子離れを押し上げる本能
――――じわじわと自己分解を初めた義母の身体が、独特の腐敗臭を纏う。それでもまだ、空は遠くを白くするばかりだった。
僕は棗に横になれとベッドに誘い、その傍に腰かけていた。僕も棗も、緊張感からか、どうしても眠気が来ずにいた。眠ってしまえば、どんな夢を見たとしても、義母を口に入れるなどということは起きない。棗も、現実から目を反らして、安らぐことが出来る。悪夢を見るなら、その時は起こしてやれば良い。
「ハラヤさん」
ふと、棗が天井を見上げたまま、か細く声を上げた。
「誰か、外にいるよ」
指一つ動かすことなく、彼は呟いた。薄暗い外には、人の気配は感じられなかった。
「何か聞こえたのか」
「ううん。でも、いるんだ。凄く、大きな人。真昼が怖がってない。怖い人じゃないと思う」
酷く曖昧な言葉選びだった。それでも、その誰かの正体くらいは、掴むことが出来た。鉄格子の隙間に目線を差し込む。見知った顔を探す。予想が正しければ、木々の間に、それがいる筈だった。
風とは別に、草木を揺らす音が聞こえた。手入れの届いていない周囲の植物達が、より一層、その気配を誇張していた。少しずつ、彼は慎重に、窓へ近づいていた。ザリザリと壁を擦る音は、僕に一を報せるための合図だ。
指の腹で硝子板を撫でる。その指をなぞるように、僕より二回りも大きな手が、鉄格子を掴んだ。
「翌日に来るとは聞いていたが、幽冥、流石に早すぎないか。今、何時だ」
僅かな日光と、部屋の光が彼の巨躯を照らす。服装も、不安げな眉も、一つも昨日を変わらない。
「ごめん、早く来たくて。朝になったら葬儀屋の人達に止められそうだったし。本当は先生達も一緒にと思ったけど、奏さんのことだから、ガッツリ人除けの何かはしてるだろうなって。でも俺は抜け道を知ってるし、気付かれない道も探し当ててあったから」
硝子越しの声は、籠って聞き取り辛かった。それでもしっかりと意味のある文章として耳に入るのは、幽冥がゆっくりと意識して口を動かすからか。それとも、僕の耳が彼の声をよく覚えているせいか。
「お前の事情はわかった。謝られても困る」
「だよな。すまん」
「……良い、端的に話せ。こっちの状況は最善だが最良じゃない」
僕が立ち位置をずらすと、暗い窓に義母の身体と棗が反射した。同時に、同じ光景が幽冥の瞳にも映る。
「食ったのか」
「あんなもん、同じ空間に存在するだけでも我慢ならないんだ。口に運ぶと思うか」
いつもなら、幽冥がそうだよなと笑って肩をすくめるはずだった。しかし、彼は苦笑と共に口を零した。
「今のお前なら、やりかねないだろ」
表情は、ずっと曇ったままだった。怒りも喜びも無い。幽冥はただ、悲哀と、同情と、恐怖を交えた精神を見せびらかしていた。
「お前から見て、僕はそんなに酷いか」
「酷いとか、そういうのじゃないんだ。段階に来てるっていうか。多分、もうお前は、人間ではないから」
そう言い淀む彼の、合わない目線を追った。口角を挙げて、僕は本能を口にした。
「何を今更」
僕は窓硝子に額を当てた。硬質硝子の冷たさが、脳を冷ました。
「それで、幽冥、お前、こんな無駄話をするためだけってのも、無いだろう」
侵入者の存在を、父が見逃すはずがない。父がこの部屋に来る確率は上がり続けていた。
「そうだ、七竈、今なら、逃げられるんじゃないか」
幽冥はパッと表情を明るく変える。鉄格子を両手で掴むと、彼はそれを引っ張って見せた。以前にもアパートの玄関を破壊しただけあって、鉄と鉄の隙間は、簡単に広がった。肉のしなやかな棗であれば、するりと通り抜けられるだろう。僕だって、多少の傷を覚悟すれば脱出は容易い。
「待て、先にこっちだ」
手を広げて待ち構える幽冥を置いて、僕は棗に駆け寄った。ずっと僕達の会話を聞いていた彼は、黙って頷いた。
「窓を割る。硝子で背や腹を切るだろうが、我慢しろ」
棗の頭に手を添えて、僕は言った。下唇を噛んで、彼は再び首を縦に振った。
僕は棗の意識を確認した後、義母の腕を取った。細い肘に足を添える。関節を逆にして、体重をかける。てこの原理で折れる腕を、どうにかして引き千切った。全てを察した幽冥が、窓の前から身を退いた。僕は遠心力を乗せて、義母の腕を窓に投げ付けた。音を立てて砕けた硝子を確認した瞬間、棗の襟首を掴んで、外に押し出す。途中、残った硝子片が、棗の背を大きく切り裂いたが、僕は痛みに叫ぶ彼を体当たりで押し切った。向こう側では、幽冥が棗を受け止めて、その頭を撫でていた。
「走れ! 幽冥!」
僕の耳には、こちらに向かう父の足音が聞こえていた。書斎にでもいたのだろう。父は、既に鍵を急ぎ開けて、部屋に飛び込んでいた。
「やってくれたなこのクソガキ」
僕を押しのけて、父は窓の外、鉄格子の向こうに手を伸ばした。棗の足を掴む寸前で、幽冥が身を翻した。そのまま、彼等は木々の中に走り出す。
二人を追いかけようと振り向いた父を見て、僕は反射的に、硝子片を掴みとった。切れた掌から血液が流れ出る。滑りそうになる硝子を握りしめて、僕はその手を父に向って振り下ろした。
瞬きの後、硝子片は父の右アキレス腱を切り開き、骨を露出させていた。倒れる父の左足を踏み折って、僕は部屋を出た。
終わりのない廊下を走る。義母と同じ過ちを繰り返しても、僕は走った。何度も視界に入った父が、もう歩けないことがわかって、速度を緩めた。壁を伝いながら、部屋を巡って、隠れる場所を探す。ただ、どれもこれも決定打には欠けていた。
全ての部屋を回って、父の恨み言を何度か聞いているうち、細胞の間に砂埃が入り込んだような、奇妙な感覚が頭から足先まで走った。その感覚には覚えがあった。ある一つの"約束"が網膜を過る。瞬間、急激な眠気に頭を叩かれて、足がもつれた。
そうして、僕は冷凍庫の前で、和泉に頭を撫でられながら、目を瞑った。




