小刀の重み
小刀の重み
胃のあたりが鉛を飲み込んだように重たく沈み、狭穂姫は絹の単衣の衿もとを震える指先で何度も掻き合わせた。薄暗い御殿の奥の部屋には、昨日炊いて冷めきった山芋の粥から酸えた匂いが漂っており、机の上には兄から届いた文の墨が乾いて紙の端が反り返っている。兄の狭穂彦から「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われたときの恐ろしい視線を思い出した彼女は、幼い頃に二人で庭の茱萸の実を摘んで母に叱られた記憶を手繰り寄せ、なぜこんなことになってしまったのかと頭を抱えた。
「兄上、私はどうすればよいのでしょう。あの人は私の大切な夫なのです」
垂仁天皇の寝息が規則正しく衣を揺らすたび、狭穂姫の喉はからからに渇いて張り付きそうになった。枕元に置かれた青銅の灯台からは油煙が細く立ち上り、昨夜脱ぎ捨てられた帝の狩衣の袖には野遊びのときに付いた草の青い匂いがまだ染みついている。膝の上で握りしめた兄から渡された短刀は氷のように冷たく、この刃を夫の首筋に突き立てるなど到底できないと悟った彼女は、夫の穏やかな寝顔を見つめながらポロポロと涙をこぼした。
「我が君、起きてくださいませ。私は恐ろしい過ちを犯そうとしておりました」
頬に落ちた大粒の涙の冷たさに驚いて目を開けた垂仁天皇は、寝乱れた衣の胸元を手で押さえながら起き上がった。部屋の隅に置かれた水瓶には朝の光が差し込んで埃がちらちらと舞い、床に敷かれた菅畳の隙間からは昨晩つまんだ干し柿の甘い匂いがかすかに漂っている。妻のただならぬ怯えようと手元の刃物を見た帝は、先刻まで見ていた首に蛇が巻き付く不吉な夢の意味を理解し、義兄が謀反を企てているのだと確信して眉をひそめた。
「狭穂姫、泣くのをやめて話すがよい。そなたの兄は、私を討とうとしているのだな」
胸が張り裂けそうな息苦しさに襲われながら、狭穂姫は生まれたばかりの我が子を抱いて稲城へと走る足の指に力を込めた。砦の中は炊き出しの雑穀が焦げた苦い煙と兵たちの汗の匂いが混ざり合って息苦しく、土壁の足元には飲み散らかされた濁酒の甕が転がっている。兄を見捨てて一人で生き延びることも、夫の元で何食わぬ顔をして暮らすこともできないと考えた彼女は、産着にくるまれた赤子の柔らかな頬に自分の唇を押し当てた。
「兄上、私はここへ残ります。けれど、この罪のない幼子だけは帝にお返ししなければなりません」
赤子の泣き声が遠ざかるにつれて全身の力が抜けていくのを感じながら、狭穂姫は燃え盛る稲城の熱風を頬に受けた。パチパチと爆ぜる稲束の炎は茜色に染め抜いた彼女の上着の裾を焼き焦がし、もうもうと立ち込める黒煙が空を覆って真昼の太陽を鈍い赤色に変えている。我が子が夫の手によって健やかに育てられる未来を信じた彼女は、崩れ落ちる柱の音を聞きながら、兄と並んで猛火の奥へと静かに歩みを進めた。
「我が君、どうか我が子を頼みます。来世でまた、穏やかな朝を迎えられますように」




