冷凍庫の隅
手首から、熱が流れ出した。湯舟の中で、首にロープをかけた。青い錠剤を飲みこんで、包丁を腹に突き立てた。学校の屋上から足を宙に出して、電車が僕の身体を磨り潰した。川を下りながら岩に四肢を砕かれ、首に刺さった鋏で神経を断たれる。
不条理で、断続的な死が、僕の頭を撫でていった。意味を成さない夢見が、何も出来ずに通り過ぎていく。これを僕が観たところで、何を想えと言うのだろう。
天使には性別が無いと聞くが、それでも僕は天使ではない。誰の救済も望みはしないし、僕の見えない所で死んだ者を、悼み慈しむ理由もない。ただ死んで、勝手に僕の脳を侵す。不法侵入と然程変わりない。そんなものを気に留める必要がなかった。
だから、僕は夢から目覚めるために、見知らぬ部屋の、冷蔵庫の前に座った。何処かの誰かが使っていた、白い冷蔵庫は、一人暮らしに向いた小さなものだった。勿論そんな冷蔵庫の冷凍室に、人間がそのまま入れられる程のスペースはない。きっと和泉の上半身でさえ入ることはないだろう。
処理の確かな生ごみの、微かなえぐみが鼻孔をくすぐった。蝉の声は聞こえない。全ての色彩はくすんで、熱を持っていなかった。視界の端で崩れた黒いゴミ袋は、僕の知るものではない。僕の知らない、僕ではない誰かの部屋。汚らわしさは水場に集まって、家主の適当さを物語っていた。
きっと、その整合性のない脳が、この惨事を導いたのだろう。夢とはいえ、実感はあった。僕の手には、新品の牛刀が握られていた。手も、胸も、濃い赤が纏わりついて動きづらかった。人が一人は存在可能な血液は、シンクから僕の足元を通って、冷凍庫の中へと続いていた。
死体があるのだろう。誰が入っているのかなど、この際どうでもいい。誘い込むような血の道が、うざったくて仕方が無い。
しっかりと閉じたドアに力を入れる。その指先には、懐かしさすらあった。冷気は僕の足指を舐めて、爪に縋りつく。後から、冷凍室特有の、生ゴミが混じって冷え固まったような匂いが鼻まで登った。案の定、冷凍室の中は赤いばかりで、それぞれの小さな引き出しには、細かく刻まれた誰かが入っていた。白い小指が、唯一、血と血の間に輝いて見えた。
一番下の、深い引き出しに手をかけた。それは無意識的で、義務感すら消えていた。肌の一部が僅かに凍って、冷えたプラスチックに貼り付いた。息を吸うと共に、僕は勢い付けて、思い中身の詰まったそれを、外界の熱に晒した。
赤さに目を焼く。肺を満たす鉄分は吐き気を誘うが、凍った人体を前に、本能のままに内臓を動かすことは出来なかった。
肉も、骨も、几帳面に切りそろえられていた。冷凍庫の中身と、部屋の持ち主は異なっている。部屋が僕の知らぬ誰かのものなら、この冷えた匣は、僕の欲求を詰め込んだものかもしれない。牛刀を差し込んで、冷え固まった体液を削る。そうして掘り起こした白い塊から、丁寧に血を拭う。しかし、僕の両手は、既にバリバリと乾いて落ちる程、血を厚く塗り重ねていた。きめ細かな銀細工のような肌に、より一層、汚染が広がっていく。仕方なく、"彼女"の唇を赤く塗るに留めた。
「口が動かなければ最高だよ、お前」
僕の悪態に、仄かに、だが明確に、赤檮望は笑った。
そうして、眼球が揺れた。次に瞼を開いた時、色覚は白に塗りつぶされた。そんな虹彩への負荷が、現実を魅せていた。手の切創は消えていたが、僕の血は赤黒く存在している。音は、今のところ背もたれにしている冷凍庫の稼働音しか聞こえなかった。何処かで父が這いつくばっているのかもしれないが、僕にその気配を知ることは出来なかった。
深く、息を吸った。和泉もいない。僕一人の環境なんて、何時ぶりだろう。孤独感よりも、開放感が勝った。
――――これで煙草の一本でもあれば、最高だろうに。
ニコチン切れの脳髄が、そんなことを言った。そんな口寂しさは、食欲に転移して、僕の胃を揺すった。空腹に押されて、僕は背後の冷凍庫に目を向けた。アイスクリームの一つくらい入ってないものかと、薄らとした期待を胸に、僕は重いステンレスの扉に手をかけた。体重を乗せて腕を引く。磁石は正常に動作していた。家庭用とは比べ物にならない強烈な冷気が、全身を包んだ。暗い室内には、幾つかのゴミ袋とダンボールが重なっていた。小さな甘味など、ありそうもなかった。
好物がないという子供のような理由でも、気落ちはするものだ。白い溜息を吐きながら、僕は手近なビニール袋に手をかけた。形を探ると、どうやらそれは成人男性の手足だった。それが誰のものだったのか、およそ理解は出来た。やはり、父は棗の父親も持って来ていたらしい。
僕は霜を掻き分けて、より奥を探った。肉、肉、血、骨、骨、肉――――おそらくは、廃棄予定の生ゴミだったのだろう。棗の父は、乱雑にビニール袋に包まれ、透けて見える眼球は割れて固まっていた。
ふと訪れた好奇心が、彼の肉体を並べ始める。頭、胸、四肢。足りないパーツを探して、ダンボールに手を置いた。興奮が冷凍庫の中にいることを忘れさせる。おもちゃ箱を開ける子供の如く、僕は赤く冷えた手を動かしていた。
そうしている内、バタンと音がして、唯一の光が潰えた。暗闇が網膜を汚染する中、耳元で和泉が笑っていた。




