天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天照大御神
神聖なる織女たちが糸を紡ぐ機屋に、生臭い風が吹き込んだ瞬間、天照大御神の眉が微かに動いた。
「姉上! 見ての通り、俺の勝ちだ! 天の安河での誓約で俺の心は清いと証明された! ならば高天原のどこを荒らそうと、俺の勝手だろう!」
蹴破られた扉の破片とともに転がり込んできたのは、皮を剥がれた斑駒の血まみれの躯だった。飛び散る鮮血が、神に捧げる純白の織物を冒涜するように赤黒く汚していく。悲鳴を上げて逃げ惑う織女たちのただ中で、弟・須佐之男命は野太い笑い声を上げ、血塗れの長剣を肩に担いでいた。
田の畦を壊され、神聖な御殿に糞尿を撒き散らされた時でさえ、アマテラスは「弟なりの戯れであろう」と八百万の神々を宥めてきた。だが、その寛容を、この乱暴者は「姉の弱腰」と履き違えていた。
アマテラスは立ち上がった。その所作には、取り乱した様子など微塵もない。
「……今日の夕餉は、初採れの粟を炊いて神々に振る舞う手筈であった。この機で織り上げた衣を纏い、皆で実りを祝うはずであったのだ」
静かな声だった。だが、地鳴りのような重みが機屋の空気を凍りつかせる。
「な、何をくだらねえ生活の世間話をしてやがる! 俺が怖くないのか!」
スサノオが威嚇するように切先を突きつける。しかし、アマテラスは怯むどころか、手元に落ちていた堅木の梭を拾い上げ、歩み寄った。彼女の瞳には、弟の凶暴さの裏にある、歪んだ承認欲求と甘えがはっきりと映っていた。
「怖い? 誰が、誰をだ。お前はただ、力を持て余した童のように喚き散らし、私が頭を抱える顔を見て満足したいだけではないか」
「な……ッ!」
「父上より高天原を治めよと命じられたのは私だ。お前ではない。私はその務めとして、お前の粗暴を八百万の神々から庇い、秩序を保とうとしてきた。だが、お前は神聖な機屋を血で汚し、神々の平穏を壊した。……これ以上、誰が貴様の無作法を許すと思うのか」
アマテラスの手が、スサノオの突き出した剣の平を、握りしめた梭で鋭く弾いた。
甲高い金属音が響き、スサノオの手首が跳ね上がる。神威の籠もった一撃に、粗暴な荒神の足が思わず半歩後退した。生まれて初めて見る姉の冷徹な眼光に、スサノオの喉が引きつる。
「姉上……?」
「お前は、私が照らすこの光が当たり前にあるものと侮っていたのだ。自らの力で立っている気でいたのだろう。ならば、思い知らせてやる」
アマテラスは踵を返した。誰の助けも求めず、八百万の神々にすがることもなく、ただ凛とした足取りで歩き出す。目指すは、神域の最奥にある天岩戸。
「おい、どこへ行く! 逃げるのか、姉上!」
背後からの負け惜しみを、アマテラスは歯牙にもかけなかった。
「逃げるのではない。お前にくれてやるのだ。お前が望んだ、法も秩序も光もない、ただ破壊と混沌だけが満ちる世界をな」
天岩戸の前に立ったアマテラスは、巨大な岩扉に手をかけた。神々が数人がかりでも動かせぬ巨岩を、太陽の女神は己が神力のみで押し開く。
そして、岩屋の闇の中へと一歩足を踏み入れ、振り返った。
追いかけてきたスサノオの顔が、恐怖で青ざめていくのが見えた。空から光が失われ、見る見るうちに高天原が、葦原中国が、底知れぬ夜の帳へと呑み込まれていく。
「姉上、待て! 光を消すな! おい!」
叫び縋ろうと伸ばされたスサノオの手の目の前で、アマテラスは自らの腕で、容赦なく岩の扉を叩き閉めた。
**――ズドドドドン!!**
重厚な轟音が天地に響き渡り、内側から固く楔が打ち込まれる。
完全なる暗黒が世界を支配した。暴力で姉を屈服させようとした弟の足元から、今度は本物の災厄と悪霊どもの蠢く音が這い上がってくる。
絶対の闇の中、天岩戸の奥深くで、アマテラスは静かに息を整えた。
主導権は、完全に我が手にある。光を取り戻したくば、八百万の神々を率いて、己の非を詫び、迎えに来てみせるがよい――そう確信しながら。




