太陽の姫神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
太陽の姫神
高天原の朝は、人間の世界の朝とは少し違っていた。
東の空が白む前から、黄金色の光が雲の海を染め始める。真珠のような雲は柔らかく輝き、風は花の蜜を含んだ甘い香りを運んでいた。
高天原の中央に建つ壮麗な御殿では、一人の女神が静かに目を覚ます。
天照大御神――アマテラス。
世界を照らす太陽の女神である。
寝所の障子を開けると、朝の光が差し込んだ。
アマテラスは思わず微笑む。
「今日も良い朝ですね」
白地に金糸の刺繍が施された小袖をまとい、長い黒髪を櫛で整える。髪には山吹色の花を一輪だけ挿した。
鏡に映る自分の顔を見ながら、小さく息を吐く。
今日もまた世界を照らさなければならない。
それは誇らしくもあり、少しだけ重い責任でもあった。
部屋の外では侍女神たちが朝食の支度をしていた。
香ばしい香りが漂ってくる。
焼き魚。
炊きたての米。
山菜の汁物。
梅の実を甘く煮たもの。
神々の食卓にも季節の恵みは欠かせない。
広間へ向かうと、すでに神々が集まっていた。
その中から一人の青年神が手を振る。
「姉上!」
月読命――ツクヨミだった。
夜を司る神であり、アマテラスの弟である。
整った顔立ちに銀色の装束がよく似合っていた。
「おはようございます、ツクヨミ」
「今日も早いな」
「太陽が寝坊するわけにはいきませんから」
「ははは、それもそうだ」
二人は並んで席についた。
ふっくら炊き上がった米から湯気が立つ。
焼き鮎の香りが鼻をくすぐった。
「おいしいですね」
アマテラスが言うと、ツクヨミも頷く。
「最近の鮎は特にうまい」
「川の神が頑張ってくれているのでしょう」
神々は笑いながら朝食を楽しんだ。
しかし、その和やかな空気を破るように、遠くから大声が聞こえた。
「姉ちゃーん!」
どたどたどたどた。
廊下を走る足音。
神々が一斉に顔をしかめる。
「ああ……」
ツクヨミが額を押さえた。
「来たな」
次の瞬間、勢いよく襖が開いた。
飛び込んできたのは須佐之男命――スサノオだった。
海と嵐を司る神。
乱れた黒髪。
青い狩衣。
そして底抜けに明るい笑顔。
「姉ちゃん!」
「スサノオ」
「見て見て!」
彼は大きな魚を抱えていた。
しかもまだ生きている。
魚は暴れ回り、尾びれで神々の顔を叩いた。
「ぎゃっ!」
「こら!」
「広間で暴れるな!」
神々が大騒ぎになる。
アマテラスは思わず頭を抱えた。
「スサノオ……」
「何?」
「なぜ生きたまま持ってくるのですか」
「新鮮だから!」
「そういう問題ではありません」
神々の間から笑い声が起こった。
スサノオは昔からこうだった。
悪気はない。
ただ元気がありすぎるのだ。
アマテラスは深いため息をついた。
だが弟の無邪気な笑顔を見ると、強く叱る気にはなれなかった。
「あとで料理人に渡してください」
「はーい!」
返事だけは立派だった。
その日の昼。
アマテラスは天の浮橋から地上を眺めていた。
人間たちの暮らしが見える。
畑を耕す者。
魚を獲る者。
子供を抱く母親。
皆、太陽の光を受けて生きていた。
「今日も平和ですね」
隣に立ったツクヨミが言う。
「ええ」
「姉上は本当に人間たちが好きなんだな」
アマテラスは静かに頷いた。
「だって愛おしいではありませんか」
「弱いのに?」
「弱いからです」
風が吹いた。
金色の袖が揺れる。
アマテラスは人間たちを見つめた。
「転びますし、失敗もします」
「うん」
「泣きますし、怒ります」
「そうだな」
「それでも立ち上がります」
その声は優しかった。
「だから見守りたくなるのです」
ツクヨミは微笑んだ。
「姉上らしいな」
そのとき。
突然、空の向こうで黒雲が渦を巻いた。
海が荒れ始める。
風が唸る。
「またか」
ツクヨミが呟いた。
原因は分かっていた。
スサノオである。
二人が現場へ向かうと、案の定だった。
スサノオが巨大な波に乗って遊んでいる。
「うおおおお!」
「楽しいぞー!」
周囲の海神たちは真っ青だった。
「海が壊れる!」
「やめろー!」
「津波になるぞ!」
アマテラスは額に手を当てた。
「スサノオ」
「おっ、姉ちゃん!」
「降りてきなさい」
「えー」
「今すぐ」
笑顔だった。
しかし目が笑っていない。
スサノオは慌てて海面へ降りた。
「はい……」
しゅんとなる姿は大きな犬のようだった。
ツクヨミが吹き出す。
「お前、本当に姉上には弱いな」
「だって怒らせると怖いんだもん」
「聞こえていますよ」
「ひっ」
神々がどっと笑った。
夕方。
騒がしい一日が終わり、高天原は夕焼け色に染まっていた。
御殿の縁側でアマテラスは一人、お茶を飲んでいた。
香ばしい焙じ茶の湯気が立つ。
隣には甘い栗餅。
風は涼しく、虫たちの声が聞こえてくる。
そこへスサノオがやってきた。
珍しく静かだった。
「姉ちゃん」
「どうしました?」
「今日、ごめん」
アマテラスは少し驚いた。
「反省したのですか」
「ちょっとだけ」
「ちょっとですか」
「でもさ」
スサノオは空を見上げた。
夕焼けが金色に輝いている。
「姉ちゃんが照らしてくれるから、俺たち安心して暴れられるんだよ」
「それは褒めているのですか」
「褒めてる」
アマテラスは思わず笑った。
まったく困った弟だ。
けれど。
嫌いになれない。
ツクヨミもやって来て、三人は並んで座った。
空には星がひとつ、またひとつと現れる。
「姉上」
「はい」
「明日もよろしく頼む」
ツクヨミが言った。
スサノオも頷く。
「世界を照らしてくれ」
アマテラスは静かに微笑んだ。
目の前には愛する弟たち。
見守るべき世界。
そして数えきれない命。
そのすべてを包み込むように、太陽の女神は優しく答えた。
「ええ。明日も必ず」
その声は夕暮れの風に乗り、高天原の果てまで温かく響いていった。




