表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

桜の花が散るように コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)

桜の花が散るように


 コノハナサクヤヒメは、自分の胸の奥がふわりと温かくなるのを感じていた。


 朝の光が山の稜線を金色に染めている。春の風はまだ少し冷たかったが、鼻をくすぐる花の香りは優しく、どこか懐かしかった。


 高天原から続く山々の中でも、とりわけ美しいといわれる峰。その斜面には無数の桜が咲き誇り、淡い桃色の雲が地上へ降りてきたようだった。


 サクヤヒメは桜色の小袖に白い打掛を重ね、長い黒髪を背中へ流していた。袖が風に揺れるたび、ほのかな沈丁花の香りが漂う。


 彼女は桜の木にそっと触れた。


「今年も綺麗に咲いてくれたのね」


 木の幹は温かかった。


 まるで返事をするように花びらが一枚、彼女の肩へ落ちる。


 サクヤヒメは微笑んだ。


 花は短い。


 だからこそ愛しい。


 そう思っていた。


 だがその日、彼女の運命を変える出会いが訪れる。


 遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。


 山道を登ってくる一人の若い男。


 凛々しい顔立ち。


 鹿革の狩衣を身につけ、弓を背負っている。


 天孫ニニギノミコトだった。


 彼が姿を現した瞬間、サクヤヒメの胸が不思議なほど高鳴った。


 理由は分からない。


 けれど春の風が吹くたびに桜が花開くように、心が自然に惹かれていく。


 ニニギは馬を降りた。


 そして息を呑んだ。


「美しい……」


 その声は小さかった。


 だがサクヤヒメには聞こえた。


 頬が熱くなる。


 これまで多くの神々から美しいと言われてきた。


 だが不思議と今だけは違った。


 胸の奥がくすぐったい。


 恥ずかしいのに嬉しい。


 そんな感情だった。


 ニニギはゆっくり近づいてくる。


「あなたはどなたですか」


「私は大山津見神の娘、木花咲耶姫です」


 名乗ると、ニニギの表情が明るくなった。


「やはりそうでしたか。私はニニギと申します」


 二人はしばらく話した。


 山のこと。


 花のこと。


 鳥のこと。


 驚くほど話が尽きない。


 サクヤヒメは久しぶりに心から笑っていた。


 昼になると、侍女たちが食事を運んできた。


 炭火で焼いた鮎。


 筍の若芽。


 山菜のおひたし。


 栗を混ぜた炊き込み飯。


 そして甘い木の実。


 湯気の立つ香りが風に乗る。


「美味しそうですね」


 ニニギが笑う。


「ええ。山の恵みばかりです」


 二人は並んで食べた。


 鮎の香ばしい匂い。


 筍の優しい甘み。


 山菜のほろ苦さ。


 そのすべてが幸せだった。


 気がつけば日が傾いている。


 サクヤヒメは胸の奥が少し苦しくなった。


 別れたくない。


 まだ話していたい。


 そんな気持ちだった。


 するとニニギが真剣な顔になった。


「サクヤヒメ」


「はい」


「私はあなたを妻に迎えたい」


 その瞬間。


 心臓が止まるかと思った。


 嬉しい。


 けれど怖い。


 夢みたいだ。


 本当に私でいいのだろうか。


 様々な感情が一度に押し寄せる。


 それでも彼の目を見た。


 まっすぐだった。


 嘘のない瞳だった。


 だからサクヤヒメは微笑んだ。


「はい」


 その一言を言った瞬間、胸の中に春の光が広がるような幸福が満ちた。


 やがて二人は夫婦となった。


 だが幸せな日々は長く続かなかった。


 ある日。


 ニニギが険しい顔で彼女を見つめていた。


 その視線に、サクヤヒメは胸が冷たくなる。


「どうなさったのですか」


 ニニギは答えない。


 しばらく沈黙したあと、ようやく口を開いた。


「本当に私の子なのか」


 その言葉を聞いた瞬間、世界が止まった。


 耳鳴りがした。


 足元が崩れるようだった。


 信じられなかった。


 愛している人に疑われる。


 それがこんなにも苦しいことだとは思わなかった。


 涙が出そうになる。


 けれど泣きたくなかった。


 悲しいからではない。


 愛している人の前で、自分の誇りを失いたくなかったからだ。


 サクヤヒメはゆっくり立ち上がった。


 白い衣の袖を握りしめる。


「それほど私を信じられないのですか」


 声が震えた。


 だが目だけは逸らさなかった。


 胸が痛い。


 苦しい。


 叫びたい。


 それでも彼女は静かに言った。


「ならば証明しましょう」


 炎の中で出産する。


 神話に残るその決意は、怒りからではなかった。


 悲しみからでもない。


 愛していたからだ。


 信じてほしかった。


 ただそれだけだった。


 燃え盛る産屋を前に立った時、サクヤヒメの胸には恐怖があった。


 火は熱い。


 煙は苦しい。


 死ぬかもしれない。


 けれどもっと怖かったのは、愛する人に疑われたまま生きることだった。


 炎が夜空を赤く染める。


 桜の花びらが火の粉とともに舞い上がる。


 その光景を見ながら、サクヤヒメは思った。


 花は散る。


 けれど散ることは終わりではない。


 次の春のための始まりだ。


 だから私は恐れない。


 そして彼女は炎の中へ歩み出した。


 桜のように美しく。


 桜のように強く。


 愛する人を信じ続けながら。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ