波の敷物 弟橘媛
波の敷物
胸の奥がぎゅっと縮こまるような重みを感じながら、弟橘媛は麻の小袖の胸元を右手で何度も掻き合わせた。浜辺の仮小屋の中には、昨日焼いて残った干し鰈の生臭い匂いと、薪のくすぶった煙が充満していて、板敷きの隅には泥のついた草履が脱ぎ散らかされている。昨晩の残りの冷えた麦飯を丸めた握り飯を眺めながら、彼女は東征の旅に出てから夫が一度も食事の味を褒めてくれなくなったことを思い出し、旅の終わりが遠いことばかりを考えていた。
「朝餉の握り飯、まだ塩が足りなかったかしら」
ヤマトタケルは革の胸当ての紐を乱暴に結び直すと、床に落ちていた干し魚の骨をつまんで外へ放り投げた。薄暗い小屋の隙間から差し込む朝の光が、武具の鉄錆と油の混ざった埃っぽい空気を白く照らし出し、外からは荒波が砂利を削るごうごうという音が絶え間なく響いている。この人はいつも出陣の前に同じように首の筋を鳴らす癖があるのだと気づいた彼女は、父の宮で教わった機織りの歌を心の中で口ずさみながら、夫の苛立ちを少しでも鎮めようとした。
「そんなに睨まないでくださいませ。出航の前に、少しでも腹を満たしておかねば持ちませんよ」
走水と呼ばれる海峡の前に立つと、冷たい潮風が頬を叩き、喉の奥に塩辛い苦味が張り付いた。鉛色の空の下で海面は黒くうねり狂っており、浜辺に干された漁師たちの破れた網が風にあおられて激しくばたばたと音を立てている。夫が海神を侮る言葉を吐き捨てた瞬間、彼女は着物の裾を握り締め、彼が幼い頃に母を亡くして以来、決して誰にも弱音を吐かない質であることを思い出していた。
「我が君、海を侮ってはなりません。この波の荒れ方は、ただの風のせいではございません」
指先が氷のように冷たく強張っていくのを自覚しながら、弟橘媛は船の甲板に積まれた八重の菅畳と敷皮の匂いに鼻を近づけた。船板を叩く大波がしぶきを上げ、茜色に染めた麻の着物の裾をぐっしょりと重く濡らして足首に絡みついてくる。この荒れ狂う海を鎮めて夫を先へ進ませる方法はひとつしかないと悟った彼女は、都を出る朝に妹が髪に挿してくれた柘植の櫛の手触りを手のひらで確かめた。
「私が我が君の身代わりとなって、海の中へ入りましょう。どうか東の国を平らげて、無事にお戻りください」
激しい水音が耳を塞ぎ、喉元まで吹き付ける波飛沫の冷たさが全身の感覚を奪っていった。海の中へ敷かれた菅畳と皮の敷物は大きな渦を巻いて沈み、荒れ狂っていた風は嘘のように弱まり、波打ち際の水面が鏡のように穏やかに凪いでいく。船上に残されたヤマトタケルは、妻が落としていった櫛を震える指で拾い上げ、彼女が毎晩小屋の灯りの下で繕ってくれた衣の継ぎ目を思い出しながら、静まった水平線をいつまでも見つめていた。
「お前は、いつも私の先回りばかりをするのだな。吾妻はや、我が妻よ」




