八田皇女――八田若郎女の白き衣
八田皇女――八田若郎女の白き衣
八田皇女は、朝の冷えた空気が御簾の隙間から入り込むたび、白い麻の上衣の襟を指で寄せた。庭では女官たちが昨夜の雨に濡れた筵を干しており、湿った土と焚き木の煙が混じった匂いが部屋まで届いていた。膳には粟の粥、塩漬けの菜、焼いた川魚が並んでいたが、八田皇女は粥を二口すすっただけで箸を置いた。今日は大鷦鷯尊が訪ねてくると聞いていたため、胸の内が落ち着かず、いつもなら気にならない魚の小骨まで舌に触るような気がした。
「皇女様、もう少し召し上がりください。お顔の色が白すぎます」
女官の小竹が、冷めかけた粥の椀を八田皇女の前へ戻した。小竹は世話好きで、八田皇女が食事を残すと、自分まで空腹になったような顔をする。八田皇女は粥の表面に張った薄い膜を箸の先で破りながら、大鷦鷯尊が来る理由を考えた。
「兄上は、何をお話しになるのでしょう」
「それを私にお尋ねになりますか。皇子様のお心など、庭の雀より分かりません」
「雀なら、米をまけば寄ってきます」
「では皇子様にも、米をまいてみますか」
八田皇女は思わず声を立てて笑い、ようやく粥をもう一口食べた。小竹は真面目な顔で焼き魚を裏返していたが、口元だけは笑っていた。こういう本筋とは関係のない話をしている間だけ、八田皇女は自分が皇女ではなく、朝餉を残して叱られている普通の娘になれた。けれど廊下を急ぐ足音が聞こえると、彼女の指は止まり、粥の椀から上がる湯気だけが二人の間で揺れた。
大鷦鷯尊は、濃い青の衣に黒い帯を締め、雨上がりの庭を歩いてきた。草履の端には泥がついており、従者が拭こうとすると、彼は手を振って先へ進んだ。八田皇女は兄である彼を幼い頃から知っていたが、皇位に近づくにつれて、その背中には以前にはなかった重さが加わっているように見えた。大鷦鷯尊は部屋へ入ると焼き魚の匂いに気づき、少しだけ眉を上げた。
「朝餉の途中であったか」
「もう終わりました」
「魚が半分も残っている」
「小骨が多いのです」
「昔は骨まで噛み砕きそうな勢いで食べていたではないか」
「兄上は昔の話ばかりなさいます。私がいつまでも子どものままだと思っておられるのですね」
大鷦鷯尊は返事をせず、八田皇女の向かいへ腰を下ろした。彼の袖からは雨と馬の汗の匂いがし、腰には長い道を急いできたらしい細かな泥が跳ねていた。小竹が新しい湯を運んできたものの、緊張して器を畳へ少しこぼした。八田皇女が布を取ろうとすると、大鷦鷯尊が先に自分の袖で湯を拭いた。
「まあ、皇子様。そのようなことをなされては、衣が染みになります」
「湯の染みくらい、洗えば落ちる」
「私の仕事が増えます」
「それは済まぬ」
小竹が遠慮なく言い返したため、八田皇女は目を丸くした。大鷦鷯尊も一瞬驚いたあと、喉の奥で笑った。高貴な身分の者に仕える部屋でありながら、洗濯の苦労を訴える声が普通に飛び交うことが、八田皇女にはありがたかった。小竹が濡れた布を抱えて退出すると、大鷦鷯尊は膝の上で両手を組み、庭の梢へ目を向けた。
「八田。私はおまえを迎えたい」
その言葉を聞いても、八田皇女はすぐに返事をしなかった。庭の榊から落ちた雫が、石の水鉢へ何度も小さな音を立てていた。大鷦鷯尊には、すでに磐之媛という強い心を持つ妃がいることを八田皇女は知っていた。誰かの暮らしの中へ自分が入れば、衣を一枚重ねるように簡単には収まらず、食事の席も眠る場所も、女官たちの立ち位置さえ変わってしまう。
「それは、兄として私を守るという意味ではございませんね」
「違う」
「磐之媛様は、何とおっしゃいますか」
「まだ話しておらぬ」
「では、私からお答えすることはできません」
「私の望みだけでは足りぬのか」
「足りません。兄上は多くの人の上に立つお方です。ご自分の望みだけで一人の女を迎えれば、その後始末をするのは、いつも声の小さい者たちです」
大鷦鷯尊の顔から笑みが消えた。八田皇女は自分の膝に置いた手を見つめ、爪の脇に残っていた朝の香油を親指でこすった。幼い頃の兄なら、欲しい弓や馬を手に入れれば満足していたが、今の彼が望むものには国中の人間が巻き込まれる。八田皇女は喉の奥に残る粥の塩気を飲み込み、顔を上げた。
「私を大切にしてくださるとおっしゃるなら、私の返事を急がせないでください」
「いつまで待てばよい」
「磐之媛様とお話しになるまでです」
「会えば、拒まれるかもしれぬ」
「だから話さないというのは、子どもの言い分です」
「先ほど、子ども扱いするなと言ったのは誰だ」
「私です。兄上まで子どもでよいとは申し上げておりません」
大鷦鷯尊は困ったように額を押さえ、それから肩を揺らして笑った。その声につられて、廊下で聞き耳を立てていたらしい小竹がくしゃみをした。八田皇女が御簾の向こうを見ると、小竹は濡れた布と洗う前の衣を山ほど抱え、何事もなかったような顔で通り過ぎようとしていた。
「小竹、そこで何をしているのです」
「洗濯物の数を数えておりました」
「今のくしゃみは何です」
「布が多すぎて、鼻まで疲れたのでございます」
「そのような鼻があるものですか」
「皇女様と皇子様がお話を長引かせるほど、私の仕事は増えます。早く決めていただければ助かります」
八田皇女は頬が熱くなるのを感じ、そばにあった扇で顔を隠した。大鷦鷯尊は立ち上がると、小竹の抱えた衣の上から自分の汚れた上衣まで置こうとしたため、小竹に強く断られた。皇子と女官が洗濯物を巡って言い争う光景を眺めながら、八田皇女は朝から手をつけられなかった焼き魚を箸でほぐした。魚はすっかり冷めていたが、皮にはまだ炭火の香ばしさが残っていた。
数日後、八田皇女は磐之媛と会うため、宮へ向かった。淡い藤色の裳に白い上衣を重ね、髪には香りの強すぎない椿油を使った。牛車の中には小竹が持たせた干し栗の包みが置かれており、緊張したら一つ食べるように言われていた。八田皇女は包みを開け、硬い栗を噛みながら、外を流れる人々の話し声と車輪が土を踏む音を聞いた。
磐之媛は、朱色の衣をまとって八田皇女を迎えた。彼女の部屋には、縫いかけの衣と数枚の布が置かれ、隅には乾かしている薬草が束ねて吊るされていた。威厳のある女性だと聞いていたが、磐之媛の指には糸で擦れた跡があり、膳には食べかけの芋が一つ残っていた。八田皇女はその生活の跡を見て、ここにも自分と同じように、食事をし、衣を繕い、夜には髪をほどく一人の女性がいるのだと知った。
「私を恐れているのですか」
「はい」
八田皇女が正直に答えると、磐之媛は少し目を細めた。部屋の外では、干していた薬草を女官が落とし、慌てて拾い集めていた。磐之媛はその様子を見てため息をつき、自分の膳に残っていた芋を半分に割って八田皇女へ差し出した。
「食べますか。今朝蒸したものですが、もう冷めています」
「いただきます」
「皇女ともあろう方が、冷めた芋を召し上がるのですか」
「今朝は干し栗も食べました。硬くて顎が痛くなりました」
「それなら、この芋は柔らかいのでちょうどよいでしょう」
二人は向かい合って冷めた芋を食べた。芋にはわずかな土の匂いが残り、舌の上でゆっくり甘みが広がった。八田皇女は大鷦鷯尊に望まれたことも、自分だけが喜べばよいとは思えなかったことも、言葉を選びながら磐之媛へ話した。磐之媛は途中で何度も口を挟み、あの方は昔から勝手だ、雨の日でも馬を走らせる、脱いだ衣をきちんと畳まないと、国のこととは関係のない不満まで並べた。
「皇子様は、ご自分で衣を畳まれないのですか」
「畳みません。しかも泥のついたものを乾いた衣の上へ置きます」
「それは小竹も怒ります」
「小竹とは、あなたの女官ですか」
「はい。洗濯物のことになると、皇子様にも容赦いたしません」
「今度、私のところへ貸してください」
「それは困ります。私の朝餉がなくなります」
磐之媛が初めて声を上げて笑った。八田皇女も芋の欠片を喉に詰まらせそうになり、二人で慌てて湯を飲んだ。すべてが丸く収まったわけではなく、これから怒りや争いが起こらないという約束もなかった。それでも八田皇女は、誰かに黙って運ばれるのではなく、自分の足でここへ来て、自分の口で話せたことを確かめるように、空になった器へ両手を添えた。
帰りの牛車へ乗る前、磐之媛は八田皇女を呼び止めた。夕方の風が二人の袖を揺らし、宮の台所からは煮た豆と焼いた肉の匂いが漂っていた。磐之媛は何かを言いかけてから、八田皇女の藤色の裳についた糸くずを指で取った。八田皇女はその手つきを見つめ、急がずに次の言葉を待った。
「あなたを恨まないとは約束できません」
「はい」
「けれど、あなたのいないところで、あなたの一生を決めさせるつもりもありません」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いでしょう。あの方には、私から言いたいことが山ほどあります」
「できれば、衣を畳むことも教えて差し上げてください」
「それは国を治めるより難しいかもしれません」
八田皇女は牛車へ乗り込み、御簾の隙間から磐之媛へ頭を下げた。膝の上には、帰りに食べるよう渡された蒸し芋の包みがあり、隣では小竹が干し栗を勝手につまんでいた。空には雨雲が残っていたが、西の端には細い夕日の色が見えていた。八田皇女は白い上衣の袖を整え、自分のこれからを誰か一人の望みだけには預けないと決めた。
「小竹、その栗は私のものではありませんでしたか」
「皇女様は芋をいただいたのでしょう」
「それとこれとは別です」
「では、半分差し上げます」
「もう一つしか残っていません」
「きれいに半分へ割れば、争いにはなりません」
八田皇女は硬い栗を受け取り、小竹と半分ずつ食べた。噛むたびに小さな音がし、二人の歯が同時に痛くなったため、顔を見合わせて笑った。牛車は夕餉の煙が立ち始めた道をゆっくり進み、八田皇女はその揺れの中で、明日は小竹と一緒に柔らかい粟餅を作ろうと考えた。そして次に大鷦鷯尊が来たときには、冷めた魚を前に難しい話をするのではなく、三人で温かいものを食べながら続きを話そうと思った。




