名前2
朝の光が差し込む頃、シスターが戻ってきた。
手には湯気の立つスープと、小さな籠を抱えている。
籠の中には、小麦色のパンが並んでいた。
「おはよう、ソーマ。それと……」
彼女は相棒に視線を向け、ふっと微笑んだ。
「昨日は自己紹介もしなかったわね。私はレティシア。この孤児院を任されているシスターよ」
レティシア――その名には、どこか柔らかい響きがあった。
「で、そっちの子は?」
レティシアが問いかけると、毛布からのそりと顔を出した相棒が、わずかに口角を上げた。
「……カイルだ。治してくれてありがとうな」
……こいつ、しれっと名前変えやがった。
軽い自己紹介とお礼のあと、レティシアは視線を落としてしばし沈黙する。
そして静かに口を開いた。
「……あなたたち、これからどうするの?」
その問いに言葉を失う。
俺たちは顔を見合わせるが、答えは出なかった。
目標はできた。
だが、そんな夢話を実現できるほどの力は、今の俺達は持ち合わせていない。
――力がいる。未来の為にも、今に抗う為にも。
しかしその力を手に入れる方法は、正直見当もついていなかった。
沈黙の中、レティシアが続ける。
「ここで受け入れる事もできるけど……正直、長くいるのはおすすめできない。昨日、あなたたちを見つけたときの騒動――あれは、この街では珍しくないの」
胸がざわつく。
あの出来事が珍しくない。
道徳や倫道を無視したあの行為が、少なくともこの街全体では否定されていないのだと。
彼女はそう言っているのだ。
「影持ちや獣人を見かければ、理由もなく石を投げる人間はいる。時には、命を奪うことさえ“正義”だと信じて」
レティシアの声は静かだったが、その奥に冷たい現実があった。
「クソが……」
カイルが小さく舌打ちした。
レティシアは話を続ける。
「でも――希望がないわけじゃない」
レティシアはそう言って、わずかに微笑む。
「この国を越えた先に、《リュミエル》という自由都市がある。そこは私たちセリア教会の影響が強い土地で、影持ちや獣人への差別は少ないと思う。少なくとも、この街みたいに人目のある所での迫害は起こらないはずよ」
「……マジかよ」
カイルが低く息を吐く。
「夢みてぇな話だな」
「夢じゃないわ。ただ――遠い。国境を越えるには危険が多いし、力のない者には無理」
レティシアの視線が、俺の左手に落ちる。
皮膚に刻まれた黒い紋様が、かすかに脈を打った。
「だから、準備が必要。特に君の“影”は……使い方を誤れば、君自身を喰らう」
「……制御しろってことですか?」
「ええ。それが、これからの課題よ」
レティシアはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
木の床が小さく軋む音が、やけに耳に残る。
「影持ちの力は、暴力にもなるし、救いにもなる。でも、今のあなたは“ただの刃”と同じ。握り方を知らなければ、自分を切り裂くだけ」
視線が、俺の手に刻まれた紋様を射抜く。
その赤い脈動が、まるで彼女の言葉に応じるように鼓動を打った。
「……じゃあ、どうすれば」
気づけば、声が漏れていた。
魔法なんて代物、当然扱ったことがない。
だが一人で練習するにも、方法を探すところからだ。
俺が頭を悩ませていると、レティシアがわずかに微笑んだのが見えた。
それは昨日と同じ、どこか優しい笑みだったが――今は違う光が宿っていた。
「私が教えるわ。魔力の扱い方を」
「――え?」
「私も魔法くらい使えるもの。治癒魔法で治したのも私よ。当然闇魔法は教えられないけど、魔力操作と簡単な魔法くらいなら教えられる。これだけでもできればだいぶ危険は減るはずよ」
そこで初めて、自分たちの傷の治りがレティシアのお陰だったことを知った。
「マジか……」
相棒も初めて知ったらしく、驚きの表情をつくっていた。
言葉と同時に、レティシアは手にしていた木皿を俺たちの前に置く。
パンから漂う麦の匂いが部屋に広がった。
「やった朝飯だ……!いっただきまーす!」
相棒が目を輝かせ、文字通り飛びつく。
かぶりついた瞬間、パンの裂ける音がして、次いで咀嚼音が小さく響く。
一口ごとに、彼の喉が必死に動いていた。
しかし俺はそれを横目に見ながらも、胸の奥で別の熱が渦を巻いていた。
――力が得られる。この世界に抗うための、確かな力を。
「……ありがとうございます」
自然と、拳を握っていた。
その瞬間、左手の刻印が、脈打つように微かに光った。
レティシアはそれを確認すると、小さく息を吐き、扉の方へ向き直る。
「……ご飯を食べ終わったら始めましょう、先に向かってるわね」
彼女は一歩、歩みを進めて振り返る。
「昨日の傷は……もうほとんど塞がっているわね。カイルは私が治したけれど、あなたのは――」
全身を見るようにレティシアの目が動く。
「もう癒えているわね。私が手を伸ばしたときにはもう癒えかけていたから、大した治療をしなかったのだけど……あなた自身の“影”が、応えたのかもしれないわね」
言葉の意味を問い返す前に、レティシアは先を歩き出した。
俺は答えず、ただ立ち上がりパンを口にくわえる。
先程まで感じていたはずの痛みは、いつの間にかなくなっていた。
そして、熱々に湯気を立てる俺のスープを羨ましそうに見つめる相棒に視線を向ける。
「……俺のも飲んでいいぞ。熱すぎるのは胃に悪いが冷ます時間もない」
「――ッ!なら仕方ねぇなぁ!」
そう言って嬉しそうに俺のスープを自分の前に持っていく。
大食いな所は前と変わらないみたいだ。
「んじゃ、とりあえず行ってくるわ」
「おう、頑張れー」
相棒からの応援を背に、俺はレティシアを追う為の歩みを進める。
影持ちという異端の刻印。
それが自分の武器となるのか、牙となるのか――今はまだ、わからない。
胸の中で、不安と高鳴りがせめぎ合う。
けれど、その奥で――確かな熱が灯っていた。
その熱が、希望を灯すのか、破滅を招くのか――まだ、誰にもわからなかった。




