46/46
潮の玉依姫
潮の玉依姫
海の底の宮で、玉依姫は姉の子を抱いていた。
姉の豊玉姫は、陸で生まれた赤子を妹に託し、潮の向こうへ帰っていった。別れの言葉は短かった。
「この子を、どうかよろしく」
腕の中の赤子は、波の音に驚いて泣いた。玉依姫は頬を寄せ、そっと揺らす。
「大丈夫。海も、あなたを怖がらせたいわけではないのよ」
そう囁くと、赤子は泣きやんだ。
玉依姫は、姉の子を大切に育てた。潮の満ち引きを教え、星の位置を教え、嵐の前に海がどんな匂いを運んでくるのかも教えた。
年月が流れ、赤子は若者になった。名を、鵜葺草葺不合命という。
彼が陸へ帰る日、玉依姫の胸には、海底の宮に来たばかりのころの小さな泣き声がよみがえった。
「あなたは、もう海を渡れるのね」
「あなたが教えてくれたからです」
彼はそう答えた。
玉依姫は、彼とともに陸へ向かった。姉から預かった命を育てるためだけではない。自分の足で、海と陸のあわいを越えてみたかったのだ。
舟が波間を進む。遠ざかる海底の宮で、真珠のような光がひとつ瞬いた。
玉依姫は振り返り、静かに微笑む。
海の魂をその身に依らせる姫――その名のとおり、彼女は海を離れても、波の気配を胸に抱いていた。




