桜の花が散るように コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)
桜の花が散るように
コノハナサクヤヒメは、自分の胸の奥がふわりと温かくなるのを感じていた。
朝の光が山の稜線を金色に染めている。春の風はまだ少し冷たかったが、鼻をくすぐる花の香りは優しく、どこか懐かしかった。
高天原から続く山々の中でも、とりわけ美しいといわれる峰。その斜面には無数の桜が咲き誇り、淡い桃色の雲が地上へ降りてきたようだった。
サクヤヒメは桜色の小袖に白い打掛を重ね、長い黒髪を背中へ流していた。袖が風に揺れるたび、ほのかな沈丁花の香りが漂う。
彼女は桜の木にそっと触れた。
「今年も綺麗に咲いてくれたのね」
木の幹は温かかった。
まるで返事をするように花びらが一枚、彼女の肩へ落ちる。
サクヤヒメは微笑んだ。
花は短い。
だからこそ愛しい。
そう思っていた。
だがその日、彼女の運命を変える出会いが訪れる。
遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
山道を登ってくる一人の若い男。
凛々しい顔立ち。
鹿革の狩衣を身につけ、弓を背負っている。
天孫ニニギノミコトだった。
彼が姿を現した瞬間、サクヤヒメの胸が不思議なほど高鳴った。
理由は分からない。
けれど春の風が吹くたびに桜が花開くように、心が自然に惹かれていく。
ニニギは馬を降りた。
そして息を呑んだ。
「美しい……」
その声は小さかった。
だがサクヤヒメには聞こえた。
頬が熱くなる。
これまで多くの神々から美しいと言われてきた。
だが不思議と今だけは違った。
胸の奥がくすぐったい。
恥ずかしいのに嬉しい。
そんな感情だった。
ニニギはゆっくり近づいてくる。
「あなたはどなたですか」
「私は大山津見神の娘、木花咲耶姫です」
名乗ると、ニニギの表情が明るくなった。
「やはりそうでしたか。私はニニギと申します」
二人はしばらく話した。
山のこと。
花のこと。
鳥のこと。
驚くほど話が尽きない。
サクヤヒメは久しぶりに心から笑っていた。
昼になると、侍女たちが食事を運んできた。
炭火で焼いた鮎。
筍の若芽。
山菜のおひたし。
栗を混ぜた炊き込み飯。
そして甘い木の実。
湯気の立つ香りが風に乗る。
「美味しそうですね」
ニニギが笑う。
「ええ。山の恵みばかりです」
二人は並んで食べた。
鮎の香ばしい匂い。
筍の優しい甘み。
山菜のほろ苦さ。
そのすべてが幸せだった。
気がつけば日が傾いている。
サクヤヒメは胸の奥が少し苦しくなった。
別れたくない。
まだ話していたい。
そんな気持ちだった。
するとニニギが真剣な顔になった。
「サクヤヒメ」
「はい」
「私はあなたを妻に迎えたい」
その瞬間。
心臓が止まるかと思った。
嬉しい。
けれど怖い。
夢みたいだ。
本当に私でいいのだろうか。
様々な感情が一度に押し寄せる。
それでも彼の目を見た。
まっすぐだった。
嘘のない瞳だった。
だからサクヤヒメは微笑んだ。
「はい」
その一言を言った瞬間、胸の中に春の光が広がるような幸福が満ちた。
やがて二人は夫婦となった。
だが幸せな日々は長く続かなかった。
ある日。
ニニギが険しい顔で彼女を見つめていた。
その視線に、サクヤヒメは胸が冷たくなる。
「どうなさったのですか」
ニニギは答えない。
しばらく沈黙したあと、ようやく口を開いた。
「本当に私の子なのか」
その言葉を聞いた瞬間、世界が止まった。
耳鳴りがした。
足元が崩れるようだった。
信じられなかった。
愛している人に疑われる。
それがこんなにも苦しいことだとは思わなかった。
涙が出そうになる。
けれど泣きたくなかった。
悲しいからではない。
愛している人の前で、自分の誇りを失いたくなかったからだ。
サクヤヒメはゆっくり立ち上がった。
白い衣の袖を握りしめる。
「それほど私を信じられないのですか」
声が震えた。
だが目だけは逸らさなかった。
胸が痛い。
苦しい。
叫びたい。
それでも彼女は静かに言った。
「ならば証明しましょう」
炎の中で出産する。
神話に残るその決意は、怒りからではなかった。
悲しみからでもない。
愛していたからだ。
信じてほしかった。
ただそれだけだった。
燃え盛る産屋を前に立った時、サクヤヒメの胸には恐怖があった。
火は熱い。
煙は苦しい。
死ぬかもしれない。
けれどもっと怖かったのは、愛する人に疑われたまま生きることだった。
炎が夜空を赤く染める。
桜の花びらが火の粉とともに舞い上がる。
その光景を見ながら、サクヤヒメは思った。
花は散る。
けれど散ることは終わりではない。
次の春のための始まりだ。
だから私は恐れない。
そして彼女は炎の中へ歩み出した。
桜のように美しく。
桜のように強く。
愛する人を信じ続けながら。




