黄泉の戸口の麦焦がし
黄泉の戸口の麦焦がし
胸の奥がひどく重たくて息が詰まりそうになり、私は裾がほつれた薄桃色の小袖の端を指先で何度も丸めました。薄暗い洞窟の入り口には湿った土の匂いが立ち込め、足元には昨晩干したまま取り込み忘れて湿気てしまった麻の肌着が丸まって落ちています。あの方がここまで追ってきてくれたのだと分かっているのに、黄泉のかまどで煮た黒豆の甘ったるい香りが鼻について、いまさら元の姿で見つめ合うことなどできないのだと頭の芯で冷ややかに思いました。
「あなた、どうしてここまで来てしまわれたのですか。私はもう、こちらの神様が炊いたご飯を食べてしまったのですよ」
足の爪先が冷え切ってじくじくと痛み、私は黒く染みだらけになった膝掛けを両手で強く引き寄せました。外からは風に乗って懐かしい地上の野菊の匂いがかすかに流れ込んできましたが、岩肌を伝う冷たい水滴がぽたぽたと音を立てて、土間の隅に置かれた欠けた茶碗の底を濡らしています。あの方はいつも約束を忘れて勝手に戸を開けてしまう癖があるから、今度ばかりは本当に目を閉じて待っていてほしいと願いながら、私は震える喉を抑えました。
「お願いですから、私が奥の宮の神様にお話しして戻る許可をいただくまで、決してこちらを覗かないでくださいね。絶対にですよ」
あの方の足音が静かになったことに胸を撫で下ろしながらも、腹の底に溜まった泥のような違和感が消えず、私は帯の結び目を無意味にいじり続けました。薄暗がりの棚には、あの方が好きだった麦焦がしの粉が入った素焼きの壺が埃をかぶって並んでおり、あの晴れた日に二人で山へ登って野いちごを摘み、手のひらを赤く染めながら笑い合ったどうでもいい昼下がりの記憶がふっと蘇ってきます。あの頃の軽やかな身体にはもう戻れないのだと爪を掌に食い込ませ、私は奥の暗がりへ向かってわざと大きく足音を立てて歩き出しました。
「すぐにお返事を聞いてまいりますから、そこの乾いた岩にでも腰掛けて、大人しく待っていてくださいね」
暗がりの中で背後から生温かい気配を感じた瞬間、全身の毛穴が逆立つような衝動に襲われて私は振り返りそうになり、とっさに着物の襟元を強く握りしめました。振り向いた岩陰には火の灯った竹の櫛が落ちており、パチパチとはぜる火の粉が、今朝焼きすぎて黒焦げになったアジの干物のような私の爛れた皮膚を無残に照らし出しています。見ないでとあれほど頼んだのにまた約束を破られたのだという事実が頭を殴りつけ、私はあの方の顔を見ることすらできずにその場に崩れ落ちそうになりました。
「見ましたね。あれほど見るなと言ったのに、あなたは私のこの姿を見てしまわれたのですね」
裏切られた重い塊が喉までせり上がってきて、私は泥にまみれた袖を振り乱しながら洞窟の壁を強く叩きました。足元では逃げ惑うあの方の草履が砂利を蹴る乾いた音が響き、頭上からはぽたぽたと落ちる冷たい水が、かつて二人で川辺で食べた焼餅の焦げた匂いの記憶を無惨に洗い流していきます。逃げ出していくあの方の背中を決して許してはならないと冷え切った心で誓いながら、私は黄泉の国の醜い女たちを呼び集めるために声を張り上げました。
「追うのです。あの人を決して生きて地上の光の中へ帰してはなりません、捕まえなさい」
地上の出口を巨大な千引きの岩で塞がれた瞬間、私の胸の内からあらゆる体温が抜け落ちていき、私は指先についた泥を自分の膝で乱暴に拭いました。岩の隙間からはあたたかい春の風と地上の豊かな稲穂の香りが漂ってきていましたが、私の足元にはすっかり冷え切って脂の浮いた猪の吸い物の椀が転がっているだけです。あの方ともう二度と同じ膳を囲むことも、脱ぎ散らかした着物の文句を言い合うこともないのだと悟り、私は岩肌に額を押し当てて低く呟きました。
「愛しい我が夫よ、あなたがそんな酷いことをなさるなら、私はあなたの国の人間を毎日千人締め殺して差し上げましょう」
自分から放った言葉の冷たさに胸がひりひりと痛みながらも、私は乱れた髪を乱暴に手櫛でかき上げました。岩の向こうからは、かつて私を呼ぶときに少し掠れていたあの懐かしい声が、今はただ遠く張り詰めた響きとなって微かに届いてきます。もう戻れない境界線のこちら側で、私はあの方が地上で新しい衣をまとい、朝餉の温かい粥を一人で啜る姿をぼんやりと思い浮かべながら、その言葉を静かに受け止めました。
「愛しい我が妻よ、お前がそうするなら、私は毎日千五百の産屋を建てて、新しい命を産ませることにしよう」




