炎の稲城――狭穂姫命
炎の稲城――狭穂姫命
朝の光が御殿の蔀戸から差し込み、狭穂姫命の膝に置かれた薄青色の衣を照らしていた。衣の袖口には小さなほつれがあり、侍女の真床が白い糸を通した針で何度も縫い直している。部屋には昨夜たいた白檀の香りと、朝餉の粟粥から立つ湯気が混じっていた。粥の上には細かく刻んだ栗がのせられ、脇の皿には塩を振って焼いた川魚と蕪の漬物が並んでいる。狭穂姫は箸を持ったまま、庭に落ちている椎の実を数えていた。
「姫様、また冷めてしまいます」
「分かっています」
「昨日も粥を半分しか召し上がりませんでした。せっかく栗を甘く煮たのに、炊事をする者が頬を膨らませておりましたよ」
「真床が食べてよいわ」
「わたくしが食べたら、また帯がきつくなります」
真床は口では困ったように言いながら、栗を一つ指でつまんだ。狭穂姫はようやく箸を動かし、粥を口へ運んだ。栗の甘みは分かったが、飲み込んだあとの喉には何かがつかえているようだった。昨夜、同じ母から生まれた兄の狭穂彦王が、誰にも見られぬよう御殿を訪ねてきた。帰り際に置いていった短刀は、いまも衣箱の底に隠されている。
「昨夜、どなたかいらしたのですか」
「どうして、そう思うのです」
「廊下に男物の沓の跡がございました。それに、戸口の土がまだ乾いておりません」
「兄上が訪ねてきました。昔の話をしただけです」
「狭穂彦王様が昔話だけでお帰りになるとは、珍しいことでございますね」
真床はそれ以上尋ねず、焼き魚の骨を小さな皿へ移した。狭穂姫は袖の下で指を握り、爪を掌へ食い込ませた。兄と木の実を拾った幼い日、転んで膝を擦りむいた自分を兄が背負ってくれた日、母に隠れて蜂蜜を舐めた日が次々と浮かんだ。だが、昨夜の兄の目は、あのころの穏やかな目ではなかった。
夜になると、垂仁天皇が狭穂姫の部屋を訪れた。天皇は濃い緑色の衣に山鳥の羽を飾った冠をつけていたが、部屋へ入るなり冠を外し、肩を二度回した。朝から諸国の報告を聞き続け、首筋が凝っているらしい。狭穂姫はいつものように天皇の後ろへ座り、香油をつけた指で肩を押した。油には橘の皮が混ぜられており、指を動かすたびに青い香りが広がった。
「もう少し右を押してくれ」
「ここですか」
「そこだ。そなたの指は細いのに、ずいぶん力がある」
「毎朝、重い衣箱を自分で動かしておりますから」
「侍女に任せればよいではないか」
「真床に任せると、中へ菓子を隠します」
「それは、そなたの菓子か」
「わたくしの菓子です」
天皇は声を立てて笑い、後ろへ手を伸ばして狭穂姫の指をつかんだ。狭穂姫はその温かさに触れた途端、衣箱に隠した短刀の重さを思い出した。兄は天皇が眠ったあと、その胸を刺せと命じた。自分が皇后となったことで狭穂彦王は皇位から遠ざけられたのだと、兄は低い声で繰り返した。
「狭穂の一族が退けられれば、おまえもいずれ捨てられる」
兄の声が耳の奥によみがえり、狭穂姫の指が止まった。天皇は振り返り、彼女の顔を見上げた。灯火の油が燃える匂いの向こうで、天皇の頬には昼間についたらしい墨の跡が残っている。狭穂姫は袖でその墨を拭った。
「どうした。顔色がよくない」
「朝餉を少し残しただけです」
「また冷めた粥を真床に食べさせたのか」
「どうして、それをご存じなのです」
「真床が炊事の者に、帯がきつくなったとこぼしていた」
「宮の話は、風より早く伝わりますね」
「そなたの兄が訪ねてきたことも、すでに聞いている」
狭穂姫の手が天皇の頬で止まった。天皇は怒った様子を見せず、墨のついた彼女の袖を指でこすった。狭穂姫は口を開きかけたが、兄の名を出せば、兄はただちに捕らえられる。黙っていれば、今夜にも天皇を手にかけなければならない。灯火が揺れるたび、部屋の隅にある衣箱の影が大きくなった。
「兄上は、幼いころの話をしに来ただけです」
「そうか」
「疑っておられるのですか」
「そなたが話したくなるまで待つ」
「待っている間に、取り返しのつかないことが起きたら、どうなさいます」
「それでも、そなたの口から聞きたい」
その夜更け、天皇は狭穂姫の膝を枕にして眠った。外では雨が降り始め、軒から落ちる雫が土器を叩いていた。狭穂姫は天皇を起こさないようゆっくり体をずらし、衣箱から短刀を取り出した。鹿角で作られた柄は冷たく、刃には灯火の細い光が映った。兄は、この一刃で狭穂の家を守れると言ったが、目の前にいる夫は無防備に口を開け、昼の疲れを残した顔で眠っていた。
狭穂姫は短刀を両手で握り、天皇の胸の上へかざした。雨音が強まり、庭で飼われている犬が一度だけ吠えた。天皇は眠ったまま眉を寄せ、狭穂姫の名を小さく呼んだ。刃を握る手から汗がにじみ、短刀の先が震えた。
「できません」
狭穂姫の目から落ちた雫が、天皇の頬に当たった。天皇は目を開け、胸の上にある短刀を見たが、身を起こそうとはしなかった。狭穂姫は短刀を床へ落とし、両手で顔を覆った。刃が板へ当たって跳ね、乾いた音を立てた。
「夢を見た。錦色の小さな蛇が、私の首に巻きついた。大雨が狭穂の方角から降ってきた」
「それは夢ではございません。わたくしのしたことが、姿を変えて現れたのです」
「短刀を渡したのは、狭穂彦か」
「はい」
「私を殺せと命じたのか」
「はい。けれど、できませんでした」
天皇はゆっくり身を起こした。狭穂姫は叱責を待ちながら、床に落ちた短刀を見つめた。明日の朝には自分も兄も捕らえられるだろう。そう思いながら指を組み直すと、天皇は短刀を拾い、手の届かない場所へ置いた。
「なぜ、すぐに話さなかった」
「兄上は、幼いころからわたくしを守ってくれました。父母が亡くなったあとも、寒い夜には自分の衣を貸してくれました」
「では、兄を選ぶのか」
「選べません。兄上も、あなた様も、わたくしの身を二つに分けなければ選べません」
「私は、そなたを二つには分けぬ」
「けれど、兵を差し向けるのでしょう」
「謀反を見逃すことはできぬ」
狭穂姫は返事をせず、短刀が残した床の傷を指でなぞった。雨は夜明けまで続き、朝餉の支度を知らせる土器の音が遠くから聞こえた。その日、狭穂彦王を捕らえるための兵が差し向けられた。だが兄はすでに稲城へ入り、刈り取った稲を積み上げた垣の内側で、天皇の軍勢を待ち構えていた。
狭穂姫の腹には、天皇の子が宿っていた。日ごとに腹が丸くなり、薄い衣では隠せなくなったころ、兄から使いが届いた。使いの男は土のついた麻衣を着ており、履物の鼻緒が切れかけていた。彼は狭穂姫の前へ木の実を入れた小袋を置いた。袋の中には、兄と幼いころに集めた椎の実と、短い文が入っていた。
「狭穂彦王様は、何と?」
「姫様に会いたいと。それだけでございます」
「稲城には食べ物がありますか」
「干した肉と粟が少しございます。水は井戸からくみ上げておりますが、兵が増えましたので足りません」
「兄上は、きちんと食べているのですか」
「皆が食べたあとに残ったものを口にされます」
「昔から、そういう人でした」
真床は狭穂姫の肩へ厚い衣を掛けた。秋の風が部屋へ入り、干していた産着の袖を揺らしている。産着には黄色い糸で鳥の模様が縫われていたが、片方の鳥だけ羽が三枚多かった。真床が数を間違えたのだと白状し、ほどこうとしたため、狭穂姫はそのままでよいと止めた。
「羽が多ければ、その分だけ遠くへ飛べるでしょう」
「左右がそろっておりません」
「人の両手も、まったく同じには動きません」
「姫様は、わたくしの失敗を直させてくださらないのですね」
「真床が直そうとすると、別の場所までほどいてしまいますから」
二人は少し笑ったが、狭穂姫は産着を畳む手を止めた。兄は城の中で包囲され、自分は夫の子の産着を縫っている。このまま御殿にいれば、兄が討たれた知らせを聞くことになる。兄のもとへ行けば、夫に背を向けることになる。狭穂姫は木の実の小袋を胸元へ入れ、その夜、侍女たちが寝静まったあとで稲城へ向かった。
稲城の中は、汗と煙と湿った藁の匂いで満ちていた。狭穂姫は生成りの小袖に茶色の袴をつけ、腹を冷やさないよう毛織りの帯を巻いていた。城内の兵たちは皇后の姿を見て道を開けたが、誰も歓迎の声を上げなかった。土鍋では粟と野草を煮た汁が作られ、木の椀を持った兵が長い列を作っている。狭穂彦王は城の中央にある粗末な建物から出てくると、妹の膨らんだ腹を見て足を止めた。
「なぜ来た」
「お会いになりたいと、使いをよこしたではありませんか」
「文を読んでも、ここへ来ないと思っていた」
「昔から、兄上が呼べば参りました」
「もう子供ではない」
「兄上も、椎の実を文と一緒に送るような子供ではございません」
兄の頬は痩せ、髭も伸びていた。着ている黒い衣の肩には土がつき、腰の剣には小さな刃こぼれがあった。それでも狭穂姫を見る目だけは、幼いころと変わらなかった。狭穂彦は妹を建物へ入れ、自分のために残してあった粟の握り飯を差し出した。
「食べろ」
「兄上がお召し上がりください」
「腹の子の分まで食べなければならぬだろう」
「では、半分ずつにしましょう」
「昔もそう言って、私の半分を大きく割ったな」
「あれは兄上の手が大きかったからです」
「違う。おまえの腹が減っていたからだ」
二人は握り飯を分けた。粟は冷えて固まり、噛むと煙の匂いがした。狭穂姫は椀の水で流し込み、壁際に置かれた欠けた土器を見た。城の中には、誰かが脱いだ草履、洗って干した兵の下帯、折れた矢を束ねる縄があり、戦の場所にも人の暮らしが残っていた。
「兄上。兵を退けてください」
「天皇に首を差し出せと申すのか」
「命を差し出せとは申しておりません。罪を認め、詫びてください」
「私が降れば、狭穂の者は二度と立てぬ」
「立つとは、何をすることです。剣を持つことですか。人を殺すことですか」
「おまえには分からぬ」
「分かりません。ですから教えてください。兄上が天皇になれば、粟の汁を並んで待つ兵たちは、明日から腹いっぱい食べられるのですか」
「それは……国を得てから考える」
「国を得る前に、皆が死んでしまいます」
狭穂彦は答えず、壁に掛けた弓を見上げた。外から、天皇軍が降伏を呼びかける声が聞こえた。狭穂姫を返すならば攻撃を待つという。狭穂彦は唇をかみ、妹の腹へ目を落とした。
「戻れ。おまえまで、ここで死ぬことはない」
「兄上を一人にはできません」
「夫のもとへ帰れ」
「あなた様を手にかけようとしたわたくしを、あの方はすぐには罰しませんでした。待つとおっしゃいました」
「ならば、その慈悲にすがれ」
「兄上も、すがってください」
「私にはできぬ」
包囲は長く続いた。冬の冷たい風が稲の垣を抜け、城内では薪と食べ物が減っていった。狭穂姫は兵の破れた衣を縫い、井戸の水を運ぶ女たちと一緒に働いた。腹が大きくなると腰を曲げることが難しくなり、座るたびに藁束を背へ当てた。夜は腹の子が強く動き、狭穂姫が脇腹を押さえると、兄は顔をしかめながら湯を沸かした。
「蹴っております」
「元気な子だ」
「兄上に似たのかもしれません」
「それは困る。幼いころの私は、屋根へ上って三度も落ちた」
「四度です。四度目は母上の干した衣を全部落としました」
「あれは風のせいだ」
「兄上は昔から、都合の悪いことを風のせいになさいます」
やがて狭穂姫は、城内で男の子を産んだ。産声が響くと、疲れ切っていた兵たちまで建物の外へ集まった。赤子は白い産着に包まれ、真床が縫った鳥の模様の上で小さな手を動かした。狭穂姫は乳を飲ませながら、髪を額へ張りつかせて眠る赤子を見つめた。狭穂彦はおそるおそる指を近づけ、赤子に強く握られて顔をゆがめた。
「ずいぶん力が強い」
「兄上の指を剣だと思っているのでしょう」
「生まれたばかりで剣を知るものか」
「では、細い大根だと思っております」
「私の指は、それほど白くない」
赤子があくびをすると、二人は声を抑えて笑った。しかし城の外では、天皇の軍勢が攻撃の準備を進めていた。狭穂姫は、この子だけは父のもとへ返さなければならないと考えた。兄と共に残ることを選んだ自分と違い、赤子には自分で道を選べる日まで生きてもらわなければならない。
狭穂姫は使者を城の外へ出し、天皇へ言葉を届けた。自分が産んだ御子をお渡ししたいので、受け取りに来てほしいと頼んだのである。天皇は力自慢の兵を選び、狭穂姫と赤子の双方を連れ戻すよう命じた。兵たちが稲城の門へ近づくと、狭穂姫は赤子を抱いて姿を現した。
「御子をお渡しいたします」
「皇后様もお戻りください。天皇は、いまもお待ちです」
「わたくしを無理に連れ出してはなりません」
「それでは、我らが叱責を受けます」
「あなたは昨夜、何を食べましたか」
「は?」
「何を食べたのです」
「干し飯と、塩を振った豆でございます」
「では、今夜もそれを食べたいでしょう。わたくしを奪おうとすれば、城の兵と争い、帰れなくなります」
「そのような無駄話をしている場合ではございません」
「無駄な話ができる者だけが、生きて帰れるのです」
狭穂姫は赤子を兵へ渡した。兵が彼女の腕もつかもうとしたが、狭穂姫は髪を短く切り、衣には油を塗っていたため、その手からするりと抜けた。兵たちは赤子を傷つけることを恐れ、それ以上追えなかった。狭穂姫は門の内側へ戻り、遠ざかる産着の黄色い鳥を見つめた。
「倭彦命と名づけてください!」
狭穂姫の声は城の外まで届いた。赤子は何も知らず、兵の腕の中で泣いていた。やがて天皇のもとへ運ばれ、父の胸へ抱かれた。天皇は赤子の産着を見て、左右の鳥の羽の数が違うことに気づいた。
「これは誰が縫った」
「皇后様の侍女、真床という者かと」
「姫は、ほどかせなかったのであろう」
「なぜ、お分かりになるのですか」
「狭穂姫は、きれいに整いすぎたものを好まぬ。失敗した跡にも、その者が暮らした時間があると申していた」
天皇は赤子を抱いたまま稲城を見た。狭穂姫を救い出す機会は、もはや残り少なかった。城の食料が尽きても、狭穂彦は降伏しなかった。天皇はついに稲城へ火を放つよう命じた。
乾いた稲の垣は、火が触れるとたちまち燃え上がった。煙が城内へ流れ込み、兵たちは水桶を運んだが、井戸の水は底をつきかけていた。狭穂姫は赤い炎に照らされながら、産後も着続けていた生成りの小袖の襟を整えた。袖には乳の染みが残り、裾には井戸水を運んだときの泥がついていた。狭穂彦は剣を抜き、煙の向こうに立つ妹を見た。
「まだ間に合う。外へ出ろ」
「兄上も一緒に参りましょう」
「私は行けぬ」
「でしたら、わたくしも参りません」
「夫と子を残してよいのか」
「よいはずがありません。あの子が泣けば抱きたい。あの方が朝餉を急いで召し上がれば、むせますよと申し上げたい。それでも、兄上をここへ導いたのは、短刀を受け取って黙っていたわたくしでもあります」
「私が命じたのだ。おまえに罪はない」
「兄上だけの罪にして、外へ出ることはできません」
燃える垣が崩れ、火の粉が狭穂姫の髪へ落ちた。狭穂彦は自分の袖で火の粉を払い、幼いころと同じように妹の前へ立った。外から天皇が狭穂姫の名を呼ぶ声が聞こえた。狭穂姫は一歩だけ門の方へ進んだが、兄の背中を見て足を止めた。
「狭穂姫、戻れ! そなたの罪は問わぬ!」
「どうか、倭彦命をお願いいたします!」
「そなたが育てよ! 私は、そなたが戻るのを待っている!」
「あの子の産着の鳥は、羽の数が違います。直さないでくださいませ!」
「そのようなことは、そなたが戻って申せ!」
「あの方は粥に栗を入れると召し上がります。寝る前には肩を二度回します。雨の日には古い傷が痛みますので、橘の香油をお使いください!」
「なぜ、いまそのような話をする!」
「覚えていてほしいからです!」
天皇は燃える門へ駆け寄ろうとしたが、兵たちに押しとどめられた。稲城の中では屋根が焼け落ち、狭穂彦が妹の肩を抱いていた。狭穂姫は煙にむせながらも、胸元から最後の椎の実を取り出した。幼いころ、兄と取り合ったものより小さく、虫に食われた穴が一つ開いていた。
「兄上。これを半分にできますか」
「こんなときまで、食い意地を張るのか」
「兄上の方を大きくして差し上げます」
「信じられぬな」
「では、見ていてください」
狭穂姫は椎の実を割ろうとしたが、指に力が入らなかった。狭穂彦が手を添え、二人で殻を割った。中の実は黒く傷んでおり、食べることはできなかった。それでも狭穂姫は小さい方を兄へ渡し、大きい方を自分の掌へ置いた。
「おまえは最後まで、ずるい妹だ」
「兄上が大きい方を取らないからです」
炎が二人の姿を包み、稲城は大きな音を立てて崩れた。天皇は腕の中の倭彦命を強く抱いた。赤子は火の明るさに驚いて泣き、黄色い鳥の産着を小さな拳でつかんでいた。天皇はその背を何度もさすり、煙の向こうへ声をかけ続けたが、狭穂姫の返事はもう聞こえなかった。
翌朝、焼け跡には冷たい雨が降った。焦げた稲の匂いが野に残り、兵たちは泥に足を取られながら遺された品を集めた。欠けた土器、焼けた弓、黒くなった衣の留め具に混じり、半分に割れた椎の実が見つかった。天皇はそれを拾い、灰を袖で拭った。
「このようなものを、最後まで持っていたのか」
「ただの椎の実でございます」
「ただのものだから、捨てられなかったのであろう」
御殿へ戻った天皇は、倭彦命に粟粥を食べさせた。赤子は匙を嫌がり、粥を父の濃い緑色の衣へ飛ばした。真床が慌てて布を持ってきたが、天皇はその染みをすぐには拭かなかった。部屋には橘の香油がたかれ、壁には羽の数が違う鳥の産着が掛けられていた。
「陛下、お召し替えをなさいませ」
「このままでよい」
「粥の染みは落ちにくくなります」
「残しておけ。ここでこの子が飯を食べた跡だ」
「姫様も、同じことをおっしゃいました」
「そうであろうな」
天皇は倭彦命を膝に乗せ、半分に割れた椎の実を小さな箱へしまった。赤子はその箱へ手を伸ばしたが、天皇は蓋を閉じ、代わりに甘く煮た栗を持たせた。倭彦命が栗を握りつぶすと、黄色い欠片が畳へ散らばった。天皇は一つずつ拾いながら、栗の入った粟粥を残して真床を困らせた狭穂姫の姿を、いつまでも倭彦命へ話して聞かせた。




