軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)
軽大娘皇女
朝の宮には、まだ夜明けの冷たさが残っていた。軽大娘皇女は薄紅の上衣に淡い青の裳を重ね、髪を整えてもらいながら、膳の上に置かれた粟飯を箸で少しずつ崩していた。味噌の代わりに魚の煮汁で味をつけた汁から湯気が立ち、焼いた鯵の皮からは香ばしい匂いが漂っていたが、皇女の箸は魚の身をほぐすばかりで、口へ運ぶことはなかった。
「皇女さま、冷めてしまいますよ」
侍女の阿佐が声をかけると、軽大娘皇女は魚の骨を小皿の端へ丁寧に寄せた。昨夜から何度も同じことを考えていたため、眠りが浅く、目の下には薄い影が残っている。それでも鏡を見ると髪の乱れを指で直し、いつものように背筋を伸ばした。
「食べます。阿佐、あなたも座って食べなさい」
「私は後でいただきます」
「またそれを言う。私が一人で食べるのは嫌なのです」
阿佐が困ったように笑い、皇女の向かいに腰を下ろした。二人で箸を動かすと、さっきまで広く感じられた膳の間に小さな音が戻ってくる。軽大娘皇女は粟飯を一口食べ、固い米粒をゆっくり噛みながら、庭から聞こえる鳥の声に耳を澄ませた。
「今日は、父上のお側へ参ります」
「大王さまに、何かお話しになるのですか」
「ええ。聞かなければならないことがあります」
その言葉を口にした途端、皇女は箸を止めた。父の宮へ続く廊下には、朝露を含んだ草の匂いが入り込み、柱には昨夜の雨の湿り気が残っている。軽大娘皇女は袖口を整えながら、幼いころ父に連れられて庭を歩いた日のことを思い出した。
あの頃は、父の手を握れば何も怖くなかった。大きな手に包まれた自分の指を見て、「大王になる人の手は大きいのだ」と子ども心に思ったものだった。けれど今は、その手が自分の運命を決める側にあることを知っている。
「阿佐」
「はい」
「もし私が、父上のお考えと違うことを言ったら、どうなるのでしょう」
阿佐はすぐには答えなかった。茶を注ぐために土器の壺を持ち上げ、皇女の椀へ温かい茶を満たしてから、静かに口を開いた。
「皇女さまが、ご自分のお考えをお話しになるだけなら、何も悪いことではございません」
「そうでしょうか」
「はい。ただ……宮の中では、言葉が思ったより遠くまで届きます」
軽大娘皇女はその意味を考え、茶の表面に浮かんだ小さな泡を見つめた。誰かに聞かれるかもしれない、誰かが別の意味に受け取るかもしれない、それでも黙っていれば何も変わらない。皇女は椀を両手で包み、立ち上がった。
「では、遠くまで届く言葉を選びます」
父の宮へ向かう途中、廊下の端に洗った衣が干されているのが見えた。白い布が風に揺れ、まだ乾ききっていない布から水の匂いがする。皇女は足を止め、衣の裾が柱に触れているのを見つけると、手を伸ばしてそっと直した。
「皇女さま、そこまでなさらなくても」
「こういうものは、気づいた者が直せばよいのです」
阿佐が笑うと、軽大娘皇女も少しだけ口元を緩めた。大王の娘であっても、濡れた衣を直すことくらいはできる。そんな当たり前のことを考えていると、父の宮から男たちの低い話し声が聞こえてきた。
軽大娘皇女は足を止めた。中からは、国のこと、氏族のこと、そして皇族の婚姻について話す声が聞こえてくる。自分の名が出たわけではないのに、胸の奥がざわつき、皇女は袖の中で指を組み直した。
「皇女さま、お入りになりますか」
「ええ」
軽大娘皇女は一度だけ深く息を吸った。香油をつけた髪から、ほんのりと椿の匂いがした。
「父上に、直接お尋ねします」
扉が開くと、何人もの男が一斉にこちらを見た。軽大娘皇女は視線を逸らさず、裳の裾を踏まないように歩き、父の前まで進んで静かに頭を下げた。
「父上、お話がございます」
大王は皇女をしばらく見つめてから、手にしていた木簡を置いた。
「軽大娘か。何を聞きたい」
皇女はすぐには答えなかった。幼いころなら父の顔を見ただけで安心できたのに、今はその顔の向こうに大王としての判断があることを知っている。だからこそ、ここで口を閉じるわけにはいかなかった。
「私は、私のことを、私のいないところで決めてほしくありません」
部屋の中から、衣擦れの音が消えた。軽大娘皇女は手のひらに爪が食い込むのを感じながら、それでも頭を下げなかった。
「私にも、聞く権利をください」
大王はすぐには答えなかった。やがて窓から朝の光が差し込み、木簡の文字を白く照らした。
「……よく言った」
その一言を聞いて、皇女は初めて肩の力を少し抜いた。けれど、これで何も決まったわけではないことも分かっている。宮の外では風が強くなり、干されていた衣が大きくはためいていた。
軽大娘皇女は父の前から退き、廊下へ出た。阿佐が待っているのを見つけると、皇女は小さく息を吐き、朝食の残りを思い出した。
「阿佐」
「はい」
「戻ったら、冷めた粟飯でも食べましょう」
「まあ、皇女さま」
「魚も残っています。捨てるのはもったいないでしょう」
二人の間に笑い声がこぼれた。宮の奥ではまだ男たちの話し合いが続いていたが、軽大娘皇女は歩みを止めなかった。
自分の人生が誰かの木簡に書かれた文字だけで決まるのなら、その文字を読むのも、自分の言葉を書き加えるのも、自分でありたい。そう思いながら、皇女は朝の風を受けて揺れる袖を押さえ、まだ温かさの残る宮の奥へ戻っていった。




