『潮境の母、波間の妻』玉依姫(たまよりひめ)
潮の満ち引きは、海が吐き出す呼吸の音に似ている。
寄せては返す白い波頭を、玉依姫は海辺の岩の上に立ち、じっと見つめていた。
綿津見の神の娘として、深海の冷たく静謐な宮殿で育った彼女にとって、この地上の風はどこまでも乾き、陽の光は肌を刺すようにまぶしかった。
けれど、彼女はその場を離れることができなかった。
胸の奥に抱えた小さな温もりが、規則正しく微かな寝息を立てていたからだ。
「ウガヤ……」
腕の中の赤子に呼びかける。
鵜の羽で葺き終えぬ産屋で生まれたことから名付けられた、鵜葺草葺不合命。
彼の母であり、玉依姫の姉である豊玉姫は、もうここにはいない。
あの海よりも深く、澄んだ瞳をしていた姉。
地上から迷い込んできた山幸彦(火遠理命)と恋に落ち、その子を身ごもった姉は、出産の場を夫に見られ、本来の八尋鰐の姿を晒してしまった。恥じ入り、傷つき、愛する夫と生まれたばかりの我が子を残して、姉は海坂の彼方、二度と戻らぬ海底の国へと帰ってしまったのだ。
『妹よ、あの子を頼みます』
去りゆく姉の、哀切に濡れた最後の言葉が、今も潮騒に混じって耳朶を打つ。
姉の悲しみと、残された子の行く末を思い、玉依姫は自ら名乗りを上げてこの陸へと上がってきた。
「玉を依り憑かせる者」――神の御霊を宿し、育む器としての名を持つ彼女は、姉の血を分けたこの幼子を育てる役目を、誰に命じられるでもなく引き受けたのだった。
赤子が、ふにゃりと小さな口を開けて身じろぎをする。
丸く柔らかな頬にそっと触れると、吸い付くような生々しい温もりが指先に伝わってきた。
海の神族にはない、熱い血の巡り。
地上の泥を吸い、草木を揺らす風を浴びて生きる人間の、脆くも強い熱だった。
「泣かないでおくれ。そなたの母は海へ還ったけれど、そなたを見捨てたのではないのだよ」
玉依姫は子守唄を口ずさむ。それは海の底で魚たちが群れ泳ぐときに奏でるような、静かで低い調べだった。
山幸彦は、妻を失った喪失感からか、狩りに出ては遠く海を眺めるばかりで、子の顔を直視することが少なかった。
だからこそ、玉依姫はこの子の母にならねばならなかった。
姉の影を追うのではなく、この小さな命の盾となり、根とならねばならなかった。
季節はめぐり、赤子は立ち上がり、やがて浜辺を駆ける少年となった。
ウガヤは、海を恐れなかった。荒れ狂う波の際まで平気で走り寄り、貝殻を拾っては玉依姫の元へと走ってくる。
「母上、見て! 海が青い石をくれた!」
少年の屈託のない笑顔に、玉依姫は胸を突かれる。
「母上」と呼ばれるたび、海の底で独り海溝の底を見つめているであろう姉の顔が脳裏をよぎる。
(姉上、私はこの子の母を騙る罪人でしょうか)
けれど、差し出された少年の手を取ると、砂と潮の匂いとともに、まっすぐな信頼が伝わってくるのだ。
彼女は微笑み、少年の頭を撫でた。
「ええ、綺麗な石ね。海が、そなたを見守っている証拠ですよ」
海と陸の狭間で、玉依姫は愛を注ぎ続けた。
神の娘としての冷徹な神威を脱ぎ捨て、泥に汚れ、草を分け、子の成長を見守るただの女として生きた。
やがて時は流れ、少年は立派な青年の姿となった。
その面差しには、父ゆずりの雄々しさと、母ゆずりの海のような深い静けさが宿っていた。
ある夕暮れ、海が茜色に燃え上がる刻限。
成人したウガヤは、浜辺に立つ玉依姫の隣に歩み寄った。かつて見上げていた彼女の背を、彼はとうに追い越していた。
「母上……いいえ、玉依姫」
低く落ち着いた声に、玉依姫は振り返る。
ウガヤの瞳は、夕映えを映して揺るぎなく澄んでいた。
「私は知っています。あなたが私の実の母でないことを。海へ去った母の代わりに、私をここまで育ててくださったことを」
玉依姫は息を呑み、静かに伏し目がちになった。
いつかは訪れると知っていた告白だった。役目は終わったのだと、潮時を悟り、海へ帰るべき日が来たのだと、胸の奥で波が引いていく。
「……気づいておいででしたか。ならば、もう『母』と呼ぶ必要はありません。そなたは立派に育った。私の役目は、ここまでです」
踵を返そうとした彼女の手首を、力強い掌が引き止めた。
「行かせはしません」
ウガヤの掌は、あの赤子の頃と同じ、あるいはそれ以上に熱かった。
「私を育てたのは海でも、去った母でもない。冷たい風から私を庇い、泥にまみれて抱きしめてくれた、あなただ。私の血肉は、あなたの注いでくれた慈しみでできている」
玉依姫は目を見開いた。
「玉依姫。私の妻になってほしい。神の依り代としてではなく、私の隣で、この国の未来を共に紡ぐ人として」
それは、神話の掟を揺るがすような、けれど地上を生きる人間としての切実な誓いだった。
海から来た神が、地上の王となり、その根をこの国深くに下ろすための、魂の結びつき。
寄せる波の音が、ふと静まった。
水平線の向こう、遥かな海底から、姉の許しを与えるような微かな潮風が吹き抜けた気がした。
玉依姫の瞳から、ひとすじの涙がこぼれ、砂に吸い込まれていく。
それは神の涙ではなく、愛することを選んだ、ひとりの女の涙だった。
「……はい、ウガヤ。私はどこへも参りません。あなたの命のそばに、ずっと」
重ね合わされたふたつの手。
海と陸の境目で交わされたその温もりから、やがてこの国を統べる初代の帝――神武天皇となる若宮が生まれることを、風だけが静かに知っていた。




