箸墓の姫 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
箸墓の姫
倭迹迹日百襲姫命が朝餉の膳に手をつけなくなったのは、三輪山から冷たい風が吹き下ろした朝だった。姫は茜で染めた上衣に白い領巾を重ね、黒髪を麻紐でゆるく束ねていたが、いつもなら好んで食べる粟の粥も、炙った鮎も冷めたままになっていた。膳の隅には山椒の若葉を刻んだ塩が置かれ、その青い匂いだけが部屋に残っている。侍女の小夜は粥の表面に張った薄い膜を箸でそっと破り、姫の横顔をうかがった。
「姫様、せめて粥を三口だけでも召し上がってください。昨日も干し柿を半分しか召し上がりませんでした」
百襲姫は返事をせず、窓から遠くの空を見た。長く続いた争いによって田は荒れ、村々では同じ一族の者までが刃を向け合い、大和の国は鎮まる場所を失っていた。崇神天皇は祭祀を整えようとしていたが、疫病に倒れる者は減らず、夜になると宮の門前へ助けを求める母親たちが集まった。百襲姫は幼い頃、雨漏りする屋根の下で母が濡れた敷物を取り替えていた姿を思い出し、目の前の豪華な膳よりも、粥の一椀さえ得られない家々のことを考えた。
「小夜、この粥は門の外にいる子へ持っていってください。冷めていても、何もないよりはよいでしょう」
その日の昼、百襲姫は宮中の広間へ呼ばれた。床には細かな砂が入り込み、隅に置かれた箒は穂先がすり減っていたが、集まった男たちは誰も気に留めず、地図代わりの木板を囲んで声を張り上げていた。崇神天皇は濃い紫の上衣を着ていたものの、帯は一度結び直した跡があり、眠れない夜が続いていることを隠せていなかった。百襲姫は香油の匂いがこもる席に座り、荒れた土地を力だけで治めようとすれば、さらに多くの血が流れると考えた。
「兵を増やすべきです。従わぬ者には、王の力を見せねばなりません」
「兵が疫病を追い払えるのですか。刃を田に突き立てても、稲は実りません」
広間が静かになると、外で土器の割れる音がした。下働きの少年が水を運ぶ途中で転び、空になった甕の破片を慌てて拾っていた。百襲姫は男たちの間を抜け、少年の指から血が出ているのを見ると、自分の白い領巾の端を裂いて巻いた。少年は何度も頭を下げたが、百襲姫は甕の破片を一つ拾い、割れたものを叱っても水は戻らないと考えた。
「新しい甕を一つ、この子に持たせてください。それから、井戸までの道に敷かれた石を直しなさい。転ぶ者を責める前に、転ばせる道を改めるのです」
その夜、百襲姫は夢を見た。三輪山の麓に白い衣をまとった男が立ち、山の木々を背負うようにして、国を鎮める方法を告げた。目を覚ますと、灯明の油は燃え尽き、枕元に置いた糸巻きが床へ転がっていた。隣室では小夜が寝息を立て、そのそばには昼間に繕いかけた姫の裳が広げられ、赤い糸の通った針が布に刺したままになっていた。
「大物主大神を祭りなさい。この国が荒れているのは、人が神の声を聞かず、自分の力ばかりを信じたからです」
翌朝、百襲姫が夢の内容を伝えると、崇神天皇はすぐには答えなかった。天皇の膳には焼いた雉の肉と蒸した里芋が並んでいたが、雉の皮は固くなり、里芋には箸をつけた跡もなかった。臣下たちは女の夢に国の行く末を任せるのかと目を伏せたが、天皇は百襲姫の前に置かれた空の椀を見て、彼女が自分のために語っているのではないと悟った。やがて大物主大神を祭る者が定められ、祭祀が行われると、国を覆っていた騒ぎは少しずつ鎮まっていった。
「そなたがいなければ、私は兵を送り続けていただろう」
「私が見たのは道だけです。歩くのは、民と大王でございます」
国に田植えの歌が戻る頃、百襲姫のもとへ夜ごと一人の男が通うようになった。男は大物主大神であり、人の姿を借りて現れたが、決して夜明けまで姿を見せなかった。百襲姫は山吹色の上衣に着替え、夕餉には麦飯と蕪の汁、鹿肉を煮たものを用意させたものの、男はほとんど食べず、土器の杯で水を一口飲むだけだった。小夜は毎朝、二人分の敷物を干しながら、片方に土も草の種もついていないことを不思議がった。
「あなたは、なぜ朝になる前に帰ってしまうのですか。私はあなたの妻でありながら、あなたの顔を日の光の下で見たことがありません」
「朝になれば、櫛笥の中を見なさい。ただし、私の姿に驚いてはならない」
百襲姫は夜が明けるまで待ち、白い小袖の袖口を握りしめながら櫛笥の蓋を開けた。中には一匹の小さな蛇がいて、黒い目で百襲姫を見上げていたため、彼女は思わず声を上げ、手にしていた箸を床へ落とした。昨夜の夕餉に使った箸は洗われないまま盆に残り、先には乾いた麦粒が一つ貼りついていた。蛇はたちまち人の姿に変わり、百襲姫の前に立った。
「見るなとは言わなかった。しかし、驚くなと頼んだはずだ。そなたに恥じられた以上、私は三輪山へ帰らねばならない」
「お待ちください。声を上げたのは、あなたを嫌ったからではありません。私が知らない姿を、受け止める支度ができていなかったのです」
大物主大神は答えず、朝霧の向こうへ消えた。百襲姫は裸足のまま庭へ出たが、砂利が足の裏に食い込み、三輪山へ続く空には一羽の鳥さえ飛んでいなかった。部屋へ戻ると、小夜が昨日洗った麻衣を畳んでおり、袖のほつれを見つけて小さく舌を鳴らしていた。いつもと変わらない手仕事が続く中で、百襲姫は床に落ちた箸を拾い、自分が失ったものの重さを初めて知った。
「小夜、人は国のためなら何度でも立ち上がれるのに、たった一人の前では、どうしてこれほど愚かになるのでしょう」
百襲姫の手から箸が滑り、身に深い傷を負わせた。小夜が叫び声を上げて駆け寄り、白い布を何枚も押し当てたが、布はすぐに色を変えた。百襲姫は小夜の手首をつかみ、泣いている暇があるなら朝の粥を焦がさないよう火を弱めなさいと告げた。土鍋からは米の甘い匂いが立ち、蓋の隙間から白い湯気が細く伸びていた。
「大王に伝えてください。神を恐れるだけではなく、民の声を聞いてください。道の石一つ、空の椀一つにも、国の姿は現れます」
百襲姫が亡くなると、人々は昼に土を運び、夜には松明を掲げて大きな墓を築いた。男たちは土を盛り、女たちは小石を手渡し、子どもたちは籠の底に残った土まで指でかき集めた。作業の合間には塩を振った握り飯と干した魚が配られ、皆は袖で汗を拭きながら、百襲姫が疫病の時に穀物を分けたことや、割れた甕を持つ少年を叱らなかったことを語った。墓はやがて箸墓と呼ばれ、その姿は三輪山を望む大和の地に長く残った。
「姫様、今日も三輪山がよく見えます」
年老いた小夜は墓のそばに座り、竹皮に包んだ粟の握り飯を一つ供えた。彼女の衣は何度も継ぎ当てられ、腰の袋には古い糸巻きと、百襲姫の裳を繕った赤い糸が残っていた。風が吹くと、田で働く人々の声と、どこかの家で焼く鮎の匂いが運ばれてきた。小夜は墓の土を手のひらで整え、あの朝に姫が残した空の椀を思い出しながら、ゆっくりと立ち上がった。




