神代の食卓と、妻の面影
神代の食卓と、妻の面影
深い闇が、すべてを底なしの泥のように呑み込んでいた。
伊邪那岐命(イザ那岐)は、冷え切った岩の床に両膝をつき、ただ立ち尽くしていた。ここは黄泉の国。生者が足を踏み入れてはならない、死者たちの満ちる世界である。鼻を突くのは、生命が腐敗していく酸っぱい臭いと、湿った黒土の重苦しい香りだった。肌にまとわりつく空気はひんやりと冷たく、まるで濡れた絹の着物が肌に張り付いているかのような不快感がある。彼の心臓は、胸の奥で早鐘のように鳴り響いていた。恐怖ではない。愛しい妻、伊邪那美命(イザ那美)に一目逢いたいという、狂おしいほどの情念だけが彼を突き動かしていた。
「伊邪那美、我が愛しき妻よ。どこにいるのだ」
震える声を絞り出す。闇の向こうから、衣が擦れる微かな音が聞こえた。それは、彼女が生前好んで着ていた、目の詰まった白い麻の衣服の音のようでもあり、あるいはもっと重々しい、死者の纏う漆黒の帳の音のようでもあった。
「……伊邪那岐、あなたはここまで来てくださったのですね」
暗闇の奥から響いた声は、かつて葦原中国で優しく囁きかけてくれた時の鈴のような鈴鳴りの声ではなかった。どこか遠く、地底の底から響くような、低く掠れた響き。だが、紛れもなくそれは彼女の声だった。
「当たり前だ。我が国はまだ作り終えていない。お前が帰らねば、私は何も進められないのだ。お願いだ、私とともに戻ってくれ」
伊邪那岐は闇に向かって手を伸ばした。しかし、彼の指先が触れたのは、ただの冷たい虚空だけだった。愛しい人の温もりはどこにもない。胸の奥が、焼け付くような焦燥感で満たされていく。
「それは叶いません。私はすでに、黄泉の国の竈で炊いた御馳走を食べてしまいました。この地の食物を口にした者は、もう光の世界へは戻れないのです」
悲しげな、しかしどこか諦念の混じった声が返ってくる。その言葉を聞いた瞬間、伊邪那岐の視界の端に、かすかな灯りが揺らめいた。その光の中に、ひとつの食卓が浮かび上がる。
平らな黒い岩の台の上に置かれていたのは、生者の世界では見たこともないような、どす黒く熟した木の実や、奇妙な斑点のある茸の汁物、そして赤黒く炊き上げられた米のような穀物だった。それらからは、香ばしい焙煎の匂いと同時に、わずかにカビのような、大地の底の腐葉土を思わせる重い匂いが立ち上っている。
「そんな、そんなはずはない。お前は私の妻だ。私たちがともに育てた国が、お前を待っているというのに」
「ですが、お腹が空いてしまったのです。この地の食物は、口に含むと、驚くほど濃厚で、大地のすべての脂を凝縮したような味がいたしました。舌の上に広がるその泥のような甘みに、私は抗えなかった」
伊邪那美の声には、悔恨と、それ以上の、死の国の住人としての悦びが微かに混じっているように聞こえた。彼女が着ているのは、やはり生前の真っ白な麻布ではなかった。煤を浴びたような、深い紫と黒の混ざり合った、どっしりと重い織物だった。その袖口から覗く肌は、かつてのような桃色の艶を失い、まるで蝋細工のように白く冷ややかだった。
「諦めきれぬ。私は神だ。お前も神だ。黄泉の神々に掛け合えば、きっと道は開けるはずだ」
伊邪那岐は必死に訴えかけた。彼の目から、熱い涙が頬を伝って流れ落ちる。その涙の温かさだけが、この凍てついた世界で唯一の、生きた証だった。
「……そこまでおっしゃるのなら」
伊邪那美は、闇の中で静かに身を翻したようだった。衣の擦れる重い音が、再び空間に響く。
「私が黄泉の神々と話し合ってまいりましょう。元の世界に戻れるよう、頼んでみます。ですが、お願いです。私が戻ってくるまでの間、決して私の姿を見ようとしないでください。この奥の部屋を、覗いてはなりませんよ」
「わかった。決して見ない。ここで静かに待っている」
伊邪那岐は強く頷いた。彼女の気配が、さらに深い闇の奥へと消えていく。残されたのは、ただ静寂と、先ほどの黄泉の食事の残骸から漂う、甘酸っぱく不気味な匂いだけだった。
待つ時間は、永遠のようだった。一分が一年のように感じられ、胸の鼓動の音が耳障りなほどに大きく響く。耳を澄ませても、何も聞こえない。足元から這い上がってくる冷気が、彼の足首を凍りつかせようとしていた。孤独と、底知れぬ不安が、蛇のように彼の心に巻き付いていく。
本当に彼女は話し合っているのだろうか。それとも、自分を置いて、もう二度と戻らないつもりではないか。猜疑心が、頭の中で黒く渦巻いた。
「少しだけなら。顔を見なければ、様子を伺うだけなら、問題ないはずだ」
伊邪那岐は、懐から手向けの櫛を取り出した。その櫛の端の太い歯を一つへし折り、火を灯す。小さな、しかし鋭い炎がパチパチと音を立てて燃え上がり、周囲の闇を不自然な赤色に染め上げた。
彼はその灯りを掲げ、伊邪那美が消えていった奥の部屋へと、忍び足で足を踏み入れた。
一歩進むごとに、匂いが変わっていく。それは先ほどの食卓の匂いとは比較にならないほど、強烈で、鼻を突き刺すような悪臭だった。肉が腐り、蛆が湧き、内臓が溶け出していくような、凄まじい腐敗臭。伊邪那岐は思わず、袖で鼻と口を覆った。しかし、目は引き寄せられるように、部屋の中央を捉えてしまった。
「ああ……、そんな、まさか」
灯火が照らし出したのは、目を覆いたくなるような光景だった。
そこに横たわっていたのは、美しい伊邪那美の姿ではなかった。衣服は破れ、そこから覗く肉体は緑黒色に変色し、ぶよぶよと膨れ上がっている。その全身には、無数の蛆が白く蠢き、音を立てて彼女の肉を貪っていた。
さらに恐ろしいことに、彼女の身体の各部からは、禍々しい雷神たちが生まれ出ていた。頭には大雷、胸には火雷、黒く変色した腹には黒雷が、それぞれバチバチと青白い火花を散らしながら、伊邪那岐を睨みつけている。
「見ましたね……」
腐りかけた喉の奥から、地鳴りのような声が響いた。伊邪那美の、かつて優しかった瞳は完全に濁り、恨みと怒りの炎で真っ赤に燃え上がっていた。
「私に恥をかかせましたね! あれほど見るなと言ったのに、あなたは私の言葉を裏切った!」
彼女が叫ぶと、部屋全体の空気が激しく震え、腐敗臭が爆発するように広がった。その凄まじい怒気と恐怖に、伊邪那岐の心は完全にへし折られた。彼は持っていた櫛の火を投げ捨て、なりふり構わず、来た道を全力で走り出した。
「待ちなさい! 逃がしません、絶対に!」
背後から、衣を引き裂くような音と、雷鳴が轟く。伊邪那美の激しい感情が、黄泉の国の闇そのものを震わせ、彼を追いかけてくる。伊邪那岐はただ、必死に足を動かした。喉が焼け付くように熱く、涙と汗が顔じゅうに広がっていく。生と死の境界へ向かって、彼は暗闇を駆け抜けるしかなかった。




