海に消えた櫛――弟橘媛
海に消えた櫛――弟橘媛
朝餉の支度をする女たちの足音が、まだ薄暗い廊下を行き来していた。弟橘媛は白い小袖の上に薄紅色の衣を重ね、袖口から出た糸を指先でつまんだ。旅に出てから何度も繕った衣であり、相模へ入ったころには裾に落ちない泥染みまでできていた。膳には麦を混ぜた飯、干した鯵、塩気の強い菜の漬物が並び、椀の味噌汁から湯気が細く上がっている。日本武尊は鯵の骨を器用に外していたが、いつもより箸の動きが速かった。弟橘媛は味噌汁を一口すすり、焦げた葱の匂いを鼻に残したまま、夫の横顔を見た。
「今日は海を渡るのですね」
「ああ。走水から上総へ向かう。風も穏やかだと船頭が申していた」
「海の機嫌は、船頭にも分からないでしょう」
「そなたは心配性だな。これまで山も川も越えてきたではないか」
日本武尊はそう言って飯を口へ運んだが、汁椀を持つ左手には力が入っていた。東国の平定を命じられてから、彼は人前で弱音を吐かなくなっていた。夜中に何度も目を覚まし、枕元の剣を確かめる癖がついたことを、弟橘媛だけは知っている。昨夜も彼は眠れず、灯心の燃えかすを三度も竹串でかき出していた。弟橘媛は鯵の皮を少しだけ飯にのせ、夫の膳へそっと差し出した。
「骨が残っています。急いで喉に刺したら、海へ出る前に負けてしまいますよ」
「魚の骨に負ける日本武尊ではない」
「では、よく噛んで勝ってくださいませ」
夫が鼻で笑ったので、弟橘媛も口元を緩めた。二人がこのような話をできるのは、家来たちがまだ庭で荷縄を締め直している朝の間だけだった。やがて戸口から海風が入り、焼き魚と潮の匂いが混ざった。弟橘媛は食べ残した漬物を小さな木の蓋物へ入れ、船の上で誰かが腹をすかせたときに食べられるよう、布で包んだ。
走水の浜には、大小の船が何艘もつながれていた。日に干された縄は海藻のような匂いを放ち、砂の上では船乗りたちが帆の破れを縫っている。弟橘媛は旅装用の濃い紫の袴に着替え、髪を白い組紐で結んでいた。髪には母から譲られた木の櫛を挿していたが、櫛の歯は一本欠けている。幼いころ、庭で転んだ拍子に折ったものであり、母は捨てずに磨き直してくれた。弟橘媛が船へ乗ろうとすると、年若い船乗りが慌てて板を押さえた。
「足元にお気をつけください。朝露で滑ります」
「ありがとう。あなたは幾つですか」
「十六になりました。海へ出るのは、まだ七度目です」
「七度なら、わたくしより七度も多いのですね。頼りにしています」
「そ、そのように申されますと、腹が痛くなりそうです」
少年が困った顔をすると、近くにいた船頭たちが声を上げて笑った。日本武尊はすでに船首に立ち、対岸の方角を眺めていた。腰には草薙剣があり、黒い革帯には旅の埃が白くこびりついている。弟橘媛は夫の隣へ行き、帯の端がねじれているのを直した。日本武尊は周囲に家来がいるのを気にして体を硬くしたが、弟橘媛は構わず帯を引いた。
「動かないでください。これでは剣を抜くとき、袖に引っかかります」
「皆が見ている」
「皆さまも、尊が衣を一人で整えられないことくらいご存じでしょう」
「余計なことを申すな」
「昨日は履物を左右反対に置いておられました」
「それは従者の仕業だ」
家来たちは海の方を向きながら肩を揺らしていた。日本武尊は咳払いをし、弟橘媛の手を帯から離させたが、その指をすぐには放さなかった。弟橘媛は掌に残る夫の体温を確かめ、船縁のそばへ腰を下ろした。船底には昨夜積み込まれた米俵、干し肉、矢束があり、その隅に誰かが忘れた藁草履が片方だけ転がっていた。
船団が浜を離れたころ、海は青い布を広げたように静かだった。櫂が水へ入るたびに規則正しい音が響き、白い鳥が船の上を旋回していた。弟橘媛は蓋物から朝の漬物を取り出し、先ほどの少年へ一切れ渡した。少年は酸っぱそうに顔をしかめたあと、もう一切れ欲しいと言った。日本武尊はその様子を見ながら、腰につけていた小さな水筒を弟橘媛へ差し出した。
「そなたも飲め。海風に当たると喉が渇く」
「尊がお先に」
「私はよい」
「朝から味噌汁を二杯も召し上がった方が、何をおっしゃいます」
「見ていたのか」
「同じ膳で食べておりましたから」
穏やかな時間は長く続かなかった。沖へ進むにつれて空の色が鈍くなり、遠くから低い唸り声のような音が近づいてきた。風を含んだ帆が激しく鳴り、船底に転がっていた藁草履が波にさらわれた。弟橘媛の頬へ冷たい飛沫が打ちつけ、口の中に濃い塩味が広がった。船頭は帆を下ろせと叫んだが、若い船乗りの手が震え、結び目をうまく解けなかった。
「縄を切れ! そのままでは船が横を向くぞ!」
「刃物がありません!」
「こちらを使いなさい」
弟橘媛は懐から小刀を出して少年へ渡した。船が大きく傾き、積んでいた米俵が一つ、船縁へ滑った。日本武尊が俵を蹴り返し、家来たちに水をかき出すよう命じた。雨は細い針のように顔へ刺さり、皆の衣はたちまち重くなった。海面には幾つもの渦が生まれ、互いを追いかけるように船団を囲んだ。
「ただの嵐ではありません!」
船頭が濡れた髭を震わせて叫んだ。海神が怒り、道を塞いでいるのだという声が家来たちの間から上がった。日本武尊は船首に立ち、海へ向かって剣の柄を握ったが、斬るべき相手は姿を見せない。弟橘媛は髪に手を当て、ほどけかけた組紐を結び直した。指先が冷えて思うように動かず、母の櫛が一度抜けて甲板へ落ちた。
「海神であろうと、私の道は妨げさせぬ!」
「尊、おやめください」
「退くことはできぬ。東国を平らげよとの命を受けている」
「剣で海を従わせるおつもりですか」
「ならば、どうせよと申す!」
日本武尊の声は風に裂かれた。弟橘媛は拾った櫛を胸元へ差し、荒れる海を見渡した。別の船では帆柱が折れ、海へ投げ出された兵が縄につかまっている。朝に漬物を食べた少年は、小刀を握ったまま甲板へ伏せ、船頭がその背を押さえていた。ここで船団が沈めば、夫だけでなく、名も知らない船乗りや故郷へ帰るはずの兵まで海底へ引かれる。
弟橘媛は濡れた袖で顔を拭き、日本武尊の前へ進んだ。船が上下するたびに足の裏が甲板から離れそうになり、夫が腕をつかんで引き寄せた。その手は朝の膳を囲んでいたときよりも冷たかった。弟橘媛は夫の革帯についた白い埃が、雨に流されて筋になっているのを見た。
「尊は、上総へお渡りください。その先にも、尊を待っている者がおります」
「そなたも共に行くのだ」
「わたくしが海神の御心を鎮めます」
「何を申している」
「この海へ入ります」
「許さぬ!」
日本武尊は弟橘媛の腕を強く引いた。革の籠手が濡れた肌に食い込み、赤い跡を残した。弟橘媛は痛みに眉を寄せたが、夫の手を振りほどかなかった。船の隅では、割れた水筒から水が少しずつ流れ出し、海水と混じっていた。朝、二人で飲んだものと同じ水だと思うと、弟橘媛はその小さな流れから目を離せなくなった。
「尊、覚えておられますか。相模の野で火に囲まれた日のことを」
「今は昔話をしている場合ではない」
「あの日、尊は草を薙ぎ、火をこちらへ返しました。わたくしは煙の中で、尊が必ず戻ってくると信じて待っておりました」
「だから、今度は私がそなたを守る」
「いいえ。今度は、わたくしの番です」
「そのような番などない!」
「ございました。ずっと、ございました」
弟橘媛は夫の指を一本ずつ自分の腕から外した。日本武尊は何度もつかみ直そうとしたが、船が激しく揺れ、家来たちが倒れた帆柱を支えてくれと叫んだ。弟橘媛は薄紅色の上衣を脱ぎ、濡れた甲板へ丁寧に置いた。その上に紫の袴、白い小袖を重ね、海神へ差し出す畳のように整えた。肌に当たる風は冷たく、潮と濡れた縄と、誰かが吐いた胃の中の酸っぱい匂いが入り混じっていた。
「媛、やめよ。命令だ」
「朝の鯵に骨が残っていたことも、履物を左右反対に置いたことも、わたくしは忘れません」
「その話を今するな」
「忘れないために申し上げているのです」
「戻れ。戻ってこい」
「尊も、よく噛んでお食べください。急いで召し上がる癖は、直してくださいませ」
弟橘媛は母の櫛を抜いた。濡れた髪が肩へ落ち、海風にあおられて頬へ貼りついた。櫛を夫へ渡そうとしたが、日本武尊は受け取らず、両手で彼女の手を包んだ。弟橘媛は欠けた歯を親指でなぞり、それを夫の帯へ差し込んだ。
「これは、そなたが持っていなければならぬ」
「尊が持っていてください。わたくしは、もう髪を結いませんから」
「そのようなことを言うな」
「どうか、東の国々をご覧ください。そこに暮らす者が、何を食べ、どのような家で眠り、何に困っているのかをご覧ください。勝ったという知らせだけを、大王へお持ち帰りになりませんように」
「そなたが隣で申せ。私一人では忘れる」
「でしたら、櫛を見るたび思い出してくださいませ」
弟橘媛は夫の胸へ額をつけた。濡れた衣の向こうから、速い鼓動が伝わってきた。日本武尊の肩には旅の間にできた古い傷があり、雨に濡れると痛むことを彼女は知っている。朝になれば平気な顔で剣を振るうことも、甘い木の実が好きなのに家来へ譲ってしまうことも、眠るときだけ少年のように眉間の皺が消えることも知っていた。
「尊。どうか、生きてください」
「嫌だ。そなたも生きよ」
「では、わたくしの分まで、朝餉を召し上がってください」
「媛!」
弟橘媛は夫の胸を両手で押し、海へ身を投じた。冷たい水が耳と鼻へ入り、上も下も分からなくなった。白い泡の向こうで日本武尊が船縁から身を乗り出し、家来たちに抱き止められている。弟橘媛は最後に一度だけ水面へ顔を出し、夫の声を聞いた。返事をしようと口を開くと塩水が入り、声の代わりに小さな泡がこぼれた。
荒れ狂っていた波は、弟橘媛の姿を飲み込むと、少しずつ高さを失った。黒い雲の間から細い光が差し、破れた帆の端を照らした。船頭たちは櫂を握り直し、海へ落ちた兵を引き上げた。朝に漬物を食べた少年は甲板へ座り込み、弟橘媛から借りた小刀を両手で抱えていた。日本武尊は船首に膝をつき、帯へ差された櫛を握ったまま動かなかった。
「尊、風が変わりました。上総へ向かえます」
船頭が声をかけても、日本武尊は答えなかった。足元には弟橘媛が脱いだ薄紅色の上衣が残り、雨水を吸って重くなっていた。彼はそれを拾い、泥や魚の鱗がついたまま胸へ抱えた。布からは香油の匂いがわずかに残り、その奥に朝の焦げた葱と潮の匂いが染みついていた。
「漕げ」
やがて日本武尊は立ち上がった。声は掠れていたが、船頭たちには聞こえた。櫂がそろって海へ入り、船団は静かになった水面を進んだ。日本武尊は対岸を見ようとしたものの、何度も振り返り、そのたびに何も浮かんでいない海を見つめた。
七日後、海辺に一本の櫛が流れ着いた。家来が拾い上げると、日本武尊は砂を払い、欠けた歯を親指で確かめた。帯に差してあったはずの櫛と同じ形だったが、それが本当に弟橘媛のものかどうか、誰にも分からなかった。浜では漁師の妻が網にかかった小魚を籠へ移し、近くの子どもが貝殻を拾って母親に叱られていた。いつもの暮らしが目の前で続くなか、日本武尊は流れ着いた櫛を布に包んだ。
「ここに墓を造る」
「御身体を納めることはできませぬが」
「よい。媛が身につけたものを納める」
「墓の名はいかがいたしましょう」
「橘の名を残せ。海を渡る者が、媛を忘れぬように」
墓ができた夜、日本武尊は火のそばに座り、冷えた麦飯を食べた。干し肉は固く、何度噛んでも繊維が歯の間に残った。家来が温かい汁を用意すると申し出たが、彼は首を振り、弟橘媛が包んでいた最後の漬物を少しずつかじった。酸味が舌へ広がると、船の上で困った顔をした少年と、それを見て笑った妻の声が耳の奥によみがえった。
「尊、もうお休みください」
「まだよい」
「明日も長い道のりでございます」
「分かっている」
「では、せめて上衣をお召しください。夜露で肩が冷えます」
「媛も同じことを申したであろうな」
家来は答えず、火へ枯れ枝を足した。日本武尊は薄紅色の衣を肩へ掛け、墓の方角を見た。彼は櫛の入った布包みへ手を置き、いつものように急いで飯を飲み込もうとしたが、途中で箸を止めた。固い麦を一口ずつ噛み、喉へ落ちたことを確かめてから、次の飯を口へ運んだ。
「媛。今度は、骨を残していないぞ」
返事はなかった。浜を洗う波の音と、漁師の家で干された衣が風にはためく音だけが聞こえた。日本武尊は空になった椀を膳へ置き、妻の衣の袖口から出ていた糸を見つけた。それを切らずに指へ巻きつけ、火が小さくなるまで、何度もほどいては巻き直していた。




