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冷凍された真夢  作者: 棺之夜幟
嫌悪
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二つの信仰

 背中を伝う体液には、僕を抱えて走る男の汗と、僕から流れ出る新鮮な血液が混合していた。夏だというのに手先が冷える。視界は暗く、もう夜が明けないんじゃないかと不安だった。幽冥という男の、荒い息遣いだけが、現実を明らかにしていた。冷たい小さな手が、僕の手を握りしめていた。真昼が、ずっと僕を心配していることだけはわかった。少しずつ、呼吸を探していく。酸素が脳を巡る快感に酔いそうだった。


「良かった、このまま死んだらどうしようかと思った」


 巨躯から生み出される低温。見た目は誰よりも威圧的であるというのに、その声は優し気で、慈愛すら感じられた。


「良いよ、眠ってて。もう、山からは下りたからね。コンビニを見つけたら、ジュースを買ってあげる」


 幼子をあやす様に、幽冥が笑った。揺れる視界の中でも、そこに不安が含まれていることはわかった。


「そんなことより、ハラヤさんを助けに行こうよ、幽冥さん」


 きっと、未だ僕の意識が朦朧としていると思っていたのだろう。彼は妙にハッキリとした僕の反応を見て、足を止めた。


「どうして俺の名前を」

「ハラヤさんが叫んでた。走れって、貴方に。僕を預けて」


 幽冥は僕を地面に下ろすと、腰を下げて目線を合わせた。彼が今、僕と対等に会話しようと、敬意を表していることはわかった。


「参ったな、こんなに似てると、やりにくい」

「似てる? 誰に?」


 困り顔の彼の言葉に、心臓が強く拍動した。血が巡る。明らかに僕は、血の熱に侵されていた。


「七竈に、少し、似てるんだ。女の子のような顔も、生意気な立ち振る舞いも」

「それ、ハラヤさんに言ったら怒る気がする」

「怒るどころか絶縁されかねないな」


 内緒にしておいてくれ、と、彼は肩をすくめた。

 こんな、優しくて穏やかな人が、ハラヤさんとつるんでいたということに、違和感があった。多分、子供好きでもあるのだろう。安心感のためだけに、彼はハラヤさんに向けていた声よりも、ワントーン明るく喉を震わせていた。何より、その鋭く怒っているような目を、出来るだけ恐ろしくないようにと、伏せがちに僕へ向けていた。


「ねえ、幽冥さん」


 だから僕は、こんな不誠実な問いを思いついてしまったのだ。


「幽冥さんも、悪い人(ハラヤさんと同じ)?」


 わかっている。彼には表裏がない。優しさに、態度に、隠された邪悪はない。僕がいなければ彼は今すぐにでもまたハラヤさんを助けに行くだろう。悪意も自己愛も無い。あるとすれば、ハラヤさんに対する誠実さが生み出す、善性の欠如した結果論的な間違いだけだ。


「違うよ」


 幽冥は考える時間も無いうちに、そう笑った。


「俺は七竈のような勇気を持っていない」


 そう言って、彼は目を反らした。


「勇気? 違う、そんなことを聞いてるんじゃない。他人の命が失われても平気な、邪悪さ、悪性。その有無を聞いているんだ」

「すまない、七竈のことを悪い人と形容するから、つい……でも、君は七竈が悪意を持って人を殺していると思っているのか」


 素足で踏む土は酷く冷たかった。思想の差異に、鳥肌が立った。隣で心配そうな顔をする真昼の手を握って、僕は下唇を噛んだ。


「七竈の行為は全て手段であって、目的じゃない。アイツが向かいたかった結末の、その道筋に壁があって、それを壊しているだけだ。その壁が人の命や存在であることが、あるだけなんだ。そこに人の道を逸れようという意思はない」


 淡々と、彼は語った。語感からして、幽冥は誰よりもハラヤさんのことを知っている。


「皆、全てに善悪があるのだと、妄信しているんだ。七竈が悪だと、思いたがっている。人の姿で人の道を踏み外すと、本気で信じている」


 胃に、何か柔らかいものが刺さったような感覚があった。その皆の中に、自分が入っている気がした。多分、きっと、この感覚を、人は後ろめたさと呼ぶのだろう。


「七竈は、何をしたって七竈のままだ。悪でも善でもない。踏み外す道なんてそもそも存在しないんだ」


 それは祈りのように、ぽつぽつと散文になっていった。自分勝手な解釈だと思った。けれど、何故か、それが正しいような気もした。


「だから、置いて行ったの? ハラヤさんなら、何をされても大丈夫だって、思ったから」


 だからこそ、その正しさに一石投じたくなった。僕の小さな悪意を、幽冥は拾って、それを宝物のように拭って、笑った。


「七竈は初めて出会った時から、俺の親友だから。親友が走れと言ったから、走っただけだ」


 つまり、まあ、と、彼は顔を掻きながら言った。


「信じてるって言うのかな、多分。アイツなら、人の肉を食わされても、七竈のまま、何もなかったみたいに、また、眠そうな顔で煙草でも吸ってる気がするんだ」


 幽冥が着地した妄想に、僕は笑うしかなかった。彼の「信じている」は、どうも親友としての情には思えなかった。同時に、その親友という単語も、きっと「神様」という言葉を取り違えている。

 彼にとって、ハラヤさんは神様なのだ。絶対不変の神として、信仰している。だから、彼は今度出会うハラヤさんがどんな姿でも、それこそ、ハラヤさん自身が嫌悪する存在になっていたとしても、変わっていないと形容するのだろう。

 そんなこの男が、馬鹿らしくて、欠伸が出そうな程につまらなくて。彼に信じられているハラヤさんが、妬ましくて――――僕は、そっか、と、出来うる限りの笑顔で口を開いた。


「なら、僕も、ハラヤさんのこと、信じて待ってみようかな」

「……うん、そうしてくれ。あんまり心配しすぎるのも、良くないからさ」


 そうして、幽冥はまた僕を抱きかかえて、歩き出した。朝の日差しが、アスファルトを焼き始める。一台の車が、僕達とすれ違った。


 街は、昨日と何も変わらず、くすんだコンクリートに支配されていた。

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