愚か者の声
大学の試料保管用の冷凍室における温度は、僕の知る限りではマイナス三〇度程であったと記憶している。一般ではないご家庭の業務用冷凍庫がどうであったかは定かではないが、夏服で長時間耐えられる温度ではないということは、今まさに身をもって体感している。手も足も素肌を晒しているのでは、凍傷は避けて通れない。
そんな渦中にあっても、苦痛を感じないのは、同時に眼球の奥で動く、一人の男の楽し気な視界のせいか。それとも、僕の耳元でいたずらに笑う和泉に対する苛立ちが大きいかもしれない。
一つの光も入らない空間では、重なってしまった日比野の視界と、駆動音に混ざる和泉の声くらいしか、興じるものが無かった。起床から未だ数分しか経っていない目は、新たな眠気を迎えずにいた。瞼を閉じたところで、遮断されるものもない。僕は冷感と痛覚の間で、日比野の目に身を任せた。
流れこむ“僕”を意識するのは初めてだった。しかし、成程、存在さえ受け入れてしまえば、不快感は無い。愉快とは思わないが、慣れれば暇つぶしくらいにはなった。細胞に挟まった砂粒が、脳の皺に入り込んだ蛆が、自ら整列していく。どうにもピントが合わないのは、きっと僕が“僕”になり切らずに俯瞰しているからだろう。音は微かに耳をくすぐった。凍傷と混じって、末端の痛覚が主張を始めた。養父に剥がされた筈の爪は既に再生を始めていた。否、これは再生や治癒と呼ぶものではない。再現、巻き戻しと言うのが正しい。乾いた血を押しのけて、あるべき姿に戻る指。それを丁寧に撫でるのは、一回りも大きい、骨ばかりの白い手だった。
“僕”を前に顔を顰める赤檮望は、赤い“僕”の手を額につけて、祈るように言った。
「あまり無理をしないでくれ」
願いと親愛をこめて、彼女は手の甲に唇をつけた。
「無理をしたわけじゃない。養父さんが勝手に剥いだだけだ。僕は二本目の指にフォークが入った時点で事の全てを伝え終えていたし、そもそも僕が記憶を辿って言葉を選んでいるうちに、ニコニコしながらフォークを刺し込んで爪を剥いて来ただけだ。特に何かしたわけじゃない」
脳内にあったのは、怒りだとか、恨みではなかった。純度の高い呆れが、“僕”の中で笑っていた。その嘲笑は口元から溢れて、望の顔を更に曇らせる。
「やっぱり止めよう。父殺しなんて」
荒れた彼女の唇が、心配を表しているのはわかった。全てを知った上で、彼女は本気で言っている。
「何故?」
首を傾げると、望は手を掴んだまま、目を反らした。
「君は、僕とずっと一緒にいるために、神様になる、人ではない存在になる、そう言っただろう」
遠く、虚ろな空間の中に視線を置いて、彼女は零した。そこに否定する点はない。
“僕”は彼女に依存されている。赤檮望は人肉を食べなければ生きていけないと、思いこんでいる。故に、彼女は僕がいなければ生活もままならない。彼女が毎日口に入れる肉は、全て“僕”が用意している。脂肪ばかりで臭みの強いあの肉を、一緒に平気な顔で食べられるのは“僕”だけだった。
「なら、もう十分じゃないか。君は既に人の道からは大きく外れている。ものの数時間で剥がれた爪が生え揃う人間が、何処にいると言うんだ」
剣幕に吠える彼女を見るのは、初めてのことだった。
「君はもう十分頑張ったよ。これ以上、苦しむ姿は見たくないんだ」
そう言って、望は“僕”と目を合わせた。アメジストをはめ込んだ瞳に、“僕”の顔が映る。かつては僕と同じ少女のようだった“僕”は、今や確かな喉仏を震わせる、一人の成人男性だった。
「その言葉は、僕を何だと思って選んだものなんだ?」
吐き出された自分の中身を、元に戻すことは出来ない。問いかけへの答えに、然程期待はしていなかった。日比野の中にあったその諦念に気付いた時、少しだけ彼の絶望を理解出来た気がした。
「何って……親友じゃないか、僕達」
覚悟していた答えを噛みしめて、“僕”は笑った。溢れかえる程の失望と、何処からか湧き出る安心感に酔いつぶれそうだった。
「親友なら、応援して欲しかったな」
「困ることを言うじゃないか……君は僕が倒れそうでも、もっと頑張れ、全力で走り続けろと言えるのかい」
共感を求める物言いが、僕には無知な愚行に見えて、目を反らしたくてたまらなかった。けれど“僕”は真っ直ぐに、偽りなく言葉を叩きつけた。
「走り続けることが君の望みだったのだとすれば、僕は引き摺ってでも走らせるよ」
――――その結果が、君を肉塊とするのだとしても。
最後の一言を喉奥に仕舞って、“僕”は息を吸った。
「望がどんなに止めても、僕は実父を殺す。それが今の僕の目標で、兄弟とも約束したことだ。彼の努力を無駄にするつもりはない」
前髪を掻き上げて、“僕”は立ち上がった。壁にかけていたコートに腕を通す。呼吸は既に整っていた。
「何より、今すぐ行ってやらないと、ハラヤが死んでしまいそうなんだよね」
日比野が僕の名を唱えた瞬間、望は腰を上げた。椅子を倒して、口を開ける。“僕”を止めようと必死だった時よりも、彼女は明らかに心が動いていた。
「ぼ、僕も一緒に行く!」
望は応答も待たずに、部屋を飛び出した。
――――幸せ者だな、“僕”は。
振り向きもしない彼女の後姿を見つめながら、日比野は最後にハッキリとそう言い残した。
その絶望の先を見るよりも前に、僕の視界は白く混濁した。感覚を失った手で、目元を遮った。
暗く冷えたこの空間が光を取り戻したのは、思い鉄扉が開かれたからだった。入り込んだ外気が火傷でもしそうな程に熱く感じられた。夏風の暑さに身を焼かれそうだった。空間の白さに慣れた目が、人影を捉えた。
「ハラヤ!」
僕の名を叫び、その長い腕で僕の身体を引き寄せ、一人で泣く。長く白い睫毛に集まる涙が鬱陶しくて、僕は動けない体のまま、望を睨んでいた。




