『火中咲く花(かちゅうにさくはな)』コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)
海原を渡る風が、笠沙の御前の白砂をなでていた。
塩気を含んだ空気のなかに、わずかな甘い香りがほどける。浜辺に立つ少女の衣が、潮風をはらんで桜貝のひらめきのように揺れていた。木花之佐久夜毘売。山の神オオヤマツミの娘であり、その名が示す通り、春の木々に咲き誇る花そのものの儚さと眩さをたたえた神だった。
「そなたは、誰の娘か」
背後から投げかけられた声は、陽光のように鋭く、高天原の威光を帯びていた。
振り返ったサクヤヒメの瞳に映ったのは、天より降り立った天津神の御子、瓊瓊杵尊の姿だった。佩いた太刀の鞘が青空の光を弾いている。尊は一目見たその瞬間から、胸を突かれたように息を呑んでいた。美しかった。だがそれは、ただの愛らしさではない。触れればたちまち散ってしまいそうな危うさと、大地に根を張る神ならではの静謐な気品が同居していた。
「大山津見神の娘、名は神阿多恢売。またの名を、木花之佐久夜毘売と申します」
「余と契ってくれまいか」
尊の言葉に迷いはなかった。サクヤヒメは静かに伏し目がちに答えた。「私の一存ではお答えできませぬ。父の仰せに従います」
父オオヤマツミは歓喜した。天つ神の御子との婚姻を祝い、サクヤヒメのみならず、その姉である磐長姫をも共に差し出した。永遠の命を司る岩の神と、栄華と美を司る花の神。ふたりを娶れば、天つ神の命は岩のように揺るぎなく、花のように栄えるはずだった。
けれど、ニニギノミコトは岩の神の醜さを恐れ、イワナガヒメただ一人を送り返した。
「花は愛でるに値するが、岩は余には重すぎる」
その夜、サクヤヒメを迎えた宮殿の褥で、ふたりは契りを結んだ。だが、サクヤヒメの胸の奥には、去っていった姉の乾いた足音と、父が漏らした呪詛のような嘆きが刺さっていた。
*――花の命は短く、咲いては散る。天つ神の御子の命もまた、花のように儚いものとなるだろう。*
それから、わずかひと月も経たぬ頃のことである。
サクヤヒメはニニギノミコトの前に進み出た。その身にはすでに、新しい命が宿っていた。
「尊、私は子を宿しました。天つ神の御子を私腹で産み落とすわけにはまいりません。どうか、お聞き届けください」
だが、返ってきたのは祝福の声ではなかった。ニニギノミコトの眉根が不審の色に歪む。
「サクヤヒメよ。いくら神の力を持つとはいえ、たった一度の契りで子が宿るものか。その子は本当に余の子か。余の前に、地上の国つ神と交わったのではないか」
言葉は、氷の刃となってサクヤヒメの胸を貫いた。
弁解の言葉を探すことさえ、彼女の誇りが許さなかった。花は美しい。しかし、踏みにじられたまま枯れるほど弱くはない。咲き誇る強さは、散る覚悟と背中合わせだった。
「もし、この腹の児が国つ神の子であるならば、無事に生まれることはないでしょう。しかし、まことの天つ神の子であるならば――たとえ火の中でも、健やかに生まれ出ずるはずです」
サクヤヒメは戸口のない巨大な八尋殿を造らせた。自らその中へ入り、隙間を土で塗り固めさせると、手ずから産屋の四方に火を放った。
「火を! 火をつけよ!」
燃え盛る炎が、夕闇を裂いて天を焦がした。パチパチと爆ぜる竹と木材の音、立ち込める白煙。外で見守るニニギノミコトの顔が、火照りの中で蒼白に染まっていく。
「狂気か……サクヤヒメ!」
尊が叫んだときには、すでに産屋は紅蓮の炎に包まれていた。近づくことさえ叶わぬ熱風のなか、サクヤヒメはただ一人、炎の中心に座していた。
着物の裾が焦げ、肌が火の粉に撫でられる。熱気で呼吸さえままならぬ暗がりの中で、彼女の腹を激しい痛みが突き上げた。
(散るために咲くのではない。命を継ぐために、私は咲くのだ)
サクヤヒメは歯を食いしばり、炎に向かって目を見開いた。彼女の神気配が、燃え盛る炎と共鳴する。炎はもはや彼女を焼き尽くす災厄ではなく、身を清める熱い産着だった。
炎が最も激しく燃え上がったとき、産声がひとつ、空気を裂いた。
火照命。
火がさらに勢いを増したとき、二つ目の産声が重なった。
火須勢理命。
そして、火が衰え、白い灰となって鎮まりかけたとき、三つ目の産声が静かに響いた。
火遠理命。
夜明けの光が、焼け落ちた産屋の跡を照らし出した。
煙の引いた灰の上に立っていたのは、煤ひとつ纏わず、三人の赤子をその腕にしっかりと抱いたサクヤヒメだった。その立ち姿は、烈火をくぐり抜けてなお一輪の乱れもなく咲き誇る、大山桜のようだった。
ニニギノミコトは膝を折り、言葉もなくその姿を見つめることしかできなかった。疑いを口にした自らの浅ましさを、灰に叩きつけるように。
サクヤヒメは静かに歩み寄ると、冷え切った朝気の中で、我が子を抱いたまま微かに微笑んだ。その瞳の奥には、火を凌駕するほどの静かな誇りと、地上に生きる定めを受け入れた母の強さがあった。
やがて春が巡るたび、人は山に咲く花を見上げてその美しさに息を呑み、散り際の潔さに神の姿を見る。命は短くとも、燃え立つ一瞬の輝きは永遠を越えるのだと、サクヤヒメの残り香が風に揺れていた。




