黄泉のかまどと桃の実 伊邪那美命
黄泉のかまどと桃の実
伊邪那美命は、海から吹いてくる塩気を含んだ風に目を細めながら、天の浮橋の上で白い袖を押さえた。生成りの小袖に藍色の裳を重ね、長い髪を赤い組紐で束ねていたが、朝露に濡れた毛先が首筋へ貼りついて落ち着かない。隣では伊邪那岐命が、昨夜から持ち歩いていた干し飯を口へ放り込み、固さに顔をしかめながら天の沼矛を海へ差し入れていた。伊邪那美命は、神々から国を作れと言われても、二人の住む家さえまだないことが妙におかしく思えた。
「朝餉を済ませてからでも、国は逃げないのではありませんか」
「天上の神々が見ておられる。空腹くらいで手を止められるか」
「その割には、干し飯を三つも食べましたね」
伊邪那岐命が返事をせずに矛をかき回すと、青い海からごろごろと低い音が響き、白い泡が二人の足元まで跳ね上がった。矛を引き上げた先から潮の雫が落ち、それが積もって一つの島となった。二人は淤能碁呂島へ降りると、太い柱を立て、その周りに屋根の低い御殿を建てたが、風を防ぐ戸板の隙間からは砂が入り込み、敷物は一日でざらざらになった。伊邪那美命は毎朝、小さな箒で砂を集めながら、この頼りない家から本当に多くの島や神々が生まれるのだろうかと考えた。
「柱を回って出会ったところで、夫婦の契りを結びましょう」
「分かりました。でも、あなたは足が速いから、ゆっくり歩いてください」
「神が柱の周りで競走をするものか」
「昨日、浜辺の貝を拾うときは、私を置いて走ったではありませんか」
二人は言い合いながら柱を回り、やがて淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、そして大倭豊秋津島を生んだ。島が増えるたびに伊邪那美命は土鍋で海藻の汁を作り、伊邪那岐命は浜で拾った平たい石に魚を載せて焼いたが、火加減が分からず、尾のほうを何度も黒焦げにした。御殿の軒には洗った小袖が並び、その下では鶏がこぼれた粟をついばみ、食事の途中にも新しい川や山の名を相談する声が続いた。伊邪那美命は焦げた魚の身を箸でほぐしながら、国を作るという大きな仕事も、こうして食べ、眠り、汚れた衣を洗う日々の中で進んでいくのだと知った。
「この島には、雨を受け止める山が必要です」
「では山の神を生もう。川もあったほうがよいな」
「川だけでは魚が困ります。海の神も必要です」
「あなたは魚のことになると、ずいぶん細かい」
「毎回焦がす方に言われたくありません」
ところが、火之迦具土神を生んだとき、伊邪那美命の体は激しい炎に焼かれた。赤い衣は汗で背中へ貼りつき、寝床のそばに置かれた粟粥からは湯気が消え、表面に薄い膜が張っていた。伊邪那岐命は濡らした布を何度も取り替えたが、桶の水はすぐにぬるくなり、部屋には薬草と焦げた髪の匂いがこもった。伊邪那美命は震える指で夫の袖をつかみ、まだ生まれていない神々の名を胸の内で数えた。
「粥を一口だけでも食べてくれ」
「冷めていますね。あなたは昔から、食事を運ぶのが遅いのです」
「温め直してくる。すぐに戻る」
「いいえ、ここにいてください。かまどの火を見るだけでも、今は体が焼けるようです」
「ならば、どこにも行かない。あなたが眠るまで手を握っている」
伊邪那美命はそのまま目を閉じ、黄泉国へ下った。御殿に残された伊邪那岐命は、二つ並んでいた木椀の一つを片づけられず、朝になるたび同じ場所へ置いた。軒先では伊邪那美命が干した藍色の帯が風に揺れ、土鍋には前日の汁が残り、冷えた脂が白く浮いていた。彼は火之迦具土神を斬ったあとも胸のざわつきを抑えられず、ついに櫛と火打ち石と桃の実を袋へ入れ、黄泉国へ向かった。
「待っていてくれ。私が必ず連れ戻す」
黄泉比良坂の先は、湿った土と古い灰の匂いに満ちていた。伊邪那岐命の白い衣は泥で裾が黒くなり、草履の緒は何度も足の指へ食い込んだが、彼は立ち止まらなかった。やがて重い戸の向こうから、聞き慣れた伊邪那美命の声が響き、伊邪那岐命は戸板へ両手をついた。姿が見えないだけで声は以前と変わらず、朝餉の焼き魚について小言を言っていたころの調子さえ残っていた。
「愛しい妻よ、一緒に帰ろう。私たちの国作りは、まだ終わっていない」
「遅すぎます。私はもう、黄泉の食べ物を口にしました」
「何を食べた」
「黒い器に入った米と、塩辛い根菜です。味はほとんどしませんでした」
「それくらいなら、地上へ戻って魚を焼こう。今度は焦がさない」
「それを信じろと言うのですか。あなたは何度言っても、魚を火の真ん中へ置く人でしょう」
伊邪那美命は黄泉の神々へ相談してみると告げた。ただし、戻るまで決して中を見てはいけないと念を押し、戸の奥へ消えた。伊邪那岐命は暗闇に座り込み、袋から干し飯を取り出したものの、口へ入れる気にはなれず、指先で一粒ずつ割って時間を数えた。遠くで水滴の落ちる音が続き、腐った果実の甘い匂いが鼻にまとわりつくうち、待つことに耐えられなくなった彼は、髪に挿していた櫛の歯を一本折り、火をともした。
「少し見るだけだ。連れて帰る道を確かめるだけなのだ」
淡い火に照らされた伊邪那美命の体には、蛆が群がり、雷神たちがまとわりついていた。伊邪那岐命の喉から短い声が漏れ、手にしていた櫛の火が床へ落ちた。彼は泥に足を取られながら逃げ出したが、背後では怒りに満ちた足音が地面を揺らし、黄泉醜女たちの荒い息遣いが近づいた。伊邪那美命は乱れた黒い衣を引きずり、髪から落ちる土を払おうともせず、夫が自分との約束より恐れを選んだことを噛みしめた。
「見ないでと言ったではありませんか!」
「許してくれ。あれがあなたの姿だとは思えなかった」
「この姿になっても、私は伊邪那美です。それなのに、あなたは私を見て逃げた」
「違う。あまりに急なことで、足が勝手に動いたのだ」
「では、その足でどこまでも逃げなさい。私は必ず追いつきます」
伊邪那岐命は髪飾りを投げ、そこから生えた山葡萄で追手の足を止めた。さらに櫛を投げると筍が生え、黄泉醜女たちはそれを抜いて食べたが、伊邪那美命と雷神たちはなおも追い続けた。黄泉比良坂の近くまで来たところで、伊邪那岐命は道端の桃を三つもぎ取り、追手へ向かって力いっぱい投げつけた。潰れた桃の甘酸っぱい香りが腐臭を押し返し、黄泉の者たちは顔を覆って坂の下へ退いた。
「桃の実よ、人が苦しい目に遭ったときも、今のように助けてやってくれ」
伊邪那岐命は息を切らしながら大岩を動かし、黄泉比良坂を塞いだ。岩の向こうから衣擦れの音が聞こえ、やがて伊邪那美命の手が細い隙間へ伸びたが、その指先は夫へ届かなかった。地上では朝日が昇り始め、鳥が鳴き、近くの木には伊邪那岐命が旅の前に干しておいた布袋が夜露を吸って重たく垂れていた。二人は大岩を挟んで向かい合い、かつて同じ土鍋をつついた日々とは違う言葉を交わした。
「愛しい夫よ、あなたがこのようなことをするなら、私はあなたの国の人を一日に千人、死なせます」
「愛しい妻よ、それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」
「私が死を与え、あなたが命を増やすというのですね」
「そうするしかない。私はあなたを連れ戻せず、あなたとの約束も守れなかった」
「ならば、忘れないでください。生まれる者がいるところには、私の国へ来る者もいるのです」
大岩の向こうから足音が遠ざかり、伊邪那美命は黄泉国の暗い御殿へ戻った。冷たいかまどには黒い鍋がかかり、食べかけの根菜と米が底にこびりついていたため、彼女は袖をまくり、竹べらで焦げをこすり落とした。黄泉の者たちは恐れて近寄らなかったが、彼女は水を替え、寝床を整え、破れた黒い衣を一針ずつ縫い直した。針を持つ手を止めた伊邪那美命は、岩の向こうにいる夫には届かないと知りながら、低い声で語りかけた。
「あなたは朝餉を抜く癖があります。せめて干し飯くらいは食べなさい」
地上へ戻った伊邪那岐命は、川の水で顔と体を洗った。黄泉の匂いが消えるまで何度も衣をすすぎ、最後に赤い組紐を水面へ浮かべると、それは流れに乗って海のほうへ運ばれていった。彼は御殿へ帰り、二つ並んだ木椀の一つを棚へしまったが、伊邪那美命の藍色の帯だけは軒から外さなかった。その晩、焦げた魚を一人で食べた伊邪那岐命は、空いた場所へ向かって小さくつぶやいた。
「今度こそ、火を弱くしたのだがな」
黄泉国の伊邪那美命には、その声は聞こえなかった。それでも地上で人が生まれ、年老い、やがて黄泉比良坂を越えてくるたびに、彼女は黒い衣の襟を正して迎えた。御殿の奥では根菜の煮える匂いが漂い、洗った器が伏せて乾かされ、雷神たちが食事の時刻を尋ねて廊下をうろついていた。伊邪那美命は鍋の蓋を持ち上げ、立ちのぼる湯気に目を細めながら、新しく来た者へ静かに声をかけた。
「長い道を歩いて、腹が減ったでしょう。まずは温かいものを食べなさい」




