この世界で
どれくらい泣いていたんだろう。
気がつけば嗚咽は消え、部屋には静かな呼吸だけが残っていた。
俺は涙の跡を袖で乱暴に拭い、鼻をすすった。
シスターは何も言わず、ただ隣で待っていた。
その沈黙が、やけに優しかった。
「……少し、落ち着いた?」
柔らかな声に、かすかにうなずく。
そして、その直後だった。
彼女の声色が、ほんの少しだけ変わったのは。
「……ソーマ。君の左手、見せてもらえる?」
シスターがぽつりと呟いた。
その一言に胸の奥がざわついた。
何故だろう。嫌な汗が背を伝う。
右手を毛布の下で握りしめ、恐る恐る左手を差し出す。
そこには――黒い痣のような紋様が、左手の甲に浮かんでいた。
黒い色をした紋様は、甲の中央から放射状に広がっていた。
中心には細胞核のような円、その周囲を囲む六角格子。
そこから枝分かれした黒い線が、まるで血管のように指の方へ伸び、末端で尖った三角形を形づくっている。
刺青のような人工的な痕はなく、まるで皮膚の一部であるかのようにそれは刻まれていた。
ひび割れたように枝分かれした線が、皮膚の奥でかすかに赤い光が脈を打っている。
「その刻印......あなた、”影持ち”なのね」
優しい眼差しのまま、彼女は告げた。
その言葉は鉛のように重く、胸の奥に沈んでいく。
影持ち――俺たちが大通りを出たときに言われた言葉。
これが俺たちが石を投げられた理由なのだろう。
「......影持ちって、なんですか?」
彼女の手がぴたりと止まる。
一瞬、答えをためらったあと、低く呟いた。
「……“影を持つ者”よ。闇魔法に選ばれた、人間」
魔法という俺たちの世界での非現実を当然のようにシスターが話す。
だが同時に納得もできた。
俺の傷が綺麗に消えていた理由。
それも魔法という俺の中の非現実でなら説明ができそうだから。
「闇魔法……? じゃあ、魔法が使えるってことですか?」
シスターは首を振る。
「使える、なんて甘いものじゃない。……それは、この時代で最も恐れられる力。あの聖教はそれを『禁呪』と呼ぶ。そして、その証が――君の手にある印」
その言葉と同時に、すべてが繋がった。
大通りで石を投げられた理由も、俺が意識を戻したのが人目につかない路地裏だったことも。
そして恐らく、捨てられた理由も。
この印が原因だったのだ。
シスターは深く息を吐き、視線を窓の方へそらした。
しばし沈黙のあと、言葉を続ける。
「……影持ちだけじゃない。”それ”ほどではないけど、あの聖教――ディオル聖教は獣人も異端として扱うようになった。祈りの場に“人ならざる血”を持ち込むことは罪――そう決められたから」
そこで、彼女の目がベッドの向こうに流れた。
毛布に包まれ眠る相棒を、かすかに見やる。
「あの子が同じ所にいた理由も……たぶん、それだと思うわ」
胸がひやりと冷たくなり、相棒を横目で見る。
よく見ると、頭に被っているフードの頭上には、少し突起の跡が見える。
そして相棒が寝返りをうって、自分のほうへと顔を向けた。
――人とは違う耳が、そこにあった。
沈黙が落ちる。
その重さを断ち切るように、シスターは小さく笑みを浮かべた。
「……大丈夫。ここにいる間は、誰にもあなたたちを傷つけさせない。セリア様の御名にかけて、約束するわ」
その声に、ほんの少しだけ胸が温かくなる。
けれど同時に、その言葉の影に潜む“外の世界への危険”を思い、胸の奥に冷たいものが沈んでいった。
シスターは立ち上がり、扉に手をかける。
「重い話をしてしまったわね。……少し、休んで」
そう言って、静かに部屋を出ていった。
残されたのは、俺と――毛布の下で眠る相棒だけだった。
部屋の中にあるはずの安らぎが、どこか遠くに感じられた。
「……起きてるだろ?」
天井を見上げながら、つぶやく。
あんなにタイミングよく寝返りをうつなんて、そんなにあるもんじゃない。
「……あんなに泣きじゃくってたら、さすがにな」
「そこからかよ……」
毛布の中から、低い声が返ってきた。
恥ずかしさに思わず顔をそむける。
「……この世界でも、どうやら俺たちは望まれてないみたいだな」
皮肉を込めて言った。
けれど、その声は思った以上にかすれていた。
しばしの沈黙。
やがて相棒が、ぽつりと笑った。
「……なら、証明すりゃいい」
毛布の中で、低い声が落ちた。
同時に起き上がり、ずれたフードから三角の耳が覗く。
毛並みがわずかに震え、月明かりを鈍く反射した。
「お前、何言って……無理に決まってんだろ!こんな子供の体で、一体何ができる!」
相棒の夢物語に、少しばかりの苛立ちをもって返す。
あの世界でも、親父と出会わなければ何もできなかった。
そんな幸運とも呼べる出来事があったから、成すことができた。
今生きている幸運だけでも、十分すぎるほどだ。
これ以上は多分望めない。
でも、それ以上を実現させる力もない。
それだけは、変えようのない事実だった。
相棒が毛布を払う。
その動きに合わせて、尻尾の影がかすかに揺れた。
獣人――あの言葉が脳裏に響く。
そして胸に親指を向けて声を出す。
「俺たちには力がある!あの時とは違う、前みたいに親父に拾われる幸運を待たなくても、自分でどうにかできるくらい、強い力が……!」
願望も含まれているのかもしれない。
それでも、強く言い切るその姿勢には、覚悟も見受けられた。
相棒は言葉を続ける。
「あの子も言ってたろ、お前のそれは恐れられるほどの力だって!」
それを見ろと言わんばかりに、俺の左手を強く指さす。
左手にある刻印は、相棒のそれに同意するかのように、強く脈打つのを感じる。
「それに、俺もさっき聞いた話だが、獣人には魔法の適正が少ない代わりに身体能力がすごく高いらしい。それこそ、これくらいに――ッ!」
そう言いながら、相棒が呻き声を押し殺しながら立ち上がった。
足を引きずるその姿は、とても戦えるようには見えない。
それでも――膝を曲げ、力を込めた。
「っ、ぐ……」
鈍い痛みに顔を歪めながらも、足に力を乗せる。
その瞬間、空気が弾けた。
――ドンッ!
砂埃が弾け、空気が押し返してくる。
視界から、相棒の影が消えていた。
「は……?」
見上げた時には、信じられない光景がそこにあった。
窓の陽光も届かないような、そんな高い位置の屋根の支えの上で。尻尾を揺らす相棒の姿だ。
あれだけの傷と痛みを抱えて――それで、これか。
「どうだよ……これが獣人の身体能力ってやつだ……!」
屋根の上で、相棒が笑う。
自分でも初めて体感したのだろう。
息は荒く、膝はわずかに震えている。
それでも、その目は誰よりも誇らしげだった。
「こんな力を持った俺たちなら何でもできる!――あの日誓った事だって」
あの日誓った事――
『明るい世界で生きること』
この世界は、少なくとも俺たち異端の存在にとっては明るい世界ではなかった。
むしろ暗い。
前と何も変わらない、闇の世界。
そんな世界を、こいつは前提から作り変えようとしている。
「だから俺たちで作るんだ!俺たちを受け入れてくれる世界を!あの時みたいに!」
その声は穏やかで、けれど鋼のように硬かった。
胸の奥がじわりと熱くなる。
背中を預けて共に生き抜いた日々が、蘇った。
今度は奪うんじゃない。
証明するんだ。
「……ああ」
拳を握る。
左手の刻印が、微かに赤く脈を打った気がした。
――望まれなくても構わない。
俺たちは、生きていいと証明する。
その先で――笑って生きるために。




