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黄泉へ続く風 イザナミ(伊邪那美命)

黄泉へ続く風


 まだ山も海も、今のような名前を持たなかった遠い昔。


 世界は若く、草木は朝露の匂いを濃く漂わせ、川は透き通る水音を響かせながら大地を走っていた。


 その世界を形作った女神がいた。


 伊邪那美命――イザナミ。


 彼女は高天原の光の中に立つと、風の音に耳を澄ませた。


 白く柔らかな麻の衣は朝日に照らされて輝き、長い黒髪は腰まで流れている。髪には山桜の花が挿されていた。


 隣には夫であり兄でもある伊邪那岐命――イザナギがいる。


 イザナギは黄金色の刺繍が施された濃紺の狩衣をまとい、穏やかな目で妻を見つめていた。


「今日はどこへ行く?」


 イザナギが尋ねる。


 イザナミは微笑んだ。


「そうですね。先日生まれた森を見に行きたいです」


「また心配しているのか」


「だって、あの森はまだ幼いのですもの」


 イザナギは苦笑した。


「お前は本当に母親みたいだな」


 その言葉にイザナミは少し照れたように笑う。


「母親みたい、ではありませんよ」


「うん?」


「私は母です」


 その言葉に二人は顔を見合わせて笑った。


 新しく生まれた森は、青々とした若葉に覆われていた。


 風が吹くたびに葉が揺れ、青い匂いが辺りに広がる。


 木漏れ日が地面へ落ち、小鳥たちが楽しそうに歌っている。


 イザナミは木の幹へ手を置いた。


「大きくなりましたね」


「まだ生まれて間もないぞ」


「子供の成長は早いのです」


「まるで本当の母親だ」


「だから母なのです」


 また同じ会話になり、二人は笑った。


 その日の昼。


 二人は川辺で食事を取った。


 平たい石を机代わりにし、木の葉の上へ料理を並べる。


 焼いた鮎。


 山菜のおひたし。


 粟の飯。


 木の実を煮詰めた甘い蜜。


 鮎の皮がぱちりと音を立てる。


 香ばしい匂いが風に流れた。


「おいしいですね」


 イザナミは鮎を口に運びながら言った。


「お前は何を食べても幸せそうだな」


「だって生きているということですもの」


「そうだな」


 二人は川のせせらぎを聞きながら食事を続けた。


 その時間は穏やかだった。


 永遠に続くと思えるほど。


 しかし運命は静かに近づいていた。


 それから長い年月が流れた。


 イザナミは数多くの神々を産んだ。


 海の神。


 山の神。


 風の神。


 木々の神。


 豊穣の神。


 世界はどんどん豊かになっていく。


 だが、その代償もまた近づいていた。


 ある日。


 空は赤く染まっていた。


 夕焼けではない。


 大地の奥底から漏れ出した炎の色だった。


 火の神、火之迦具土神――カグツチが生まれる日である。


 激しい熱が世界を包んでいた。


 岩が溶ける匂い。


 焦げた土の臭気。


 熱風が吹き荒れる。


 イザナギは不安そうに妻を見た。


「イザナミ、大丈夫か」


 額には汗が浮かんでいた。


 イザナミは苦しそうに息を吐く。


「ええ……」


 だが声に力がない。


 炎の神は強すぎた。


 生まれるだけで世界を焼くほどに。


「イザナミ!」


 イザナギが叫ぶ。


 イザナミの白い衣が焦げていた。


 肌には赤い火傷が広がっている。


 それでも彼女は必死に微笑んだ。


「この子を……責めてはいけません」


「そんなことより!」


「この子も……私たちの子です」


 炎の中でカグツチが産声を上げる。


 その声は雷鳴のようだった。


 世界に火が生まれた瞬間だった。


 しかし。


 その代償として。


 イザナミの命は尽きようとしていた。


 イザナギは彼女を抱きしめる。


「嫌だ」


 震える声だった。


「行くな」


 イザナミは苦しそうに微笑んだ。


「泣かないでください」


「泣くに決まっている!」


「あなたは強い人です」


「強くなんかない!」


 叫び声が山々に響く。


 イザナギの頬を涙が伝った。


 初めてだった。


 神がこれほど泣くのは。


 イザナミはその涙を見て静かに微笑む。


「ありがとう」


「やめろ」


「あなたと夫婦になれて幸せでした」


「やめてくれ」


「世界を一緒に作れて幸せでした」


「頼む……」


 イザナミは最後の力を振り絞る。


 そして夫の頬へそっと手を添えた。


「愛しています」


 その言葉を最後に。


 手から力が抜けた。


 世界から音が消えたようだった。


 風も。


 川も。


 鳥の声も。


 何も聞こえない。


 イザナギは呆然と妻を抱いていた。


 冷たくなっていく身体。


 動かない胸。


 返ってこない声。


 信じられなかった。


 世界を創った神が。


 誰よりも優しかった女神が。


 もう笑わないなんて。


 夜になった。


 満天の星が空を覆う。


 だがイザナギは動かなかった。


 ただ妻を抱いていた。


「起きてくれ」


 返事はない。


「森を見に行くんじゃなかったのか」


 返事はない。


「まだ一緒に飯を食う約束をしただろう」


 返事はない。


 冷たい夜風が吹く。


 イザナギは顔を伏せた。


 そして初めて知った。


 失う痛みを。


 別れの苦しさを。


 愛する者がいなくなる悲しさを。


 やがて東の空が白み始める。


 そのとき。


 イザナギはゆっくり立ち上がった。


 目は赤く腫れている。


 だがその奥には決意があった。


「待っていてくれ」


 誰にともなく呟く。


「必ず迎えに行く」


 黄泉の国。


 死者が行く世界。


 神々ですら恐れる場所。


 それでも。


 イザナギは歩き出した。


 愛する妻を取り戻すために。


 朝日が昇る。


 金色の光が世界を照らす。


 だがその光は、イザナギの背中を少しも温めることができなかった。


 彼の心は今、黄泉へ続く暗い道へ向かっていたのである。


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