいた声色の奥に、ほんのりとした本気が混じっていた。
「……それ、褒めてんのか……?」
カイルが仰向けのままぼやく。
その声に、俺はつい笑ってしまった。
疲労と倦怠感の中で、笑うことすらしんどいのに。
視線を空に投げると、群青の闇がじわじわと広がっていた。
庭の隅で風に揺れる洗濯物が、夜の匂いを連れてくる。
その静けさに、つかの間の安堵を覚えた。
――だが、胸の奥はざわついていた。
左手の刻印が、まだ微かに脈を打っている。
体の奥から「もっと寄こせ」と囁くように。
……何なんだよ、お前は。
問いかけても、返事はない。
代わりに、影の奥で何かが笑っている気がした。
「今日はここまでにして、さぁ戻りましょう」
レティシアの声が、現実に引き戻す。
俺たちは重い足を引きずり、裏庭から教会へと歩き出した。
扉を開けると、木の床を走り回る音と甲高い笑い声が飛び込んできた。
「おかえり、シスター!」
声を揃えて叫ぶ小さな影。
五人ほどの子供たちが机の周りでレティシアを待ちわびていた。
犬や猫を思わせる耳、ふさふさした尾――獣人の姿が混じっている。
しかも、人間の子供たちにまじって、当たり前のように。
俺たちに気づいた子供の一人が、ぱっと耳を立てた。
「わっ、新しいお兄ちゃんだ!」
そう言うや否や、尻尾をぶんぶん振りながら駆け寄ってくる。
「ちょ、待て待て!」
カイルが慌てて両手を広げるも、子供はお構いなしに飛びついた。
尻尾でバシバシ叩かれながら、カイルは苦笑する。
「おい、俺まだ筋肉痛なんだけどな……」
「お兄ちゃん、耳ないんだね! 変なのー」
別の子が俺を指差し、無邪気に笑った。
からかっているわけじゃない。ただ、純粋な好奇心だけがそこにある。
「ここには獣人の子もいるのよ」
レティシアが俺たちに視線を向ける。
「人間の子より逞しい子が多いわ。あなたたちのことも、すぐ受け入れると思う」
その言葉どおり、子供たちは怖がる様子なんて一切ない。
むしろ興味津々で、俺たちの周りを取り囲む――ちょっと拍子抜けするくらいに。
「お兄ちゃん、強いの?」
「何かカッコいい技見せて!」
「お前ら、ちょっとは落ち着け!」
カイルの声に、また笑いが起きる。
……こういう空気は、嫌いじゃない。
「さあ、もうすぐ夕食よ」
レティシアの声に、子供たちは一斉に耳をぴくりと動かした。
次の瞬間、群れのように駆け出す。
「うおっ、ちょ……早ぇなこいつら!」
カイルが目を丸くして呟く。
廊下に響く足音と、尻尾の揺れる音がやけに楽しげで、俺も思わず笑みをこぼした。
食堂に入ると、長テーブルの上に皿が並び、湯気が立っている。
量は少ないが、香ばしい肉と焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐった。
昨日まで泥と血の臭いしか知らなかった俺たちには、別世界の匂いだ。
「座って。あなたたちの分もあるわ」
促され、椅子に腰を下ろす。
子供たちが一斉に祈りを終え、「いただきます!」と声を揃えた瞬間、
笑い声と食器の音が交じり合い、食堂は温かな空気で満ちた。
俺たちがこうして“普通に”飯を食ってる――それだけで、妙に胸に沁みる。
パンをちぎろうとした時、不意に視線を感じた。
顔を上げると、向かいに座った猫耳の少女が、俺の左手を見つめて首をかしげていた。
「ねぇ、その手、どうしたの?」
――しまった。
反射的に手を引く。だが、隠すには遅すぎた。
「なにそれ、絵? 模様? かっこいいね!」
少女は無邪気に笑う。
その隣の犬獣人の少年も、骨をくわえたまま身を乗り出した。
「ほんとだ! オレも描いてほしい!」
……知らないんだ。
この世界で“影持ち”が何を意味するのかを。
理由を知らないから、怖がりもしない。
ただ、面白そうだと笑う。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
安心か、焦りか――自分でもわからない。
「……これはな、特別なやつだ」
「特別? すげぇ!」
子供たちは目を輝かせる。
俺は笑って返した――けれど、その裏で、左手の刻印は再び熱を帯びていた。
脈打つたびに、影が小さく笑っている気がする。
「……ここの子供たちは、貴方のそれのことを知らないわ」
隣で子供たちの会話に笑みを返していたレティシアが、耳元で囁いた。
――どうして? そう問う前に、彼女は答える。
「――そんな余裕、この子たちにはなかったから」
「……そう、ですか」
レティシアは言っていた。
影持ちだけじゃない。獣人も異端として扱われていると。
いや、獣人かどうかじゃない。
この国を支配するディオル聖教は、人間以外を“異端”と定めている。
もちろん、影持ちがその中でも特に異質とされている可能性は高い。
だが、だからといって獣人の扱いがまだマシだとは思えなかった。
この子たちはきっと、幼いながらに敵意を浴びて、暗い世界で生きてきたのだろう。
他を気に掛ける余裕なんて、あるはずがない。
前世というアドバンテージを持っている俺たちですら、そうだったのだから。
「まぁ、この子たちなら仮に知っても大丈夫だと思うけどね」
レティシアはそう言って笑った。
真実かどうかは関係ない。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
「おいやめ……ッ! おい、尻尾引っ張るなって!」
カイルはといえば、腹いっぱいになって子供たちに囲まれ、笑っている。
その笑顔を見ながら、ふと思う。
――もし、この刻印が本当に“暴走”したら、どうなる?
俺は、こいつらを巻き込まないでいられるのか?
答えのない問いを抱えたまま、俺はパンを噛みしめる。
熱は、まだ収まる気配を見せなかった。




