岩戸の夜明けと、温かな粥
岩戸の夜明けと、温かな粥
世界から光が消え去り、漆黒の闇がすべてを覆い尽くしていた。
天照大御神は、高天原の統治者としての誇りも、優しさも、すべてを打ち砕かれていた。彼女が引きこもった天岩戸の内部は、ひんやりとした岩肌の冷気が満ち、静寂だけが支配している。外からは、光を失った世界で荒れ狂う悪神たちの、地鳴りのような咆哮や、草木が枯れ果てていく不気味な軋み音がかすかに届いていた。
天照大御神は、きつく身にまとった白絹の衣服をさらに引き寄せ、膝を抱えて震えていた。その衣服は、細い絹糸を幾重にも丁寧に織り上げた、神聖な純白の衣であったが、今の彼女には、その白ささえも自分の無力さを際立たせるようで忌々しかった。
「なぜ、あのような乱暴を……。須佐之男よ、お前はなぜ、私の心をこれほどまでに引き裂くのだ」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ落ち、衣服の胸元に吸い込まれていく。
機織り小屋で見事な布を織っていた衣服の女神が、須佐之男の投げ込んだ馬の皮に驚き、命を落としたあの瞬間。飛び散った鮮血の匂いと、引き裂かれた織機の凄まじい音が、今も天照大御神の耳の奥で、そして鼻腔の奥で、生々しく蘇る。恐怖と、実の弟を正しく導けなかったという深い絶望が、彼女の胸を黒く塗りつぶしていた。
「私はもう、あの世界を見たくない。誰も彼も、私の光など必要としていないのだ」
深く息を吐き出すと、暗闇の中で自分の吐息が白く濁るのが分かった。神々の住まう高天原も、人間たちの住む葦原中国も、すべてが凍てつくような闇に沈んでいる。それは彼女の心の写し鏡そのものだった。
どれほどの時間が流れただろうか。ふと、岩の隙間から、これまで聞いたこともないような賑やかな音が響いてきた。
ドサリ、ドサリと、重い足音が響く。続いて、大勢の神々がどっと沸き立つような歓声が聞こえた。さらには、小気味よい木琴のような音や、衣服が激しく擦れ合う音が響き渡る。天宇受売命が、ひっくり返した桶の上で、激しく足を踏み鳴らして踊っているのだ。
衣服の裾をはだけさせ、狂ったように踊る彼女の熱気が、岩の細い隙間を通り抜けて、天照大御神の鼻腔をくすぐった。それは、生い茂る緑の葉の瑞々しい匂いと、激しく動く肉体から立ち上る、生命そのものの熱い香気だった。
「おかしや、痛快なるかな。天照大御神様よりも尊い、新たなる神がお生まれになったぞ。さあ、皆で称えよう!」
外から聞こえてきた言葉に、天照大御神の胸がドクリと跳ね上がった。
寂しさと、ほんの少しの嫉妬、そして何よりも強い好奇心が、彼女の凍りついていた心を揺さぶる。自分がいなければ、世界はただ滅びるだけだと思っていた。なのに、自分よりも尊い神が現れ、外の神々はあんなにも楽しそうに笑っている。
「私よりも尊い神がいるというのか。暗闇の中で、皆が私を忘れて笑っているというのか……」
彼女はたまらなくなり、引きこもっていた岩の扉へと歩み寄った。裸足の足裏に、冷たい岩の感触が伝わる。
天照大御神は、重い岩の戸を、ほんの少しだけ押し開けた。
その瞬間、隙間から差し込んできたのは、眩いばかりの光だった。しかしそれは、彼女自身の光ではない。目の前に差し出された、大きな八咫鏡に映し出された、彼女自身の美しい姿だった。
鏡の中の自分と目が合った瞬間、彼女は息を呑んだ。驚きに目を見開いたその隙を、岩の脇に隠れていた天手力男神は見逃さなかった。
「今だ!」
もの凄い地響きとともに、天手力男神の強靭な手が、天照大御神の細い手首をがっちりと掴んだ。彼の皮膚からは、鉄のような力強さと、汗の匂いが放たれていた。そのまま一気に外へと引きずり出される。
同時に、布刀玉命が注連縄を岩の戸の前に張り渡し、不気味な闇の国への扉を完全に封じた。
「ああっ……!」
天照大御神が声を上げた瞬間、彼女の身体から、遮られていた太陽の光が爆発するように四方八方へと広がっていった。
闇に包まれていた高天原が、一瞬にして鮮やかな色彩を取り戻す。青々とした木々の葉が光を浴びて輝き、冷え切っていた空気が、みるみるうちに春のような温かさに満たされていく。神々の顔が、黄金色の光に照らされて、一様に歓喜へと変わった。
「おお、素晴らしい。光が戻った!」
「天照大御神様、万歳!」
あちこちから湧き起こる歓声と、手を叩く乾いた音が、波のように彼女を包み込む。天照大御神は、眩しさに目を細めながら、自分の光が再び世界を温めていく情景を、ただ呆然と見つめていた。胸の奥に燻っていた恐怖や怒りが、神々の笑顔と、頬を撫でる温かい風によって、ゆっくりと溶かされていくのを感じた。
「皆、私を待っていてくれたのですね……。裏切られたわけでは、なかったのですね」
彼女の目から、今度は嬉し涙が溢れた。
八百万の神々の中心に立つ思金神が、恭しく一歩前に進み出た。彼の着ている、深く落ち着いた紺色の麻衣からは、知性を感じさせる清々しい香草の匂いが漂っている。
「天照大御神様、貴方様をお迎えするために、特別な食事を用意いたしました。どうか、長らく凍えていた御身体を、これで温めてくださいませ」
差し出されたのは、丁寧に削り出された木の大坏だった。
そこには、高天原の清らかな湧き水でじっくりと炊き上げられた、真っ白な五穀の粥が盛られていた。新米のみずみずしい香りと、ほのかに甘い湯気が、天照大御神の鼻腔を優しく包み込む。粥の上には、神聖な塩で塩漬けにされた赤カブと、山で採れたばかりのみずみずしい山菜が添えられており、見るだけで食欲をそそった。
「まあ、温かそうなこと」
天照大御神は、冷え切っていた手で大坏を受け取った。木の器を通して、じんわりとした温もりが手のひらから腕、そして胸へと伝わっていく。
木のスプーンで粥をすくい、そっと口に運んだ。
舌の上に広がるのは、米の優しい甘みと、絶妙な塩気。そして、大地の恵みが凝縮されたような温かさだった。咀嚼するたびに、お腹の底からじんわりと熱が広がり、手足の先まで血が巡っていくのが分かった。シャキシャキとした山菜の歯ごたえが、口の中で心地よい音を立てる。
「美味しい……。本当に、美味しいわ」
天照大御神の顔に、心からの微笑みが戻った。
その微笑みに呼応するように、空の太陽はいっそう輝きを増し、地上には花々が一斉に咲き誇り、甘い香りを風に乗せて運び始めた。
神々はそれを見て、再び大声で笑い合った。衣服を揺らし、楽器を鳴らし、世界中が生きる喜びに満ち溢れていく。
天照大御神は、温かい粥をもう一口含み、愛おしそうに神々と世界を見渡した。二度と、この光を絶やしてはならないと、その胸に深く刻みつけながら。




