手白香皇女
手白香皇女
欽明天皇の時代より少し前、まだ大和の国に朝廷の力が今ほど強く及んでいなかったころ、葛城の地には朝の霧がよく降りていた。手白香皇女は、御殿の縁に座り、薄桃色の衣の袖口を指先で整えながら、庭の萩を眺めていた。秋の朝は冷えていて、侍女が運んできた湯気の立つ粟粥から、米と生姜の匂いが漂ってくる。
「皇女さま、もうお召し上がりになられませんか」
侍女の麻呂女が椀を差し出すと、手白香は小さく首を振ったが、しばらくしてから匙を取り上げた。粟粥は少し冷めており、口に入れると生姜の辛みが舌に残ったが、手白香は二口、三口とゆっくり食べた。食事を残せば、侍女たちが気を遣うことを知っていたからである。
「温かいうちに食べるべきでしたね」
「今朝はお早かったですから」
「そうでしたね。父上がお見えになる前に、髪を結ってもらわなければなりませんでした」
麻呂女が笑いながら黒髪を梳くと、櫛の歯が髪を通るたびに小さな音がした。手白香は鏡代わりの磨かれた銅板を覗き込み、頬に残った紅を指でそっと拭った。父の大臣が朝から何度も使者を呼んでいることを思い出すと、胸の奥が落ち着かず、食べかけの粥へ目を戻した。
その日の昼近く、御殿には見慣れない男が訪れた。男は大和の朝廷から来た使者で、土埃のついた衣を着ていたが、腰に帯びた太刀だけは手入れが行き届いていた。手白香は麻呂女に髪の乱れを直してもらい、濃い紅色の上着を重ねると、父のいる広間へ向かった。
「手白香、こちらへ来なさい」
父の声はいつもより低かった。広間には父のほかに数人の臣下が座り、端には使者が頭を下げていたので、手白香は敷物の上に膝をそろえて座った。
「大和から、婚姻の申し入れがあった」
「婚姻、ですか」
手白香が聞き返すと、父は一度だけ目を伏せた。広間の隅では、香炉から沈香の煙が細く上がっており、外からは庭を掃く箒の音が聞こえていた。
「相手は、継体天皇の皇子、ヲホド王の血を引く方だ」
「それは……私が決められることなのでしょうか」
父はすぐには答えなかった。代わりに、使者が深く頭を下げた。
「皇女さまのお心を無視して進めるつもりはございません。ただ、大和では王統をめぐる争いが続いております。皇女さまのお血筋は、国を結ぶうえで大きな意味を持ちます」
手白香は膝の上で重ねた指をゆっくり握った。自分の生まれた家も、母から受け継いだ血筋も、自分だけのものではないと幼いころから教えられてきたが、その言葉を目の前に突きつけられると、胸元に掛けた勾玉が妙に重く感じられた。
「私は、その方のお顔を知りません」
「会えばよい」
「会って、話をして、それから決めることはできますか」
父は少し驚いた顔をしたあと、口元を緩めた。
「お前は昔から、黙って頷く娘ではなかったな」
「父上がそう育てたのでしょう」
広間の臣下から小さな笑い声が漏れた。父も笑ったが、その笑いは長く続かなかった。
数日後、手白香は大和へ向かうことになった。輿に乗る前、侍女たちは何枚もの衣を重ね、紅葉色の袴に白い上着、淡い紫の帯を合わせた。手白香は旅装の袖に香を焚きしめてもらい、麻呂女から包みを渡されると、中に焼いた干し栗が入っていることに気づいた。
「こんなものまで持たせるのですか」
「皇女さまは道中でお腹が空くと機嫌が悪くなりますから」
「私はそんなに分かりやすいですか」
「はい」
麻呂女が即答したので、手白香は思わず笑った。笑いながら干し栗を一つ取り出し、歯で割ると、香ばしい甘さが口の中に広がった。
「では、機嫌が悪くならないように食べておきます」
「それが一番でございます」
旅の途中、山道には湿った土の匂いが立ち込めていた。車輪が小石を踏むたびに輿が揺れ、手白香の髪に挿した木の簪が何度も肩へ触れた。昼には川辺で休み、持ってきた干し飯に味噌を少しつけて食べたが、麻呂女が包みを開くと、潰れた柿が一つ転がり出てきた。
「これは誰が入れたのですか」
「私ではありません」
「では、誰でしょう」
「皇女さまのお母上ではありませんか」
手白香は柿を手に取り、柔らかくなった皮を指で撫でた。母が旅立つ娘のために、こっそり入れてくれたのだろうと思うと、さっきまで遠かった故郷が急に近く感じられた。
「食べましょう」
「潰れておりますが」
「母上がくださったものですから」
甘い柿を口に含むと、果汁が指へ垂れた。手白香は笑いながら袖で拭い、麻呂女に叱られた。
「皇女さま、その袖は新しいものですよ」
「知っています」
「知っていて拭ったのですか」
「はい」
「もう……」
二人の笑い声が川辺に響いた。
大和に着いた日の夕方、手白香は初めて相手の王に会った。広間に現れた男は、派手な衣を着ているわけではなく、深い青の上着に黒い帯を締めていた。顔立ちは穏やかで、座る前に手白香へ一礼した。
「手白香皇女、お疲れでしょう」
「はい。輿が思ったより揺れました」
男は少し笑った。
「私も馬に乗ると尻が痛くなります」
「王もですか」
「王だから丈夫なわけではありません」
手白香は思わず笑った。緊張していた肩から力が抜け、隣にいた麻呂女がほっとしたように息を吐いた。
食事の席では、焼いた魚、山菜の煮物、栗入りの飯が並べられた。手白香が魚の骨を丁寧に外していると、男がそれを見て言った。
「魚がお好きですか」
「好きですが、骨が多い魚は苦手です」
「私もです」
「王なのに?」
「王でも骨は喉に刺さります」
手白香はまた笑った。二人の間に置かれた汁椀から立つ湯気には、味噌と山椒の香りが混じっていた。
その夜、手白香は用意された部屋で一人になった。畳まれた衣の上には、母が持たせてくれた柿の皮が小さな籠に置かれていたので、手白香はそれを見つめながら髪を解いた。遠くから虫の声が聞こえ、燭台の油が減るにつれて炎が小さくなった。
「私は、この国へ来るのね」
誰もいない部屋で呟くと、自分の声が妙に近く聞こえた。ここから先、何が起こるのかは分からないが、今日会った男が魚の骨を嫌っていたことだけは、なぜかよく覚えていた。
翌朝、手白香は結婚を受け入れると父へ伝えた。政治のためだけに決められた縁であっても、会話を交わし、食事を共にすれば、人の顔は少しずつ見えてくると考えたのである。
「後悔はしないか」
父が尋ねた。
「分かりません」
「分からないのに決めるのか」
「分からないから、見てみたいのです」
父はしばらく黙ったあと、頷いた。
「それがお前の答えなら、それでよい」
こうして手白香皇女は大和の王と結ばれた。やがて二人の間には皇子が生まれ、その子は後に欽明天皇となって、大和の王統をつないでいくことになる。
けれど、その後の長い歴史を、手白香はまだ知らない。彼女が知っていたのは、朝になると麻呂女が髪を梳かし、粟粥の鍋から湯気が上がり、庭では誰かが箒を動かしていることだった。
ある朝、夫が食事の席で魚の骨を器用に取り除いているのを見て、手白香は思わず笑った。
「やはり、骨は苦手なのですね」
「覚えていましたか」
「ええ。私も覚えています」
「では、今日から骨の少ない魚を用意させましょう」
「それでは私だけ得をするではありませんか」
「夫婦なのですから、それでよいでしょう」
手白香は箸を置き、湯気の向こうにいる夫を見た。窓から差し込む朝の光が、銀色の器を照らしていた。
「では、明日は栗の飯にしてください」
「栗ですか」
「故郷を思い出しますから」
「分かりました」
その返事を聞いた手白香は、冷めないうちに味噌汁を口へ運んだ。山椒の香りが鼻へ抜け、温かな汁が喉を通っていくのを感じながら、彼女は新しい国での朝を迎えた。




